毒殺未遂の罪で婚約破棄されましたが、無実なので王家への支援を打ち切ります。一度捨てた女に戻ってきてほしいと言われても、もう遅いです
第一章 祝福なき卒業舞踏会
「エレノア・グランフェル。貴様との婚約を、今この場をもって破棄する!」
王立学院の卒業舞踏会。
まばゆいシャンデリアの下で、第一王子リュシアンの声が高らかに響いた。
音楽は止まり、誰かの落としたグラスが床で砕ける。数百人の貴族たちが見守るなか、深紅のドレスをまとったエレノアは、静かに扇を閉じた。
彼女の正面には、金髪碧眼のリュシアン。
その腕には、淡い桃色のドレスを着た少女がしがみついている。
ミレイユ・ローレン。
子爵家の庶子として育ち、半年前に学院へ編入してきた少女だった。
「理由をお尋ねしても?」
エレノアは淡々と問いかけた。
その声には震えも、怒りもない。
むしろ、それがリュシアンを苛立たせたらしい。
「まだしらを切るつもりか! 貴様はミレイユを階段から突き落とし、教科書を破り、さらには毒まで盛ろうとした!」
「まあ……」
エレノアは小さく息を吐いた。
リュシアンの腕の中で、ミレイユが肩を震わせる。
「わ、わたしは……エレノア様を責めたいわけではありません」
か細い声だった。
「きっとエレノア様も、リュシアン様を愛するあまり、心を乱されてしまっただけなのです。ですから、どうか重い罰だけは……」
涙を浮かべながら、彼女はリュシアンを見上げた。
その姿に、周囲の令息たちは同情をにじませる。
「なんと健気な」
「自分を殺そうとした相手をかばうなど……」
「それに比べ、グランフェル公爵令嬢は恐ろしい女だ」
ささやき声が広がっていく。
エレノアは聞こえないふりをした。
今この場で反論しても、誰も信じないだろう。
誰もが、涙を流す少女のほうを信じたがる。
事実よりも、物語を。
証拠よりも、自分が美しいと思える筋書きを。
「証拠はございますか?」
エレノアが尋ねると、リュシアンは勝ち誇ったように一枚の紙を掲げた。
「ここにある! ミレイユに毒を盛るよう侍女へ命じた、貴様の直筆の手紙だ!」
手紙が近衛騎士へと渡される。
内容を読み上げられると、会場にどよめきが起きた。
エレノアは眉ひとつ動かさなかった。
「なるほど。確かに、筆跡はわたくしのものによく似ております」
「認めるのだな!」
「いいえ。似ている、と申し上げたのです」
「言い逃れをするな!」
リュシアンが剣の柄に手をかける。
エレノアは、その姿を見ながら、ほんの少しだけ悲しくなった。
八歳のときから婚約していた。
王妃になるため、十年間学び続けた。
歴代王の名を覚え、外交儀礼を身につけ、領地経営を学び、飢饉への備えを整えた。読み書きのできない民のために簡易学校を設け、疫病が流行ったときには自ら薬草の配給を指揮した。
すべては、この国の未来のため。
隣に立つはずだった彼のため。
だが、リュシアンは一度もそれを見なかった。
彼が見ていたのは、自分を称賛し、甘い声で頼り、無条件に肯定してくれる少女だけだった。
「最後に、一つだけ確認させてくださいませ」
エレノアは微笑んだ。
「殿下は本当に、わたくしとの婚約を破棄なさるのですね?」
「ああ。二言はない」
「国王陛下と王妃陛下の許可は?」
リュシアンの表情が一瞬だけ固まった。
しかし、すぐに胸を張る。
「父上も母上も、真実を知れば認めてくださる」
「つまり、許可はいただいていないのですね」
「なっ……」
「では、これは王家の正式な決定ではなく、リュシアン殿下個人のお考えということでよろしいでしょうか」
「そうだ! だが私は次期国王だ。私の決定は、いずれ国の決定となる!」
その瞬間、会場の隅に立っていた王国宰相が、苦虫を噛み潰したような顔をした。
エレノアは見逃さなかった。
けれど、もう遅い。
「承知いたしました」
エレノアは優雅に一礼する。
「第一王子リュシアン殿下からの婚約破棄、謹んでお受けいたします」
会場が静まり返った。
リュシアン自身も、エレノアが泣いてすがるとでも思っていたのだろう。呆気にとられている。
「そ、それだけか?」
「ほかに何か?」
「謝罪しろ! ミレイユに!」
「いたしません」
「貴様!」
「身に覚えのない罪について、謝罪することはできません。謝罪とは真実に対して行うもの。殿下のご機嫌を取るために行うものではございませんから」
「不敬だぞ!」
「婚約は、たった今破棄されました。わたくしはもはや殿下の婚約者ではなく、グランフェル公爵家の人間です」
エレノアは扇を胸元に添えた。
「公爵令嬢を正式な裁判もなく侮辱し、拘束するおつもりですか?」
リュシアンは言葉に詰まった。
グランフェル公爵家は、王国北部に広大な領地を持つ。
大陸最大級の銀鉱山。
豊かな穀倉地帯。
王都へ流れる川の水源。
さらに、王国軍の三分の一を支える北方騎士団。
それらすべてを管理しているのが、グランフェル家だった。
第一王子といえども、簡単に手を出せる相手ではない。
「わたくしは公爵家へ戻ります」
エレノアはそう告げると、ミレイユへ視線を向けた。
少女はリュシアンの陰に隠れながら、ほんの少し口元を上げていた。
勝った。
そう信じている顔だった。
「ミレイユ様」
名を呼ばれ、彼女の肩が跳ねる。
「は、はい」
「王太子妃の座を望むのでしたら、これからお忙しくなりますわね」
「そんな……わたしは地位なんて……」
「三か国語はお話しになれて?」
「え?」
「国家予算の内訳はご存じ? 王国西部の干ばつ対策は? 北部国境をめぐる帝国との条約は? 春に予定されている神聖国の使節団について、宗教上避けるべき食材を説明できますか?」
「そ、それは……」
「ご存じありませんのね」
エレノアは穏やかに微笑んだ。
「ですが、ご安心ください。愛さえあれば、きっと国も民も救えるのでしょう」
「待て、エレノア!」
背を向けた彼女を、リュシアンが呼び止める。
