第八話:白い影に口づけを
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酒場の空気が、少し変わった。
客が増えたからじゃない。
騒がしくなったからでもない。
――顔ぶれだ。
サダオミは、カウンターの内側で皿を拭きながら、それを感じていた。
視線の質が、昨日までと違う。
値踏みする目。
噂を確かめに来た目。
そして――
黙って、見ている目。
◇
「おーい、ダン! いつものだ!」
派手な声が店内に響く。
赤を基調にした外套。
装飾の多い腰回り。
立っているだけで目立つ男。
紅の槍――サリド・ヤン。
ここ数日で、すっかり顔なじみになっていた。
「はいはい、騒ぐな」
ダンおじさんが応じる。
そのやり取りが、もう“日常”になりつつある。
サダオミは、杯を持ってそちらへ向かった。
「よっ」
サリドが、にやりと笑う。
「あんまり綺麗だったから、我慢できなかった」
悪びれもせず、いつもの台詞。
「仕事中です」
サダオミは、淡々と杯を置いた。
「つれないねぇ」
サリドは笑う。
だが、その視線の奥には、
昨日までよりもはっきりした期待があった。
――今日は、舞うのか?
そんな目だ。
サリドの隣には、男がひとり座っていた。
地味な外套。
飾り気のない装い。
姿勢が、異様なほど正しい。
酒は飲んでいるが、口数は少ない。
サリドが騒げば、黙って聞いている。
サダオミは、ふとその男と目が合った。
鋭い。
威圧はない。
だが――
“見られている”という感覚だけが、はっきり残る。
一瞬。
本当に一瞬だけ。
サダオミの胸に、奇妙な感覚が走った。
――この男が、この世界の主役なんじゃないか?
そんな錯覚。
すぐに、否定する。
理由はない。
ただの勘だ。
そして、こういう勘は――
だいたい、外れる。
「なあ」
サリドが、肘をついた。
「今日はやらねぇのか?」
「……何の話ですか」
「とぼけるなよ」
中央を、顎で示す。
周囲の視線が、一斉に集まる。
サダオミは、内心で小さく息を吐いた。
「今日は、やりません」
はっきり言う。
「へぇ?」
サリドは面白そうに眉を上げる。
「じゃあ、明日は?」
「わかりません」
「その先は?」
「気分次第です」
そのやり取りを、
隣の男は黙って聞いていた。
ただ一度だけ、口を開く。
「……やめとけ」
低い声。
サリドが振り向く。
「なんだよ」
「そういうもんじゃない」
それだけ言って、杯に口をつけた。
サダオミは、その横顔を一瞬だけ見て、
なぜか視線を逸らした。
◇
その夜。
店の裏口で、呼び止められた。
「なあ、嬢ちゃん」
昼間の客のひとりだ。
酔っているわけではない。
距離が、少し近い。
「噂、聞いたぜ」
サダオミは、足を止めなかった。
「夜になると、川原に行くんだってな」
無視すればいい。
だが、今日は妙に疲れていた。
「……それで?」
「白い鎧の男」
声が、探るようになる。
「どういう関係なんだ?」
一瞬だけ、迷った。
否定すれば、説明が要る。
説明すれば、また絡まれる。
面倒だった。
ただ、それだけだった。
「……彼氏だよ」
一拍、置いてから続ける。
「そういうことにしておいて」
軽い声だった。
逃げ道としての言葉。
それ以上でも、それ以下でもない。
男は、目を丸くしてから、
にやりと笑った。
「なんだよ、そうだったのか」
それだけで、引いた。
――終わった。
その時は、そう思った。
◇
その夜。
サダオミは、川原にいた。
白い鎧を、丁寧に磨く。
布が擦れる音だけが、静かに響く。
磨く。
白が戻る。
光を取り戻す。
それだけで、胸の奥が少し軽くなる。
「……助かってるよ」
誰にともなく呟いて、
鎧の胸部に、そっと口づける。
その様子を、
少し離れた場所から見ている影があることを、
サダオミはまだ、知らない。
◇
酒場では、噂が囁かれ始めていた。
「なあ、聞いたか?」
「ああ。あの踊り子だろ」
「夜になると、川原に行くらしい」
「川原?」
「そこでな……誰かと会ってるって話だ」
声が、少し落ちる。
「白い鎧の男だとよ」
「は?」
「全身、真っ白な鎧。顔も見えねぇ」
「……兵じゃねぇのか」
「さあな。でもよ」
別の声が混じる。
「あの踊り子、
その鎧を、やけに大事そうに扱ってるらしいぜ」
「大事そうに?」
「ああ。
磨いて、撫でて……」
一拍。
「……キスまでしてたって話だ」
短い沈黙。
そして、誰かが笑った。
「なんだよ、それ」
「彼氏じゃねぇの?」
「だろうな」
納得したような声。
「じゃなきゃ、説明つかねぇ」
灯は、まだ消えていない。
だがその光は、
もう“見る者の都合”で、
歪められ始めていた。




