第四話:揺れる灯
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酒場に、笑い声がなくなった。
正確に言えば、なくなったわけじゃない。
ある。
あるが――薄い。
乾いた笑いが、空気の隙間を埋めるだけの音。
ジョッキが鳴る回数も減り、皿の上の量も減った。
客が減ったのだ。
そして、減った理由は単純だった。
隣国攻め。
戦が始まれば、金は兵に吸われる。
兵が出れば、畑は回らない。
畑が回らなければ、街の腹が鳴る。
腹が鳴れば、酒は売れない。
――この世界は、そういうふうにできている。
サダオミは、カウンターの奥で皿を拭きながら、その現実を静かに噛み締めていた。
目の前にあるのは、薄い木の皿。
拭けば拭くほど、木目が白くなる。
まるで、そこにあった温度まで消えていくみたいだった。
「……はぁ」
声に出したつもりはなかったが、漏れてしまったらしい。
カウンターの向こうで、太い腕が止まった。
酒場の主人。
ダンおじさんが、たっぷりした髭を指で撫でながらこちらを見た。
「ため息は良くねぇぞ、嬢ちゃん」
嬢ちゃん。
ここでは、ずっとそれで通している。
自分が何者かなんて、説明する気はない。
説明したところで、理解される気もしない。
サダオミは、軽く肩をすくめた。
「すみません。……でも、正直」
言葉を探す。
探している間にも、店内の静けさが耳に刺さった。
昼と夜の境目。
本来なら、客が増え始める時間だ。
なのに、椅子が空いている。
窓際の席なんて、丸ごと空だ。
サダオミは目を伏せたまま、続けた。
「このままだと、まずいですよね」
ダンおじさんは一瞬だけ黙り、それから、わざとらしく陽気に笑った。
「まずいなぁ!」
豪快に笑う。
だが、それは“豪快”なふりだった。
笑い声の後ろに、疲れが透けている。
サダオミは、その透けを見逃さなかった。
――この人は、恩人だ。
どこの馬の骨かもわからない自分を、雇ってくれた。
寝床を貸してくれた。
腹を満たしてくれた。
それだけじゃない。
この世界で生きるための、“足場”をくれた。
「ダンおじさん」
呼びかけると、ダンおじさんが眉を上げた。
「なんだい」
「……何か、打てる手ってないんですか」
ダンおじさんは、答えない。
代わりに、カウンターの布巾を握った手に力が入った。
「あるなら、もう打ってるさ」
それが、答えだった。
サダオミは、奥歯を噛む。
――じゃあ、俺が打つしかない。
ただ、何を?
戦で金が消えたのなら、金を呼ぶしかない。
金を呼ぶには、客を呼ぶしかない。
客を呼ぶには――
サダオミの中で、一本の筋が通った。
自分が、この世界で最も“目を引き付けられたもの”。
轟流剣術。
あの、舞うような足運び。
剣のための足ではなく、剣のための“間合い”そのもの。
剣を振るうのではない。
そしてその支配は、静かなほど恐ろしい。
サダオミは、皿を置いた。
布巾も置いた。
自分の手のひらを一度見つめて、握って、開く。
――やるなら、今だ。
「ダンおじさん」
もう一度呼ぶ。
今度は、ちゃんと目を見た。
「少しだけ、場を借りていいですか」
ダンおじさんが目を丸くした。
「場?」
サダオミは頷いた。
「一回だけ。……試したいことがあるんです」
ダンおじさんは戸惑いながらも、サダオミを見て、それから店内を見回した。
客は少ない。
だからこそ、余計に目立つ。
でも、目立つことを恐れていたら、何も変わらない。
「……好きにしな」
ダンおじさんは、低い声で言った。
「嬢ちゃんがやりたいなら、やりな」
その言い方が、優しすぎて。
サダオミは、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「ありがとうございます」
丁寧に頭を下げる。
それから、ゆっくりと店の中央へ出た。
◇
最初の一歩は、遅く。
床板の軋みが鳴るほどに、ゆっくりと。
誰かが見た。
次に、別の誰かが見た。
視線が、ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
サダオミは、それを感じる。
感じながら、わざと息を吐いた。
――急ぐな。
急げば、ただの“技”になる。
ここで必要なのは、技じゃない。
“見せる”ことだ。
右足。
左足。
足運びだけで、空気を切り替える。
轟流の癖が、身体に染みている。
気づけば、顎に手を当てる癖まで移っているのに。
足だけは、もっと深く染みていた。
サダオミは、腰を落とす。
そして、踏み込まない。
踏み込まないのに、踏み込みの気配だけを置く。
客が、息を止める。
酒場のざわめきが、薄くなる。
この瞬間。
サダオミは、確信した。
――ああ。
これなら、呼べる。
目を。
耳を。
そして、金を。
サダオミは、ゆっくりと回る。
大きく回る必要はない。
小さく、確実に。
視線が追いやすいように。
それでいて、次の動きが読めないように。
舞う、というより。
刃の通り道を、身体で描くように。
ふわり、と袖が揺れた。
衣服が風を孕む。
その“遅さ”の中に、刃の速さを仕込む。
そして――
サダオミは、一瞬だけ速く動いた。
床板が、鳴った。
遅い動きの中に混じる、鋭い一閃。
もちろん、刃はない。
武器も抜いていない。
ただの“空”だ。
なのに。
空気が切れた。
客が、反射的に身を引いた。
その反応を見て、サダオミは内心で苦笑する。
――よし。
届いた。
サダオミは、最後に一歩引き、静かに頭を下げた。
拍手は、すぐには起きなかった。
沈黙。
そして、その沈黙を破るように。
ぽつり、と誰かが言った。
「……今の、何だ?」
それをきっかけに、拍手が起きた。
小さな拍手が、連鎖して。
やがて、店内が音で満ちた。
ダンおじさんが、カウンターの奥で目を見開いている。
サダオミは、そこへ戻りながら、低い声で言った。
「……これ、続けたら」
言葉を飲む。
飲んでから、続ける。
「客、戻りますか」
ダンおじさんは、しばらくサダオミを見て。
それから、笑った。
今度の笑いは、さっきより少しだけ“本物”だった。
「戻るさ」
そして、ぽん、とサダオミの肩を叩く。
「嬢ちゃん、あんた……何者なんだ?」
サダオミは、笑って誤魔化した。
「さあ。……本人も、よくわかってないです」
その言葉に、ダンおじさんがまた笑う。
酒場に、少しだけ温度が戻った。
たった一つの舞で。
それが――
サダオミにとって、最初の“戦果”だった。
◇
その夜。
サダオミは、店の裏でひとり、空を見上げた。
月がある。
星もある。
天界の白い空じゃない。
でも、不思議と落ち着く。
「……よし」
小さく呟く。
まずは、この店を守る。
守りながら、情報を集める。
この世界が何なのか。
主人公がどこにいるのか。
翼が出ない理由は何なのか。
――そして、十神槍。
噂は、もう聞こえ始めている。
最強の国。
一騎当千の十人。
その名を、まだ“遠いもの”として受け止めながら。
サダオミは、月を見て笑った。
「……困らないな。今のところは」
そして、明日の仕込みのために、店へ戻った。