「公爵家の財産と事業については、これまでどおり王家に協力させる。これは王命になると思え!」
エレノアは振り返らなかった。
「王命で愛まで徴収できるとよろしいですわね、殿下」
真紅のドレスの裾が、磨き上げられた床を滑る。
人々が道を空ける。
その夜、悪役令嬢と呼ばれたエレノアは、たった一人で舞踏会場を後にした。
涙は流さなかった。
泣くにはもう、彼女はあまりに多くのものを諦めていた。
第二章 公爵令嬢の置き土産
王都の公爵邸へ戻ると、エレノアの父であるアルベルト・グランフェル公爵が待っていた。
「遅かったな」
「申し訳ございません、お父様」
「婚約を破棄されたそうだな」
「情報が早いのですね」
「近衛の半分は、北方騎士団出身だ」
アルベルトは机に酒瓶を置いた。
厳格な父だった。
娘を抱きしめるような人ではない。
幼いころ、エレノアが熱を出したときですら、寝台の横に座って黙って書類を読んでいた。だが翌朝になると、王都中から集められた薬が部屋の前へ山のように積まれていた。
そんな不器用な父である。
「泣くか?」
「いいえ」
「怒っているか?」
「少しだけ」
「そうか」
アルベルトは二つのグラスへ酒を注いだ。
「ならば、怒れ」
娘の前に一本を置く。
「我慢する必要はない。グランフェルの人間が、理由もなく頭を下げる必要もない」
「ですが、わたくしが怒れば、多くの方が困ります」
「お前は王妃ではない」
父の言葉に、エレノアは目を見開いた。
「もう国中の都合を考えなくていい。誰かの役に立つためだけに生きるな。お前がどうしたいのか、それだけを言え」
エレノアはグラスを見つめた。
自分がどうしたいか。
そんなことを、考えたことがなかった。
王太子妃になるため。
国を支えるため。
王家の役に立つため。
常に自分以外の誰かを基準に生きてきた。
「わたくしは……」
唇がわずかに震える。
「わたくしは、逃げたくありません」
「うむ」
「毒を盛ろうとしたなどという汚名を着せられたまま、領地へ引きこもるのは嫌です。真実を明らかにしたい。殿下にもう一度愛してほしいのではありません。ただ、わたくしが罪人ではないと証明したいのです」
「ならば、そうしろ」
アルベルトは即答した。
「お父様は、わたくしを信じてくださるのですか?」
「信じる必要すらない」
「どういう意味でしょう」
「お前は毒を使うほど愚かではない。殺すなら、法と証拠で徹底的に殺す」
「お父様」
「褒めている」
エレノアは思わず笑った。
ずっと固まっていた胸の奥が、少しだけほどけていく。
「それで、何が必要だ?」
「王家に提供しているすべての支援について、見直しを」
エレノアは鞄から帳簿を取り出した。
卒業舞踏会へ行くときも持ち歩いていたものだ。
「王都の街灯事業、孤児院への食料供給、国境砦への武器提供、王立学院の奨学金制度。それから王家に無償で貸与している公爵邸別館と、王宮で使用されている魔石の契約を停止します」
「すべてお前が管理していたものだな」
「はい。正式な契約に基づく支援ではありません。未来の王太子妃として、王家の負担を減らすために行っていた個人的な協力ですから」
「婚約がなくなった以上、続ける義務もない」
「そのとおりです」
「いつ止める?」
「今夜です」
アルベルトの口元に、獰猛な笑みが浮かんだ。
「よろしい」
エレノアは呼び鈴を鳴らした。
執事長が現れる。
「商会長たちへ連絡を。夜分でも構いません。グランフェル家の無料支援をすべて停止します。ただし、孤児院と施療院への供給は継続してください。王家を通さず、直接届けさせます」
「かしこまりました」
「それから、明朝までに王都の使用人を全員北部へ戻します。王宮へ派遣している料理人、庭師、文官、侍女もです」
「一人残らず、でございますか?」
「希望者は全員」
執事長は深々と頭を下げた。
「皆、喜ぶことでしょう」
エレノアは少し驚いた。
「喜ぶ?」
「王宮へ派遣された者たちは、エレノア様への陰口を聞かされ続けておりましたから。正式な命令がないため耐えておりましたが、昨今はひどい扱いだったと聞いております」
「報告にはありませんでした」
「エレノア様を心配させたくなかったのでしょう」
知らなかった。
自分だけではない。
自分に仕えるという理由で、使用人たちまで冷遇されていたのだ。
「わかりました。帰ってきた者には、十分な休暇と手当を」
「承知いたしました」
執事長が去ったあと、アルベルトが尋ねる。
「証拠はどう探す?」
「筆跡を偽造した者を見つけます」
「見当は?」
「ございます」
エレノアは毒殺を命じたという手紙を思い出す。
筆跡は精巧だった。
だが、一か所だけ妙な部分があった。
エレノアは手紙で「あなた」と書く際、必ず古い綴りを使用する。しかし偽造された手紙では、現在一般的に使われている綴りだった。
その癖を知る者は多くない。
けれど、筆跡そのものを真似するには、何度も彼女の書いた文字を見る必要がある。
王宮へ送った書類。
学院の課題。
あるいは、私的な手紙。
「わたくしの側近だった者を、全員調べます」
「つらい仕事になるぞ」
「覚悟しております」
「では、一人紹介しよう」
アルベルトは扉へ向かって声をかけた。
「入れ」
扉が開き、長身の青年が姿を現す。
黒い髪に、灰色の瞳。
黒地の軍服には、北方騎士団の銀狼の紋章が刺繍されていた。
「カイル・ヴァレンシュタインと申します」
青年は片膝をついて頭を下げる。
「本日より、エレノア様の護衛を務めます」
「ヴァレンシュタイン……帝国の?」
「元帝国人です。今はグランフェル公爵閣下に忠誠を誓っております」
その名を、エレノアは知っていた。
帝国皇帝の甥。
かつて皇位継承争いに巻き込まれ、反逆者として追放された青年。
北方の戦場で瀕死になっていたところを、父が救ったと聞いている。
「お父様。護衛だけにしては、ずいぶん大物ではありませんか」
「腕が立つ。頭も悪くない。それに王都の貴族としがらみがない」
アルベルトはカイルを見る。
