ネプリヌス海に迫る影。
「いい天気……と、言いたいところだけど……」
アンネリーゼは空を見上げながら、小さく呟いた。
どの道も荒れており、馬車での移動は危険と判断した一行は、馬に乗ってネプリヌス海を目指していた。
神殿を出て、丸二日。
はじめのうちは空一面に青が広がっていたが、プロセルピナ神殿を離れるにつれ、空気は少しずつ瘴気を帯びていく。
空は灰色に沈み、風は重く、地面の匂いさえ鈍く変わっていた。
「やっぱり……神殿の周囲だけが特別なのね……」
アンネリーゼの呟きに、隣を進むケルネリウスが静かに頷く。
「あぁ、そうだな……」
その声もどこか沈んでいた。
セラフィエルが広大なのは分かっていた。
けれど、少しばかり期待していたのだ。
——もしかしたら、こっちの大地でも瘴気が薄くなっているのでは、と。
だが、その期待は風に溶けるように消えていった。
「まぁ、仕方ないわよね! これだけ広いんだもの。むしろ、やりがいがあるって思えばいいのよ!」
(それに今は……海の幸の方が大切! タコ、イカ、貝、魚、昆布……んふふ、考えるだけでお腹が鳴りそう!)
***
それからさらに三日後。
同じような景色を進み続け、皆の足取りも少し重くなり始めたころ——
“ザァーーーー、ザァーーーー”
遠くから、かすかな音が聞こえる。
最初は風の音かと思ったアンネリーゼだったが、水が波打つ音が聞こえ、バッと馬上で顔を上げた。
「ねぇ……今の音、聞こえた?」
ケルネリウスと聖女たちは耳を澄ますが、首を横に振る。
「風の音しか聞こえないな。」
「そう……? でも私には——」
そう言いかけたアンネリーゼは、口元に指を立てる。
「静かに……」
“ザァーーーー、ザァーーーー”
今度ははっきりと聞こえた。
風でも、木々でもない。
確かにそれは——“水の音”だった。
「……海だ……」
誰にともなくこぼれたその一言に、皆の目が一斉に輝く。
音のする方へ、馬を駆って進む。
… …… ………
少し傾斜になった丘を登りきったその先に——
どこまでも広がる、青い世界があった。
波が砂を撫で、潮の匂いが風に乗って頬をくすぐる。
空と海が溶け合い、世界の果てまで続くような景色。
アンネリーゼを追って上ってきた聖女たちは、その光景を見て息を呑んだ。
「……本当に、あったんだ……」
「……幻じゃ、なかったんですね……」
アンネリーゼは馬を降り、砂を踏みしめて歩き出す。
「海……海よ! 本当に、海だわ!!」
スカートをひるがえしながら駆けだす姿は、まるで少女そのものだった。
しかし——その足が止まる。
「……海なのに、濁ってる……?」
試しにすくった海水は、墨のように黒く濁っていた。
指の間から零れ落ちるそれは、確かに“腐った”色をしている。
(これも……瘴気の影響?)
そう思った瞬間——
“ウゴォォォォーーーー!!”
海面が爆ぜるように盛り上がった。
黒い泡が弾け、巨大な影が姿を現す。
「みんな! 高台に逃げて!!」
怒涛の波が迫る。アンネリーゼは叫び、仲間たちを後方へ退かせた。
「アンナ!!」
「私は大丈夫! 早く!!」
彼女の声が波音にかき消される直後、
海中から伸びた長いヌルヌルした腕が、アンネリーゼの体を絡め取った。
一瞬で水の中へと引きずり込まれる。
(……この感触、吸盤!? ってことは……タコ!?)
暗く濁った水の中、彼女は息を止めながら状況を把握する。
ぬるりとした質感。強烈な締めつけ。吸盤の列。
(間違いない……巨大タコ! しかもかなりの大物……)
視界はほとんどない。
それでも、アンネリーゼの目は楽しげに光った。
(ふふっ……今日の晩ごはん、決まりね!)
腰から取り出したのは、“蛸引き包丁”。
その名の通り、タコを捌くための細身の刃。
(息が続かないし……まずは外に出てもらわないと!)
アンネリーゼは一度深く息を整えると、
体をひねり、狙いを定めた。
(これで決める! 下ごしらえ、開始よ!)
次の瞬間、
水を裂くように包丁を振り抜いた。
白い閃光が海中を走り、黒い腕に光の筋が刻まれる。
“ウゴォォォォォーーー!!”
海の底が震え、締めつけが一瞬だけ緩んだ。
その隙を逃さず、アンネリーゼは腕を引きはがし、
逆にその腕を掴んで渾身の力で引き上げた。
“ドゥンッ!!”
海面を突き破り、黒い巨影が姿を見せる。
泡立つ水面が一瞬、陽光を取り戻した。
(まるで巨大な洗濯機ね!)
息が切れそうになりながらも、彼女は水面を目指す。
(あと少し……!)
“バシャァッ!!”
海を割って飛び出す。
「ぷはっ……っはぁぁぁぁ!! 間に合ったぁぁぁ!!」
岸から歓声が上がる。
「アンナ!!」 「無事だったのね!!」 「生きてたぁぁ!!」
だが、アンネリーゼの視線は海面の一点に釘付けになっていた。
波間に浮かぶ、巨大な影。
… …… ………
(……あの顔、完全に“獲物を見つけた”時の顔だ……)
ケルネリウスは額を押さえてため息をつく。
岩場に立ったアンネリーゼは、腰の蛸引きを抜き、にやりと笑った。
「ふぅ〜……よくもやってくれたわね! ここからは私のターンよ!!
あなたを、おいしぃ〜く調理してあげるから、待っていなさいっ!!」
その声は、戦いではなく、料理の前口上のように響いた。
(……やれやれ。世界の終わりより、晩ごはんの方が大事なのは相変わらずだな……)
ケルネリウスの深いため息が、波音に溶けていった。
「う、う、海だ……! それにあんな巨大生物……本当に戦うのか?」 「戦うわよ? だってタコよ? タコは裏切らないもの! 絶対おいしくしてあげるんだから!!」
「……お前の脳内、食材しかいないのか?」
✿ここまで読んでくださってありがとうございます!
次回は 21:10 更新予定 です!
巨大タコ VS 食いしん坊聖女。
勝つのはどっち!?
……いや、食べられるのはどっち!?
どうぞお楽しみに!




