第0話「特等席」
「お嬢様、降りてください」
下からマルガレーテの声がする。
降りない。今いいところだから。
騎士団訓練場の外壁。高さ2メートルちょっとの石塀の上に、私は座っている。ドレスの裾が風に揺れて面倒だけど、そんなことは些末な問題だ。
だって。
(推しが!!!訓練してる!!!)
砂埃の向こう、銀色の髪が朝日を受けて光っている。第一騎士団副団長、レオンハルト・フォン・シュテルン。木剣を振るう腕の筋肉が——いや、筋肉の話は今はいい。フォームだ。今日は逆手からの切り返しが前回より0.3秒速い。たぶん。体感で。
(解釈一致すぎて泣きそう。ゲームの攻略wikiに「レオンハルトは日々の鍛錬を欠かさない」って書いてあったけど、実物の鍛錬ってこういうことか。実在する鍛錬。概念じゃない鍛錬。尊い)
「お嬢様」
「視察中」
「覗きです」
「視察」
マルガレーテが塀の下で腕を組んでいる。この侍女は私に仕えて10年になるらしいけど、転生前の私のことは知らない。知っているのは転生後の私——つまり、推し活に全てを捧げる異常な令嬢の姿だけだ。
申し訳ないとは思う。思うけどやめない。
だって推しが実在するんだよ?
前世の私、高森咲良は26歳の会社員だった。乙女ゲーム『月光の騎士団』をこよなく愛し、レオンハルトのSSを書き、考察ブログを運営し、布教アカウントのフォロワーを地道に増やしていた、ごく普通の重度オタク。
数ヶ月前、気づいたらこの世界にいた。しかも悪役令嬢として。前のセラフィーナはエステル嬢への嫌がらせに全力を注いでいたらしい。それが一晩で推し活全振り令嬢に変わったのだから、マルガレーテは相当困惑したと思う。
悪役令嬢。セラフィーナ・フォン・グラーフ。ゲームではエステル嬢に嫌がらせをして、断罪されて退場するキャラクター。レオンハルトの政略婚約者でもある。
婚約者。推しの婚約者。
この設定を知ったとき、前世の私は3日くらい天井を見つめていたと思う。記憶が曖昧だけど、マルガレーテに「お嬢様、3日目です。食事をしてください」と言われた記録が推し活日記にある。
推しの婚約者になれた。でもこれはゲームの設定であって、私の力じゃない。そして悪役令嬢という立場は、推し活において最悪のポジションでもある。
なぜなら——
「あの令嬢、また覗いているわ」
訓練場の反対側で、貴族の令嬢たちがひそひそ話している。聞こえてる。塀の上は意外と音が届く。
「レオンハルト様の訓練を毎回見に来るなんて、執着がすごいわよね」
「婚約者だからって、あそこまでするかしら」
「まるで監視じゃない?」
……監視じゃない。推し活だ。
でも、わかる。客観的に見たら私は相当やばい。婚約者のくせに訓練場を覗き、差し入れを執拗に届け、推しの上官の動向を社交界で探っている。
悪役令嬢の行動そのものだ。
ゲームのセラフィーナは、レオンハルトへの執着と独占欲で暴走して断罪される。嫌がらせの動機は「婚約者なのにエステルばかり見ている」という嫉妬。
私の場合、嫉妬じゃない。推し活だ。
でも周りからは区別がつかない。
先月、ユリウス王太子に呼び出された。「エステル嬢への嫌がらせの訴えがある」と。嫌がらせなんかしていない。推し活が忙しくてエステル嬢に構っている暇がない。でも「悪役令嬢が何かしているに違いない」という先入観が、勝手に訴えになって積み上がる。
王太子にこっぴどく怒られた。
でもあの日、推しが護衛として王太子の隣に立っていて、私はずっと推しの横顔を見ていた。怒られながら。
控えめに言って特等席だった。
「お嬢様、レオンハルト様がこちらを見ていますよ」
マルガレーテの声で意識が戻る。訓練場を見下ろすと、レオンハルトが木剣を下ろして、こちらを見上げていた。
(え)
碧い目が、まっすぐこちらを向いている。距離があるのに、目が合った気がした。
(推しと目が合った。推しと目が合った。推しと目が合った)
「お嬢様、塀から落ちます」
「落ちない」
「手が滑ってます」
滑ってた。石の縁を握り直す。心臓がうるさい。レオンハルトはもうこちらを見ていなくて、訓練を再開している。
……推しはきっと、不審に思っただけだ。塀の上に人がいたから見た。それだけ。
ガチ恋じゃない。私はただのオタク。推しを近くで見ていたいだけ。推しの幸せを祈っているだけ。推しの人生に干渉するつもりはない。
オタクは、推しの物語の外にいるものだから。
「降りますよ、お嬢様。スカートに砂がついています」
「……うん」
塀から降りた。マルガレーテが無言でスカートの砂を払ってくれる。
帰り道、薬草園の横を通った。母が植えた小さな庭。最近ここで推しの好物用の薬草を育てている。推しは甘い匂いの薬草茶が好きだ。ゲームのプロフィールに書いてあった。
「お嬢様、今日の差し入れはどうなさいますか」
「……焼き菓子。サブレ。レオンハルト様は訓練後に甘いものを摂ると疲労回復が早い」
「どうしてそこまでご存知なんですか」
「偶然知りました」
「偶然で人の疲労回復パターンまで把握しませんよ」
マルガレーテのツッコミが正確すぎる。この侍女、前世ではお笑い芸人だったんじゃないだろうか。
帰宅して、書斎の奥にしまってある日記を取り出す。表紙には何も書いていない。中身は推し活の記録で満ちている。
今日の分を書く。
『本日の推し:逆手斬りのフォームを変更。速度が向上している。横顔の美しさは通常運転。訓練場の砂埃の中でも髪が輝くのは何か特殊なコンディショナーを使っているのか、それとも血統か。要調査。目が合った(推定0.8秒)。心拍数推定180。』
ペンを置いて、息を吐いた。
推しが実在する世界に転生した。ガチ恋じゃない。ただの全力オタクです。
——本当に?
その問いが頭をよぎったけど、日記を閉じた。考えないことにした。
次話:「推し活、続行」