「娘を守れ」
「命に代えましても」
「命に代えるな。生きて守れ」
「承知いたしました」
カイルが立ち上がる。
エレノアを見つめる灰色の瞳に、同情はなかった。
憐れみもない。
ただ、主君を見定めるような鋭い光がある。
エレノアは彼へ手を差し出した。
「よろしくお願いいたします、カイル様」
カイルはその手を取り、甲へ唇を寄せる。
「どうぞカイルとお呼びください、エレノア様」
「では、わたくしのこともエレノアと」
「それは難しい命令です」
「なぜ?」
「あなたを呼び捨てにすると、閣下に斬られそうです」
アルベルトが無言でうなずいた。
エレノアは再び笑った。
婚約を破棄された夜。
すべてを失ったと思っていた。
だが、実際には違った。
失ったのは、自分を愛さなかった男との関係だけ。
代わりに彼女は、ずっと忘れていた自分自身を取り戻し始めていた。
第三章 愛では灯らない街
婚約破棄から三日後。
王都の夜から、光が消えた。
大通りに並ぶ魔石灯が一斉に停止したのである。
魔石灯の所有者は王家ではない。
グランフェル公爵家が管理する商会だった。
街灯の維持には莫大な費用がかかる。これまでエレノアが王都の治安維持を名目に、その費用を肩代わりしていた。
婚約を破棄された以上、続ける理由はない。
王宮でも混乱が起きた。
厨房から料理人が消えた。
庭師も侍女も文官も、そろって辞表を提出した。
国境砦へ送られるはずだった武器と食料は、公爵家の倉庫で止められた。王立学院には、次年度から奨学金制度を打ち切るという通知が届いた。
もっとも、奨学生たちへの支援が消えたわけではない。
エレノアは北部に新たな学院を設立し、希望者を全員受け入れると発表した。
王立学院に金が入らなくなるだけだった。
「なぜ勝手なことをする!」
王宮へ呼び出されたエレノアに、リュシアンは書類を投げつけた。
紙が床へ散らばる。
エレノアは拾わなかった。
国王オーギュストと王妃イザベルも同席している。
国王は疲れ切った顔で額を押さえていた。王妃は冷たい視線を息子へ向けている。
「勝手なこととは?」
「王都への支援を停止したことだ!」
「すべてグランフェル公爵家の資産です。王家と正式な契約を結んでいたものではありません」
「これまでは提供していただろう!」
「わたくしが王太子妃となる前提で、協力しておりました」
「それを続けろと言っている!」
「お断りいたします」
「王命だぞ!」
「では、正式な命令書をご用意ください」
エレノアは国王へ視線を向ける。
「他家の私有財産を無償で差し出せという王命に、陛下の署名と王家の印章をお願いいたします」
オーギュストが顔をしかめる。
そんな命令書を発行すれば、王家が公爵家から財産を強奪したことになる。
国内の有力貴族たちが一斉に反発するだろう。
「そのような王命は出しておらぬ」
国王が低い声で言った。
「父上!」
「黙れ、リュシアン!」
広間が震えた。
「余はお前に、婚約を破棄する権限など与えておらぬ! 独断で公爵家を侮辱したばかりか、その財産まで奪うつもりか!」
「しかし、エレノアは罪人です!」
「裁判は開かれておらぬ。証拠の精査もしておらぬ。罪人と決めつける権利が、お前のどこにある!」
リュシアンは青ざめる。
その隣で、ミレイユが怯えたように身体を寄せた。
「陛下……どうか、リュシアン様をお責めにならないでください。すべては、わたしのせいです」
「そうだ!」
リュシアンは彼女の肩を抱く。
「ミレイユは何も悪くない。彼女は被害者だ!」
王妃イザベルが、深いため息をついた。
「ミレイユ嬢。あなたに発言は許可していません」
「申し訳……ございません」
「それからリュシアン。公の場で未婚の令嬢へそのように触れるのはやめなさい。彼女を王太子妃にするつもりなら、なおさら節度を守りなさい」
「母上まで……」
「味方をしてほしいのなら、味方ができるだけの理性を示しなさい」
リュシアンは悔しそうに唇を噛んだ。
国王はエレノアへ向き直る。
「エレノア嬢。息子の愚行について、王家を代表して謝罪する」
「陛下がお謝りになることではございません」
「婚約破棄は撤回させる。公爵家への支援も……」
「お断りいたします」
エレノアの返答に、国王の言葉が止まった。
「婚約破棄は、すでに受け入れました」
「だが、あれはリュシアンの独断だ」
「大勢の貴族の前で宣言されました。今さらなかったことにはできません」
「エレノア!」
リュシアンが声を荒らげる。
「いい加減に意地を張るのはやめろ! お前が反省するなら、側妃として迎えてやってもいい!」
一瞬の静寂。
国王は目を閉じた。
王妃は扇で顔を覆った。
エレノアの後ろに立つカイルは、腰の剣へ手を伸ばしかけている。
「リュシアン殿下」
エレノアは静かに尋ねた。
「わたくしは、殿下を愛しているように見えますか?」
「何?」
「かつては、お慕いしておりました」
十年という歳月。
それは偽りではない。
彼が初めて剣術大会で勝利した日。
緊張しながら、王宮の庭で一輪の花を渡してくれた日。
熱を出したエレノアのため、見舞いの手紙を書いてくれた日。
すべて覚えている。
あのころの少年は、確かに優しかった。
「ですが、今はもう、何も感じません」
「嘘だ」
「嘘ではございません」
「私を愛していたはずだ!」
「愛していたからこそ、失望したのです」
リュシアンの顔から血の気が引いていく。
「深く愛していたぶん、失われたものも大きかった。今の殿下を見ても、かつての思い出が遠く感じられるだけです」
「ならば、なぜ王宮へ来た!」
「陛下からお呼び出しを受けたからです」
「私に会うためではないと?」
「はい」
きっぱりと答える。
リュシアンは傷ついた顔をした。
自分から捨てた女が、いつまでも自分を愛していると思っていたのだろう。
泣きながら許しを請い、ほんの少し優しくすれば戻ってくると。
どれほど傲慢なのか。
「陛下」
エレノアは国王を見る。
