夫の言い分 妻の言い分
会社を出て十五分歩き、山手線で二十分揺られ、駅のホームで十分待ち、埼京線で八十五分の瞑想時間を経て、さらに地方ローカル線で四十分過ごして、最後に三十分歩く事で、俺は自宅に到着した。
多分俺は、一億人以上が住むこの国、日本でも、長い通勤時間の持ち主だと思う。
それは俺が決意を固めた理由の一つではある。だけど、小さな理由、取るに足らない理由でしかない。
鞄に目をやり、透視するがの如く、見えないはずの緑色の紙を見つめる。
俺は覚悟を決め、玄関の鍵を開け、ドアを開ける。チェーンがかかっていた。
こんな小さな事でも、瞬間湯沸かし器もビックリな速度で、瞬時に俺の怒りが頂点に達した。
ドアの小さな隙間から妻を怒鳴りつけそうになったが、こう言う時は、冷静な態度の方がスムーズに事が進むはずだ。
俺は気を落ち着かせた。
俺たち夫婦は、今日、離婚届にサインするのだから……。
俺が呼び鈴を押すと、出迎えに来た妻は、不機嫌そうだった。いつもこの態度だ。
「おかえりなさい」
妻が言った一言は、本当に一言だけで、俺の感情を逆なでするものだった。
飯が目当てのペットだってもっと愛想良く出迎えてくれるはずだ、と思うのだが、それも俺が決意を固めた理由としては、小さな理由に過ぎない。
それから、俺は上着だけを脱ぎ、Yシャツとズボンのまま、食卓に座る。
隣の椅子には、離婚届が入っている鞄を置く。
妻は無言のまま、野菜炒めをレンジで暖め、無言のまま、乱暴に、野菜炒めをテーブルに落とすように置く。
数分前の俺に問いかける。
冷静でいろだって? 無理だろ?
「おい!」
俺は怒鳴った。
だけど。
待ってましたと言わんばかりに、怒涛の文句が出たのは、妻の口からだった。
「今日の野菜炒めは特別なの。なにせ、三十分も歩いて材料を買いに行ったのよ。ついでに高いお肉も使ったけど、それはどうだって良いよね」
妻のこの嫌味も、いつもの事だ。
「一番近いスーパーが、徒歩三十分もかかるなんて、素敵な場所よね。と言うか、この辺にスーパーは一つしかないのよ! 酷い話だと思わない?」
五月蝿い。
「一番近いコンビニだって徒歩十五分もかかるわ。と言うか、近所に一つしかないの! この街には、遊ぶ場所もなければ、おしゃれな飲食店も無いよね」
五月蝿い!
妻のこれらの嫌味も、俺が決意を固める理由の一つでもある。
それは、大きめな割合を占めているのだが、決定打ではない。
「誰のせいで、こんな不便な街に住まなきゃいけないのかしら? 嫌になっちゃう!」
これだ。
毎日聞かされる、この台詞。
これが、俺の決意を固めた、一番の理由なんだ。
確かに、俺の収入で、都内に一軒家を買うのは無理なんだ。
それはわかる。
だけど。
都内の2LDKのマンションじゃ嫌だ。絶対にマイホームが良い。と駄々をこねたのは妻だ。
誰のせいで、こんな生活を送るのかって?
お前のせいだろ。
女って生き物は、都合の悪い過去を忘れる生き物らしい。
腹立たしい。
「いい加減にしろ!」
俺は机を叩いた。野菜炒めの皿が、テーブルから落ちそうになる。
そんな事はどうだって良い。
「何よ! 大きな声出さないでよ! ドメスティックバイオレンスよ!」
妻は叫ぶ。
女のヒステリックな悲鳴はドメスティックバイオレンス、つまりは家庭内暴力にはならいのか?
それよりもだ。
妻の悲鳴と同時に、野菜炒めが空中散歩をしている事が、問題だ。
俺の晩御飯のおかずが、『食べ物』と言うステータスを失っていく瞬間だった。
これこそ、ドメスティックバイオレンスだろ!
もう駄目だ。
我慢できない。
話し合いをする必要も無い。
俺は立ち上がり。
「誰のせいだって? お前のせいだろ! 俺は何度も反対したぞ。それでも、将来ペットが欲しいだの、将来の子供のためだの……。どうしても、不便でも、一軒家が欲しいと言ったのは、お前じゃないか?」
この家に住み初めてから、今日まで一度として、口に出さなかった不満を、妻にぶつけた。そして。
「もう、俺たちは終わりだ」
俺は離婚届を鞄から取り出し、机に置いた。
しかし。
妻が離婚届を見ることはなかった。
先ほど皿を投げた妻は、地べたに座り泣き崩れている。
「だってぇ~。あなたとの時間が減るのが、こんなに辛いとは思わなかった。あなたに会えないのが辛いのよ。だから、いつもイライラするの……。抑えきれないの……。ゴメンなさい……。ゴメンね」
女と言う生き物は、物事を理論的に考える事ができないのか?
いつだって、感情で物事を考え、判断し、行動する。
質問の答えだって、感情論で答える。
しかもワガママだ。
実に許しがたい。
理解に苦しむ。
同じ人間とは思えない。
そして、なんて可愛い生き物なんだよ!
俺は破れるのも、しわくちゃになるのも、気にせずに、乱暴に離婚届を鞄にしまった。
そして、何も言わずに妻を抱きしめた。
「と言う事があったんですよ~」
私は昨日の夫との喧嘩を、近所の奥様たちに報告する。
夫は知らない。週に五日、十四時から十六時に開かれている、奥様サミットの存在を。
「それで、解決しちゃったわけ? 本当に男って単純よね~」
そう言って、鈴木さんはティーカップを口に運ぶ。
夫は知らない。そのティーカップの中身が、一杯が三百円の、高級ティーパックから作られている事を。
「男は現実を見る力が足りないのよ! 夢の中に住む、愚かな生き物よね~。私の夫も、先月に、今まで楽器に触った事すらないのに、『ミュージシャンを目指す』なんてギターを買ってきたのよ! 毎晩五月蝿くてしょうがないわ……」
そう言って、田中さんはクッキーを一つ食べる。
夫は知らない。そのクッキーが一箱千六百円もする事を。
「やっぱり、『亭主元気で留守が良い』よね~」
夫は知らない。このサミットでは、佐藤さんのこの台詞が必ず出ることを。
それでも、夫は知ってしまった。
私たちの本当の気持ち、私たちの後悔を。
素直になれなくてゴメンなさい。
いつもお疲れ様です!
この時は、誰も言葉に出さなかったけど……。
この日を境に、私たちのサミットは、月間予算を大幅に縮小する事になった。
それでも、夫の小遣いが増える事は無い。
男と言う生き物は、少なくとも私の夫は、貯金とは無縁の生き物なのだから。