第十話:灯の外へ
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朝の酒場は、まだ静かだった。
夜の名残が床に残り、
酒と汗の匂いが、薄く混じっている。
サダオミは、いつもより少し遅く店に出た。
身体は軽い。
気持ちは、重い。
◇
客は、もう来ていた。
早い時間だというのに、
昨日の顔が、いくつもある。
椅子は中央を空けて並び、
視線は、無意識にそこへ向いている。
――待っている。
サダオミは、その空気を一目で理解した。
「今日は、どうする」
ダンおじさんが、いつもの調子で言った。
昨日の続きのような声。
帳面を脇に置き、酒樽に手を伸ばしながら。
「……まだ、決めてません」
嘘ではなかった。
もう、答えは出ている。
だが、それを口にする準備が、まだ整っていない。
「決めとけ」
ダンおじさんは、軽く言う。
「客は来てる」
事実だった。
「今日も、いい日だ」
その言葉に、悪意はない。
だからこそ、
サダオミの胸は、静かに痛んだ。
皿を運ぶ。
酒を注ぐ。
視線を受ける。
どれも、昨日までと同じだ。
違うのは――
自分が、その中心に立つつもりがないこと。
「なあ」
客の一人が、遠慮なく声をかけてきた。
「今日はやらねぇのか」
周囲の会話が、わずかに止まる。
サダオミは、足を止めなかった。
「今日は、やりません」
淡々と答える。
「昨日も見たぞ」
「今日は、やりません」
繰り返す。
理由は言わない。
説明もしない。
ざわめきが、戻る。
だが、その中に
落胆と、苛立ちが混じり始めるのを、
サダオミは感じていた。
ダンおじさんが、こちらを見る。
視線が合う。
ほんの一瞬。
言葉はない。
だが――
理解されないということだけは、
はっきり伝わった。
◇
その夜。
サダオミは、川原にいた。
白い鎧を取り出し、
黙々と磨く。
布が白くなる。
光が戻る。
その繰り返し。
「……やっぱり」
ぽつりと呟く。
「ここじゃないな」
答えは、返ってこない。
だが、否定もされない。
それで、十分だった。
酒場の灯は、まだ灯っている。
人も、金も、噂も集まっている。
――だが。
それを守るために舞う自分は、
もう、ここにはいない。
サダオミは、立ち上がった。
次にここを出るとき、
自分はもう、戻らない。
その確信だけを胸に、
川原を後にした。