「毒殺未遂の件について、正式な裁判をお願いいたします」
「裁判だと?」
リュシアンが目を見開く。
「わたくしが犯人であるなら、法によって裁かれるべきです。そうでないなら、真犯人を見つけなければなりません」
「よかろう」
国王はうなずいた。
「七日後、王立法廷を開く。エレノア・グランフェル、ミレイユ・ローレン、双方の主張をそこで聞く」
ミレイユの顔が強張る。
ほんの一瞬。
けれど、エレノアは確かに見た。
怯えではない。
焦りだ。
「承知いたしました」
エレノアは一礼する。
そのとき、広間の扉が開いた。
「陛下、火急のご報告が!」
伝令の騎士が駆け込んでくる。
「北部国境付近で帝国軍の動きを確認! およそ二万の兵が集結しております!」
王宮に緊張が走った。
リュシアンがエレノアをにらむ。
「公爵家が武器を止めたからだ! この責任をどう取る!」
「殿下」
エレノアは冷たく言った。
「王国軍の装備を、公爵家の善意だけに頼っていたことを恥じるべきでは?」
「貴様……!」
「それに、ご安心ください」
エレノアはカイルを見る。
カイルは静かにうなずいた。
「帝国軍は、王国を攻めません」
国王が眉をひそめる。
「なぜわかる?」
「帝国軍二万は、王国へ攻め込むために集まったのではありません」
カイルが一歩前へ出た。
「グランフェル公爵領を、王国から守るために集結したのです」
「何だと?」
「エレノア様が王家から不当な処罰を受けた場合、帝国はグランフェル公爵領の独立を支持します」
「待て。そなたは何者だ」
カイルは懐から銀色の紋章を取り出した。
双頭の鷲と、黒い狼。
帝国皇族の証だった。
「カイル・アーベル・ヴァレンシュタイン。帝国皇帝陛下の甥にして、北方辺境伯の地位を与えられた者です」
リュシアンが後ずさる。
ただの護衛だと思っていた男が、敵国の皇族だったのだ。
「これは侵略か!」
「いいえ」
カイルは冷静に答える。
「帝国に侵略の意思はありません。我が軍は国境を越えない。ただし、エレノア様が裁判もなく処刑されるようなことがあれば、話は別です」
灰色の瞳がリュシアンを射抜いた。
「その場合、私は彼女を保護するため、いかなる手段も惜しまない」
「たかが追放された皇族が!」
「私は三年前、皇帝陛下より恩赦を受けています」
カイルは薄く笑った。
「王宮には知らせていたはずですが。エレノア様が外交文書を確認していたころは、見落としなどなかったのでしょうね」
国王と王妃が、同時にリュシアンを見る。
エレノアが婚約者の地位を退いてから、帝国に関する報告書を確認する者がいなくなっていた。
リュシアンは一言も返せない。
「では、七日後に」
エレノアは優雅に一礼した。
王宮を去る彼女を、今度は誰も止められなかった。
第四章 笑顔の裏側
裁判まで、残り五日。
エレノアは学院時代に自分の身の回りを担当していた者を調べ始めた。
最も疑わしいのは、元侍女のナディアだった。
ナディアは一年前までエレノアに仕えていたが、病気の母の看病を理由に職を辞めている。
ところが調査の結果、彼女の母親は病気ではなかった。
それどころか、ナディアは王都の一等地に小さな屋敷を購入していた。
「侍女の給金では、とても買えない金額です」
カイルが報告書を机へ置く。
「支払ったのは?」
「ローレン子爵家と関係のある貿易商です。ただし、金の出所はまだ調べています」
「ナディア本人は?」
「昨日から姿を消しています」
「証拠を消されますわね」
「すでに子爵家から数名が屋敷へ向かっています」
エレノアは席を立つ。
「参りましょう」
「危険です」
「だからこそ、あなたがいるのでしょう?」
カイルは何か言いかけたが、やがて笑った。
「あなたは、本当に人使いが荒い」
「嫌でしたら、護衛をお辞めになっても構いません」
「それはもっと嫌ですね」
二人は馬車へ乗り、ナディアの屋敷へ向かった。
到着したとき、裏庭から煙が上がっていた。
「火事です!」
カイルが馬車から飛び降りる。
黒衣の男たちが、屋敷から逃げ出してくるところだった。
カイルは一人の足を払い、地面へ倒す。もう一人が短剣を抜くが、鞘に収めたままの剣で手首を打った。
短剣が地面へ落ちる。
「馬車から出ないでください!」
そう言われた直後、三人目の男が反対側から扉を開けた。
エレノアへ手を伸ばす。
しかし彼女は、座席の下に隠していた小型の弩を取り出した。
矢が男の肩をかすめ、背後の扉へ突き刺さる。
男が凍りついた。
「次は外しません」
エレノアが告げる。
ほどなく、三人の襲撃者は全員拘束された。
カイルが馬車の中をのぞき込み、深々とため息をつく。
「弩を扱えるとは聞いていませんでした」
「王太子妃教育の一環です」
「王太子妃は弩を撃つのですか?」
「暗殺者を返り討ちにできる程度の技量は必要だと、王妃陛下が」
「この国の王太子妃教育は、ずいぶん実践的ですね」
「王太子が頼りない場合に備えているのかもしれません」
カイルは笑いをこらえきれなかった。
火はすぐに消し止められた。
屋敷の一室は焼けたものの、地下室は無事だった。
そこから見つかったのは、大量の手紙と薬品。
そして、エレノアの筆跡を何度も練習した紙束だった。
「これで偽造は証明できます」
エレノアは紙を確認する。
だが、カイルの表情は険しい。
「肝心のナディアがいません。本物の手紙を偽造した人物が彼女だと証言する者もいない」
「この薬品は?」
「毒ではありません。眠り薬です」
「眠り薬……」
ミレイユは毒を盛られかけたと証言した。
だが、彼女が倒れた際に使用された食器は、すぐに処分されている。毒物の検査は行われていない。
医師はミレイユの証言と症状だけを見て、毒物の可能性があると診断した。
もし、最初から毒などなかったとしたら。
「ナディアは自分の意思で協力したのでしょうか」
エレノアがつぶやく。
「どういう意味です?」
「これほど多くの証拠を、自宅へ残すでしょうか。自分が疑われるとわかっているのに」
