夫の身代金
妻の情念を書いてみました。救いはないです。ドロドロです。
騎士が捕虜になった場合、身代金を払って返してもらう制度がある。
とある国の国王の身代金は、国家予算と同額であったという話も聞く。
何よりも大事な「名誉」に関わるので、無理をしてかき集めて払う。それが原因で経済的に苦しくなるとしても。
とある伯爵が捕虜になった。
敵国の女将軍が彼を気に入ってしまい、身代金交渉は難航するかと思われた。
伯爵の妻が呼び出され、戦場の後方に立てられた幕屋に数日かけてやってきた。
夫とその部下の軍師は、武装解除されて手首を縛られた状態で、床に座っている。
夫は、女将軍の要求を撥ねつけていた。当然、身代金が払われて帰国できるものと思っていたから。
妻はきっぱりとこう言った。
「払いませんわよ? 立派な跡取り息子がいますもの」
夫は驚いた。貞淑な、自分に逆らったことがない妻の言葉だとは思えない。
妻は夫の顔を一瞥しただけで、女将軍に顔を向けた。
「この人、浮気者ですけれど、よろしいのですか?」
女将軍はニヤリと笑った。
「それだけ魅力的ということだろう?
「……まあ。流石に戦場に立つ方は心構えが違いますのね。
今後、そちらの将として戦場に立たれると、息子の立場的に困るのですが」
「なら、足の腱でも切っておこう」
「あら、よろしいのですか? 打ち合って剣筋に魅力を感じられたのでは?」
「いや、まあ、これくらいの腕なら我が軍にもごろごろいる。
身代金をもらったら解放してもいい程度で、そこまでの執着はないさ」
確かに、交渉の余地がない人の家には、捕虜交換の連絡は来ていない。
「では……?」
妻は不思議に思い、問いかけた。
「この、色っぽい流し目だな。これが受け継がれた子なら、政略結婚や諜報に使えるだろう」
「では、本人ではなく、種がほしいと?」
「うむ。これからは、お上品なそちらの国に溶け込めるような人材がほしい。我が国は武勇を求めすぎた。
自国では得られない性格や気質を得られる、またとない機会だと思っている」
夫は衝撃を受けたようで、会話に割り込んだ。
「私自身の魅力ではないのか?」
「貴様、剣が刃こぼれした途端に諦めただろう。根性が足りん、根性が。
……もし、捕虜になった方が助かると計算したなら、軽蔑するが。
どうなんだ、うん?」
武人として許せない行為だと、目が剣呑な光を帯びた。
夫は答えることなく、妻に縋るような目を向けた。
「お、おい! 夫がいないと困るだろう?」
妻は呆れて、ため息を吐いた。
「困りません。
戦場か愛人のところに入り浸りで、帰ってこない人がいなくても困りません。
逆に、妙に反省して、今更、家をうろうろされて媚びを売られても、うっとおしいです」
妻の眉間に皺が寄る。
「そんな……俺は国のために戦った英雄だぞ」
夫は必死に言い募る。ここに置いて行かれたら、大変だ。
「ぷ、囚われの英雄? 責任を問われる敗戦の将ですよ。あなたの無謀な作戦で亡くなった兵士たちが可哀想」
妻は手を口に当て、嘲笑った。
「領地の経営だって……」
「あなたの弟――義弟が手伝ってくれています。たまに顔を出して、整えられた書類に署名していただけでしょう。
もう、何年も、何年も、何年も!
これから領地のことをイチから勉強するとでも? 息子が勉強中ですから、不要です」
ここまで言っても、謝罪も反省も口にしない愚かな男。
「よ、夜の相手だって……」
ついに、秘すべきことを言いだした。
妻は半眼になり、冷たい空気を醸し出した。
「身ごもってから一度も致していないでしょう。
あなたの両親に責められました。跡取りのスペアや嫁に出せる女の子が必要だと。
それをどう考えていらっしゃったのです?