「誰かに命じられていた?」
「あるいは、脅されていた」
そのとき、背後で物音がした。
カイルが剣を抜く。
地下室の棚が、わずかに動いていた。
その奥に小さな空間があり、一人の少女が隠れている。
「殺さないで!」
少女は顔を覆った。
ナディアだった。
ひどく痩せ、頬には殴られた痕がある。片方の足首には鎖が巻かれていた。
エレノアは驚きながら、彼女の前へしゃがんだ。
「ナディア」
「お嬢様……」
「何があったのです」
「申し訳、ございません」
ナディアは床に額をつけた。
「わたしが、手紙を書きました。お嬢様の文字を真似て……毒を盛るよう命じる手紙を……」
「なぜ?」
「弟を、人質に取られたのです」
声を詰まらせる。
「一年前、弟が賭博場で借金を作りました。返せなければ弟を殺すと脅されて……言うとおりにすれば助けると……」
「誰に命じられたのです?」
ナディアは震えた。
「ローレン子爵です」
ミレイユの父。
だが、それだけではない。
「子爵は、殿下とミレイユ様を結婚させるつもりでした。ミレイユ様が未来の王妃になれば、子爵家は王家の外戚になれるから……」
「ミレイユ様は、この計画を?」
「知っています」
ナディアは涙を流した。
「いいえ。知っているどころか……全部、あの方が考えたことです」
エレノアは息をのんだ。
「子爵ではなく、ミレイユ様が?」
「幼いころから父親に認められず、虐げられてきたと話していました。王太子妃になれば、誰も自分を見下せなくなると。それで……」
ナディアは小さな鍵を差し出した。
「証拠があります。床下の箱です」
カイルが床板を外す。
鍵のかかった木箱が現れた。
中には、ミレイユからナディアへ送られた手紙が入っていた。
階段から落ちる日時。
教科書を破る場所。
眠り薬を食事へ混ぜる手順。
そして、エレノアの筆跡で偽の命令書を書くよう指示する文面。
すべてミレイユ自身の筆跡だった。
「なぜ、これを残したのです?」
エレノアが尋ねる。
「怖かったからです。いつか、すべてわたしのせいにされると思って……」
その予感は的中していた。
ローレン子爵は証拠を処分するため、屋敷へ男たちを送り込んだ。ナディア自身も殺すつもりだったのだろう。
「弟はどこに?」
「もう……死んでいます」
ナディアの声は空虚だった。
「三日前、遺体が川で見つかりました。だから、逃げる意味もなくなって……」
エレノアは目を伏せる。
ナディアのしたことを、許せるわけではない。
彼女の偽造した手紙によって、エレノアは罪人にされかけた。
けれど、弟を人質にされ、不正へ手を染めた彼女もまた、被害者だった。
「裁判で証言していただきます」
「はい」
「あなたの罪については、隠しません」
「覚悟しております」
「ですが、事情はすべて法廷で説明します。あなたが一人ですべての罪を背負う必要はありません」
ナディアは顔を上げた。
「どうして……」
「何がです?」
「どうして、お優しくしてくださるのです。わたしは、お嬢様を裏切ったのに」
「優しさではありません」
エレノアは立ち上がる。
「真実を明らかにするには、あなたの証言が必要です。それだけです」
「それでも……」
ナディアは泣き崩れた。
エレノアは背を向ける。
自分でもわかっていた。
これは優しさなどではない。
かつて信頼していた侍女を、憎みきれないだけだ。
地上へ戻ると、夕暮れの光が差していた。
「無理をしていませんか」
カイルが隣に立つ。
「しておりません」
「あなたは嘘が下手ですね」
「王宮では一度も言われませんでした」
「あそこでは、誰もあなたを見ていなかったのでしょう」
エレノアは何も答えなかった。
その言葉が、思いのほか深く胸へ刺さったからだ。
カイルは彼女の手に触れた。
指先だけを、そっと握る。
慰めるでもなく、引き止めるでもなく。
ここにいる。
ただ、それを伝えるような触れ方だった。
「裁判には、私も同行します」
「護衛ですものね」
「それだけではありません」
カイルは彼女を見つめる。
「私が、あなたの隣にいたいのです」
エレノアは目をそらした。
頬が熱くなっている。
「今は、返事をいたしません」
「ええ。今はそれで十分です」
彼は手を離した。
けれど、その温度はいつまでも残っていた。
第五章 王立法廷
七日後。
王立法廷には、王国中の有力貴族が集められていた。
中央には国王オーギュスト。
その右に王妃イザベル。
左に第一王子リュシアンが座り、その後ろにはミレイユとローレン子爵が控えている。
エレノアは被告の席へ立った。
けれど、俯くことはなかった。
「審理を開始する」
国王の宣言により、法廷が開かれる。
最初に提出されたのは、エレノアが毒殺を命じたとされる手紙だった。
リュシアンが立ち上がる。
「この筆跡を見れば、エレノアが犯人であることは明らかです!」
「筆跡が似ているだけでは、証拠になりません」
エレノアが答える。
「ここに、わたくしが過去に書いた手紙を五十通用意しました。偽造された手紙と比較していただきます」
鑑定官が呼ばれる。
一通ずつ調べたあと、鑑定官は結論を述べた。
「問題の手紙は、グランフェル公爵令嬢の筆跡を精巧に模倣したものと思われます」
法廷がざわめく。
「根拠は!」
リュシアンが声を上げる。
「公爵令嬢は『あなた』を意味する単語を書く際、古式の綴りを使用しています。しかし問題の手紙だけは、現代式です。また、文字の始点に不自然なためらいが見られます。誰かが見本を確認しながら、ゆっくり書いた可能性が高いでしょう」
「そんなものは、エレノアがわざと書き方を変えたのだ!」
リュシアンはなおも食い下がる。
「では、証人をお呼びします」
エレノアの言葉とともに、ナディアが法廷へ現れた。
元侍女の姿を見た瞬間、ミレイユの表情が変わった。
「ナディア!」
「お知り合いですか、ミレイユ様?」
エレノアが尋ねる。
「いいえ! ただ、あなたの侍女だった者でしょう?」
「わたくしに仕えていたことをご存じなのですね」
「それくらい、誰でも知っているわ!」
ナディアが証言台に立つ。
「手紙を書いたのは、わたしです」
どよめきが起きた。
「エレノア様の筆跡を真似て、毒を盛るように命じる手紙を書きました」
「誰の命令だ」
裁判長が尋ねる。
ナディアはミレイユを指差した。
「ミレイユ・ローレン様です」
「嘘よ!」
ミレイユが立ち上がった。
「そんな女、知らない!」
「では、こちらをご覧ください」
箱に保管されていた手紙が、証拠として提出される。
鑑定官が筆跡を確認する。
「すべて、ミレイユ・ローレン嬢の筆跡である可能性が極めて高いと思われます」
「でたらめよ!」
「ミレイユ」
リュシアンが彼女を見る。
「これは、どういうことだ?」
「わたしじゃありません! エレノア様が仕組んだのです!」
「では、手紙に記された内容を読み上げます」
エレノアは一通を手に取った。
「十三日午後、薬学棟の階段を利用する。目撃者となる生徒をあらかじめ呼び出し、エレノアが押したと証言させること」
「やめて!」
「次の手紙です。教科書を破り、エレノアの装飾品をその場へ残すこと」
「やめなさい!」
「さらに、眠り薬を食事へ混ぜ、毒を盛られたと訴えること。使用した皿は直ちに処分すること」
「黙れ!」
ミレイユが叫んだ。
か弱く震えていた少女の面影はない。
顔を怒りに歪め、エレノアをにらんでいる。
「あなたさえいなければ!」
法廷が静まり返る。
ミレイユは息を荒らげた。
自分の失言に気づいたのだろう。
けれど、もう遅い。
「なぜです?」
エレノアが尋ねる。
「なぜ、ここまでして王太子妃の座を望んだのです?」
「あなたに何がわかるの?」
ミレイユは震える声で言った。
「生まれたときから、すべてを持っていたあなたに!」
「ミレイユ……」
ローレン子爵が止めようとする。
「お父様は黙っていて!」
彼女は父親をにらみつけた。
「わたしが庶子だからと、ずっと離れで暮らさせた! 食事だって使用人と同じもの。姉たちは宝石を買ってもらえるのに、わたしには古着ばかり!」
「それは、お前の母親が……」
「母の身分が低いから、わたしも価値がないというの?」
涙が頬を伝う。
今度の涙には、演技ではない痛みがあった。
「王太子妃になれば、誰もわたしを見下さない。リュシアン様に愛されれば、わたしを捨てた人たちを全員ひざまずかせられる。だから、何が悪いのよ!」
「そのために罪のない者を陥れたのか」
国王が尋ねる。
ミレイユは笑った。
「罪がない? エレノア様は、存在しているだけでわたしからすべてを奪っていたわ!」
「わたくしは、あなたから何も奪っておりません」
「王太子妃の座を持っていた!」
「それは、わたくしが十年間の教育と責任を背負うことで与えられた立場です」
「生まれただけで選ばれたくせに!」
「生まれによって機会が偏ることは、確かに不公平でしょう」
エレノアはミレイユをまっすぐ見た。
「けれど、あなたの不幸は、他人を傷つける免罪符にはなりません」
ミレイユは何も答えられなかった。
「あなたが父親から受けた仕打ちは、同情すべきものです。ですが、だからといって、ナディアの弟を人質にしてよい理由にはならない。わたくしを犯罪者に仕立ててよい理由にもなりません」
「わたしだって、幸せになりたかっただけよ!」
「幸せは、他人の人生を踏み台にして築くものではありません」
エレノアの声は静かだった。
怒鳴る必要はなかった。
真実は、それだけで十分に重い。
「まだだ!」
リュシアンが立ち上がる。
「ミレイユが計画に関わっていたとしても、エレノアが彼女を苦しめた事実は変わらない!」
「殿下」
エレノアは彼を見る。
「まだ、彼女をかばうのですか?」
「当然だ! 彼女はつらい境遇にあったのだ。少しくらい過ちを犯しても……」
「少しくらい?」
ナディアの声が響いた。
「弟は殺されました」
リュシアンが黙る。
「わたしが言うとおりにしなければ、弟を殺すと脅されました。そして用が済んだら、本当に殺されたのです。それが、少しくらいの過ちなのですか?」
「そ、それはローレン子爵が勝手に……」
「リュシアン様!」
ミレイユが彼へすがりつく。
「わたしを信じてくださいますよね? わたしを愛してくださるのでしょう?」
「あ、ああ……」
「なら、助けてください! 王太子の命令で、エレノア様を捕らえて!」
リュシアンは国王とミレイユを交互に見る。
愛を選ぶのか。
法を選ぶのか。
王太子として、民の命と秩序を守るのか。
ほんのわずかな間、彼は迷った。
そして。
「近衛騎士! エレノアを拘束しろ!」
その命令に従う者は、誰もいなかった。
「何をしている!」
「リュシアン」
国王が立ち上がる。
「今の命令をもって、お前を王太子の地位から解任する」
「父上?」
「罪人を守るため、無実の公爵令嬢を拘束しようとした。しかも、正式な裁判の最中にだ」
「違います! 私はミレイユを……」
「愛しているから何だ!」
国王の怒声が法廷に響く。
「王の愛が、法より上にあると思うか! 王とは、愛する者を好き勝手に守るための地位ではない!」
リュシアンの膝が崩れた。
「王太子の称号、王位継承権、王族として与えた領地をすべて剥奪する。今後は北西部の修道院にて、自らの行いを悔いよ」
「お待ちください! 私はあなたの息子です!」
「だからこそ、もっと早く止めるべきだった」
国王の声には、怒りよりも深い後悔があった。
「お前をここまで愚かにした責任は、父である余にもある」
近衛騎士がリュシアンを取り囲む。
ミレイユが離れようとしたが、彼はその腕をつかんだ。
「待て、ミレイユ! 一緒にいてくれるな?」
「放して!」
「君は私を愛しているのだろう!」
「王太子ではないあなたに、何の価値があるのよ!」
リュシアンの動きが止まった。
法廷にいた誰もが、その言葉を聞いた。
ミレイユはすぐに口を押さえたが、取り消すことはできない。