私に魅力がなかった? それなら帰国したとて、変わりませんでしょ。
それに、あなたの恋人たちから病気を移されたらたまらないので、遠慮しますわ」
自分の腕をさする妻の姿は、全身で、「汚らわしい」と言っているように見えた。
「あー。それは大丈夫だぞ。医師に確認させた」
眉尻を下げて、女将軍が妻をなだめるように言う。
「……それは、どうも……。
私はこの人に触れられたら鳥肌が立つので、もう、どちらでもいいのです。興味もないです」
鼻白んで、妻が呟くように答えた。
その様子を女将軍は興味深げに眺める。
「それは浮気を繰り返すからか? 潔癖だなぁ」
「……将軍は気になりませんの?」
「気にならん。種が誰の者であろうと、私が産めば私の子に違いはないからな」
あっけらかんと朗らかに笑う女将軍。
妻はあっけにとられて眺め、納得したように短く息を吐いた。
「なるほど! 真理ですね」
女将軍は嬉しそうに、ニっと唇をあげた。
「希望者には種を分けてやってもいいな」
「……まあ。それって……気になりませんの? 嫉妬とか」
「我が国に新しい才能が芽生えるのだから、歓迎する女はいると思うぞ」
悪びれない女将軍に、妻は手を頬にやり「そうですか」と感心している。
蚊帳の外に置かれたような夫が、大きな声を出した。
「なんだそれは?
俺を愛しているから、ほしいんじゃないのか? 家畜の交配じゃあるまいし!」
女将軍は腰に手をやり、不思議そうな顔をした。
「どうした? 今までも種を振りまいていたらしいじゃないか。
それに、愛? あるわけないだろう。
愛は、信頼の上に成り立つものだ。私が愛する者はすでにいる。
お前のように不誠実な人間に、心を預けるわけがなかろうよ。ぬかるんだ泥の上に砦を建てるようなバカでなし」
それを聞いた妻が、ころころと楽しそうに笑う。
「本当に、そのとおりでございますね」
野蛮でふしだらな女将軍に比べて、妻のなんと可憐で愛らしいことか。夫は一瞬見とれた。
そして、説得して、一緒に帰ろうと決意を新たにする。
「俺が戻らなければ、武門の恥だぞ!」
「あなたが浮気相手を社交の場にまで連れ歩くので、家名は泥にまみれています。
貞淑さを重んじる家門からは、距離を置かれてしまいました。
すでに笑いものですよ。あの子が可哀想……。
あなたがいなくなったら、汚名をすすいでいこうと張り切っています。
戻ってきて、新たな醜聞を撒かれ、水を差されたら堪りません。はっきりいって、邪魔です」
妻は、憎い敵を見るように、顔を歪めた。
「では、責任を持って我が国に連れ帰らないとなぁ」
女将軍は、お茶会で気に入ったお菓子をもらって帰るかのような、気軽さで言う。
「信頼して、お任せしますわ」
妻は、瞬時に淑女の仮面を被り直し、微笑んだ。
もう、夫に用はないとばかりに、目を合わせることもせず。
妻は人差し指を唇に当て、言葉を選びながら言った。
「あとは……負けたこちらが要求できることではないのですが。夫から情報を引き出されるご予定はありますか?」
一緒に捕らえられていた軍師が口を開いた。
「それなら、私が知識を担当しておりました。
面倒だから任せると言われて、この方の頭は空っぽです、この隊の頭脳は私でございます」
「お前!」
主従で醜い口げんかを始めた。
何が男の友情だ、笑ってしまうわ。妻は軽蔑の眼差しを送る。
妻は二人を放っておいて、女将軍に話しかけた。
「この軍師の身代金はおいくらでしょう?」
女将軍の秘書から提示された額を眺めて、妻は首を振った。
「この軍師の奥方から提示された額を超えているので、交渉決裂です」
その言葉が耳に入り、軍師は口げんかをやめた。
「そんな、馬鹿な……。なんのために資産家の娘を娶ったと……」
ろくでもない言葉が飛び出した。
「あなたも夫と同様、浮気して遊び歩いていましたよね。
あなたたちが水車を修復する予算を愛人に使い込んだせいで、駄目になった畑があります。
そこからの収穫があったら、お金に余裕があったかもしれませんね。後の祭りですが」
夫と軍師は愕然とした。そんなことになっているとは知らなかった。
「不作による援助を国に申請した書類にサインしたこと、本当に覚えていないの?