「今……何と言った?」
「違うの。リュシアン様、今のは……」
「私を愛していると……」
「愛していたわ!」
ミレイユが叫ぶ。
「王太子のあなたを!」
リュシアンは彼女の腕を離した。
顔から、すべての感情が抜け落ちていた。
自分が捨てたもの。
自分が選んだもの。
その差に、ようやく気づいたのだろう。
けれど、遅すぎた。
「ミレイユ・ローレン」
裁判長が告げる。
「虚偽の告発、証拠の偽造、脅迫、監禁、殺人への関与について有罪とする。刑については、後日改めて言い渡す」
「嫌よ!」
ミレイユは騎士に取り押さえられた。
「離して! わたしは王太子妃になるの! こんなところで終わるはずがない!」
叫び声が遠ざかっていく。
ローレン子爵も共犯として拘束された。
最後に残ったのは、エレノアだった。
「エレノア・グランフェル」
国王が彼女の名を呼ぶ。
「これまでの疑いは、すべて誤りであった。王家と法廷の名において、そなたの潔白を宣言する」
エレノアは深く一礼した。
望んでいた言葉だった。
それなのに、喜びよりも先に、長い疲れが押し寄せた。
終わった。
ようやく、終わったのだ。
「そなたには、多大な苦痛を与えた」
国王は続ける。
「望むものがあれば、申してみよ。可能な限りかなえよう」
「では、一つだけ」
エレノアは顔を上げる。
「グランフェル公爵領の自治権を、正式に認めていただきたく存じます」
法廷がざわめいた。
「独立を望むのか?」
「いいえ。王国の領土であることに変わりはございません。ただし、税と軍備については、公爵家の裁量をお認めください」
「王家を信用できぬか」
「はい」
エレノアは迷わなかった。
「今の王家を、信用することはできません」
国王は目を閉じる。
王妃が扇を下ろし、静かに言った。
「当然でしょうね」
「イザベル」
「わたくしたちは、エレノアに頼りすぎました。この子がどれほど王家を支えていたのかを理解せず、息子の愚行を止めることもできなかった。その結果を、受け入れるべきです」
王妃はエレノアを見る。
「あなたに王妃教育を施したのは、わたくしです。立派な王妃になってほしいと思っていました」
「王妃陛下……」
「でも、今は違います」
イザベルは少しだけ笑った。
「あなたには、誰かの妻としてではなく、あなた自身の名で歴史に残ってほしい」
エレノアの胸に、温かなものが広がる。
「ありがとうございます」
国王は長い沈黙のあと、うなずいた。
「グランフェル公爵領の自治権を認める。詳細は、後日公爵と協議しよう」
「感謝申し上げます」
判決が終わり、エレノアは法廷を出る。
外では、カイルが待っていた。
「おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「では、帰りましょう」
「北部へ?」
「あなたが望む場所へ」
王都の空は、澄み渡っていた。
エレノアは十年間、王宮を自分の居場所にするため努力してきた。
けれど、最後までここは彼女の家にはならなかった。
「北部へ帰ります」
「承知しました」
「そのあとは、帝国へも行ってみたいですわ」
「観光ですか?」
「外交です。自治権を得た以上、近隣国との交易を強化する必要があります」
「相変わらず勤勉ですね」
「嫌なら、お留守番を」
「いいえ。どこまでもお供します」
カイルが手を差し出す。
エレノアはその手を取った。
今度は、迷わなかった。
第六章 捨てた国、選んだ未来
それから半年。
グランフェル公爵領は、大きく変わった。
王都で停止した街灯は、北部の都市へ移設された。夜間でも商店が営業できるようになり、街は以前より活気づいた。
新設された学院には、身分を問わず多くの若者が集まった。
王立学院の奨学金を失った学生たちも、希望すれば全員が受け入れられた。教師の中には、王都を離れて北部へ移住する者まで現れた。
孤児院と施療院への支援は以前より拡充された。
エレノアは、公爵領で生まれた子どもが少なくとも読み書きと計算を学べる制度を整えた。
一方、王都は苦境に陥っていた。
グランフェル家の支援を失った王家は、これまで無料で受け取っていた物資や人材に、正当な代金を支払わなければならなくなった。
王宮の予算は大幅に縮小され、舞踏会の回数も減った。
貴族たちは不満を訴えたが、国王は退けた。
「これまでが異常だったのだ」
彼はそう宣言したという。
リュシアンは修道院へ送られた。
初めのうちは王宮へ何度も手紙を送り、自分は騙されただけだと訴えていた。
だが、すべて返送された。
エレノアのもとにも、謝罪の手紙が届いた。
『今になって、君がどれだけ私を支えていたのかわかった』
『もう一度だけ、やり直す機会がほしい』
『君を愛している』
エレノアは最後まで読まず、封を閉じた。
そして、返事を書いた。
たった一行。
『あなたが愛しているのは、わたくしではなく、わたくしがあなたに与えていたものです』
それ以降、手紙は届かなくなった。
ミレイユは、終身刑を言い渡された。
弟を殺されたナディアは、偽造と虚偽の証言に関わった罪を認めた。事情を考慮され、北部の修道院で五年間奉仕することとなった。
エレノアは一度だけ、彼女を訪ねた。
許したわけではない。
以前のような主従へ戻ることもない。
それでもナディアが罪を償ったあと、新しい人生を歩めるよう、読み書きを教える仕事を用意すると伝えた。
復讐とは、嫌いな者をすべて不幸にすることではない。
奪われたものを取り戻し、自分の人生を前へ進めること。
エレノアは、そう考えるようになっていた。
冬の終わり。
グランフェル城に、帝国からの使節団が訪れた。
代表者はカイルだった。
もっとも、彼は半年の大半を公爵領で過ごしていたため、使用人たちは誰も客人扱いしなかった。
「帝国から、正式な交易協定の草案が届きました」
執務室で、カイルが書類を差し出す。
「確認します」
エレノアは目を通した。
銀鉱石と魔石の輸出。
帝国からの鉄鋼と薬草の輸入。
国境付近における関税の軽減。
どれも北部に有利な条件だ。
「ずいぶん好条件ですわね」
「皇帝陛下が、あなたを気に入っていますので」
「お会いしたことは一度しかございませんが」
「一度の会談で、帝国の大臣三人を黙らせた女性は初めてだと」
「間違った統計を使用していたので、訂正しただけです」
「その訂正により、帝国側の要求額が半分になりました」
「事実は大切です」
「あなたらしい」
カイルは笑う。
書類の最後に目を通したエレノアは、首をかしげた。
「もう一枚ございます」
「何でしょう」
差し出された紙には、交易条件ではなく、帝国の皇族が使用する紋章が押されていた。
「婚姻の申し込み?」
「はい」
エレノアは顔を上げる。
カイルは緊張していた。
戦場でも、法廷でも見せなかった表情だった。
「誰から、誰への申し込みですか?」
「私から、あなたへ」
「帝国皇帝からの申し込みではないのですね」
「皇帝陛下は、形式を整えただけです」
「では、条件を伺います」
「条件?」
「婚姻も契約です。互いの立場や責任を明確にすべきでしょう」
カイルは目を瞬かせ、それから笑った。
「さすがですね。わかりました」
彼は真剣な表情になる。
「私は帝国にある領地の一部を、あなたとの共同統治とします。グランフェル公爵家の領地と財産は、婚姻後もあなた個人の権利として維持されます」
「続けて」
「あなたの政治活動と事業を制限しません。子どもが生まれた場合、性別にかかわらず、本人の希望と能力を尊重します」
「よろしいでしょう」
「それと、もう一つ」
カイルは机の前へひざまずいた。
「私はあなたを愛しています」
エレノアの指が止まる。
「それは、契約条件ですか?」
「いいえ」
灰色の瞳が、彼女だけを映していた。
「私があなたと結婚したい理由です」
愛している。
かつて、リュシアンもそう言った。
けれど、彼の愛は、自分を満たすための言葉だった。
エレノアが思いどおりに動いている間だけ与えられるもの。
カイルは違う。
彼はエレノアが戦うとき、前に出すぎない。
弱ったとき、無理に励まさない。
一人で立てる彼女を尊重しながら、それでも手の届く場所にいてくれる。
「わたくしは、よい妻になれるかわかりません」
「よい妻である必要はありません」
「公爵領の仕事を優先することもあります」
「私も自分の仕事を優先することがあります。お互いさまです」
「敵を作るかもしれません」
「もう十分にいます」
「料理も得意ではありません」
「それは料理人に任せましょう」
「それから……」
エレノアは言葉に詰まった。
まだ、怖いのだ。
誰かを信じることが。
愛した相手に裏切られることが。
自分の価値が、誰かの愛によって決まってしまうことが。
カイルは急かさなかった。
ただ、待っている。
「わたくしは、自分が誰かを愛せるのか、まだわかりません」
「では、わかるまで待ちます」
「一生わからなかったら?」
「一生、隣にいる理由ができますね」
思わず、エレノアは笑った。
「ずるい方」
「よく言われます」
「嘘ですわね」
「今、初めて言われました」
エレノアは席を立ち、彼の前へ歩いた。
そして、差し出されていた手を取る。
「お受けいたします」
「本当に?」
「ただし、条件が一つ」
「何でしょう」
「わたくしを守るために、ご自分の命を捨てないこと」
婚約破棄の夜、父が彼へ命じた言葉。
カイルは柔らかく笑った。
「承知しました」
彼はエレノアの手の甲へ口づける。
「あなたとともに、生きることを誓います」
春。
二人の婚約が発表された。
盛大な祝宴は開かなかった。
代わりに、その費用を北部の街道整備へ充てた。
住民たちは喜び、二人の門出を祝ってくれた。
王都からも、王妃イザベルが祝いに訪れた。
国王は健康を崩し、王位を弟へ譲る準備を進めているという。新しい国王となる予定の第二王子は、兄の失敗から学び、公爵家との関係を一から築き直したいと申し出ていた。
エレノアは、その申し出を受け入れた。
昔のように、無条件で王家を支えることはない。
だが、対等な相手としてなら手を取り合える。
結婚式の日。
エレノアは深紅のドレスをまとった。
リュシアンに婚約を破棄された夜と同じ色。
けれど、意味はまったく違う。
あの夜の赤は、終わりの色だった。
今日の赤は、始まりの色。
式へ向かう廊下で、父アルベルトが待っていた。
「後悔はないか」
「ございません」
「ならば、行け」
「お父様」
「何だ」
エレノアは父へ抱きついた。
アルベルトの身体が固まる。
娘から抱きしめられるとは思っていなかったらしい。
「ありがとうございます」
「……何の話だ」
「わたくしに、怒ってもよいと教えてくださったことです」
父はしばらく黙っていた。
やがて、大きな手がエレノアの頭に触れる。
「幸せになれ」
「命令ですか?」
「父親からの願いだ」
「でしたら、かなえてみせます」
扉が開く。
その先に、カイルが立っている。
エレノアは父から離れ、自分の足で歩き出した。
大勢の人々が見守っている。
けれど、もう彼らの視線を恐れる必要はない。
誰かが彼女を悪役と呼んでも。
誰かが傲慢だと責めても。
エレノア自身が、自分の価値を知っている。
彼女は国を従わせる王妃にはならなかった。
愛する男に守られるだけの姫にもならなかった。
北部を豊かにし、帝国との争いを防ぎ、身分にかかわらず学べる仕組みを築いた。
のちの歴史家は、彼女をこう記すことになる。
古い王国を終わらせ、新たな時代の扉を開いた女性。
北方の女公爵、エレノア・グランフェル。
かつて悪役令嬢と呼ばれた、誰よりも誇り高き統治者。
祭壇の前で、カイルが手を差し出す。
エレノアはその手を取った。
「行きましょう」
「ああ」
誰かに決められた未来ではない。
誰かに許された幸福でもない。
自分で選び、自分で勝ち取った人生へ。
二人は並んで、光の中へ歩き出した。
完