あなたが帰ってこないから、軍部や愛人宅を捜しまわって大変でしたのに。
そんな中で、愛人に宝飾品をあげて連れ回すから、申請が却下されましたのよ」
妻が、あの冬は餓死者が出たと昏い目をした。
妻の醸し出す空気に引きずられるように、幕屋は沈黙に支配される。
女将軍も最初は面白がっていたが、笑えなくなって、妻を見つめる。
妻の意識が現実に戻ってきたように、ついっと軍師を見やった。
「これ、あなたの奥方からの手紙です」
小さな紙を丸め、封がしてあった。
縋るように手に取るが、手を縛られているので封を切るのにもたついてしまう。
勢いよく読み始めたが、次第に震え、軍師の目から涙がこぼれた。
読み終えて、うずくまり泣き崩れる軍師。
「なんで今、言うんだよぉ」
「何度も何度も訴えたのに、聞き流していたそうじゃないですか。
そうやって奥方に責任転嫁するのは卑怯です。
お子様が高熱で生死の境を彷徨っていたときも、遊び歩いて帰らなかったと聞いていますよ。葬儀に、女の口紅がついた状態で、遅刻してきたんですって?
そんなの、父親でも夫でも家族でもない。
だから、『絶対に、許さない』らしいです」
軍師は顔を上げ、絶望した顔をさらした。
初めから軍師の妻は、一銭たりとも身代金を払う気はないのだ。
期待させて、絶望に落としてと頼まれたから、そのようにしただけ。
家庭では不要と突きつけたが、まだ積年の恨みは収まらない。
社会的にも不要だと思い知らせたい――そう、妻は思った。
「一応、国の軍部に身代金を払わなくていいか相談したんです。
末端だから別にいいって言われていたんだったわ、そういえば」
絶望を深くするため、情報を後出しにした。
恥をかかせて、自尊心を粉々に砕いてやるわ。
私たちが、そうされてきたように。これは、復讐だ。
ここに来る直前に軍部に行ってわかったが、この男たちは信用されていなかった。
戦況にあまり影響がないところに配置したのに、ここが早々に崩れたせいで、負けにつながった。
いないよりはマシだろうと配置したが、連れて行かなければ良かったと言われて、顔から火が出そうだった。
なにが歴史ある武門だ。
夫の自慢話をまともに聞いたのが、そもそもの間違いだった。
だから、たとえ、身代金を払って帰ってきたとしても、針のむしろだろう。
連れ帰らないのは慈悲とも言える。
私たち妻に見捨てられて時よりも、悲惨な顔になったわね。
それはそれで、腹立たしいわ。
この二人は高官だから捕虜として一定の扱いを受けているが、部下たちは身代金交渉の余地もなく、すでに敗戦国の兵士として扱われている。
自分たちが見捨てた彼らの中に戻されたとき、どうなるかは……自明の理だろう。
「長年、蔑ろにしておいて、なんで助けてもらえると思ったのかしら。
やっと巡ってきた、復讐の機会を逃すわけないじゃない。
私たちが、どれだけ傷つけられたか、思い知ってよ!」
踏みにじられてきた一人の女が、悔しさに顔を歪め、拭うことなく涙を流した。
この女は……裏切られた愛情、踏みにじられた尊厳が、憎しみに転じた地獄にいる――女将軍は息をのんだ。
自分が身を置く、わかりやすい勝ち負けの世界ではなく……情念が渦巻き、愛憎に溺れて自らを泥に沈める者たちの生々しい世界。
涙を流しながら怨嗟を吐くその姿に、女将軍は奇妙な恐怖と畏敬を覚えた。
壮絶な修羅の気配に女将軍は背筋を凍らせ、この女たちを敵に回す愚かさを悟るのだった。
情念渦巻く話が書きたかったのですが、どうでしょう?
妻の判断に、賛否両論あるかな。反応がちょっと恐い、どきどき。