第三話:酒場の灯
■
古びた木の扉は、思ったよりも重かった。
ぎぃ、と低く軋む音を立てて開く。
鼻先をくすぐったのは、
酒と油と、少しだけ焦げた匂い。
サダオミは一歩、店内へ足を踏み入れた。
――客、少な。
昼下がりという時間帯を差し引いても、
テーブルはいくつも空いている。
奥の席で酒をあおっているのは、
年嵩の男が二人だけだった。
活気があるとは言い難い。
カウンターの向こうに、
大柄な男がひとり立っている。
腕を組み、
値踏みするでもなく、
ただ静かにこちらを見ていた。
短く刈った髪。
無精髭。
深い皺。
いかにも酒場の主、といった風貌だ。
サダオミは一瞬だけ、足を止めた。
――考えても仕方ない。
腹は、いずれ減る。
覚悟を決めて、カウンターまで歩く。
「……あの」
声をかけた瞬間、
男の視線がはっきりとこちらを捉えた。
上から下へ、一瞥。
そして、即断。
「客じゃねえな」
内心で苦笑する。
まあ、そうだろう。
「仕事を探してます」
飾らず、正直に言った。
男は少しだけ目を細める。
「金は?」
「……ありません」
一拍。
沈黙。
サダオミは、この沈黙に慣れていない。
だから、少しだけ居心地が悪かった。
「女一人で?」
「はい」
男は視線を逸らし、
布巾を掴んでカウンターを拭き始める。
乱暴だが、雑ではない手つきだった。
「……名前は」
「サダオミです」
男は鼻を鳴らす。
「変な名前だな」
「よく言われます」
それは事実だった。
男はしばらく黙り込み、
やがて、ぽつりと言った。
「皿洗いと、床掃除だ」
サダオミは瞬きをする。
「……え?」
「客の相手はさせねえ。
余計な揉め事は増やしたくねえ」
言葉はぶっきらぼうだった。
だが、その視線に
女を見る色はなかった。
困っている若者を見る目だった。
「それでいいなら、置いてやる」
サダオミは、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
男は顔をしかめる。
「礼はいらねえ。
働け」
「はい」
即答だった。
男は背を向け、
厨房の奥へ声を投げる。
「おい、バケツ出しとけ」
それから思い出したように振り返る。
「……ダンだ。
おじさんでいい」
「……ダンおじさん、ですね」
「勝手にしろ」
それきり、こちらを見なかった。
◇
その日から、
サダオミは酒場で働き始めた。
皿を洗い、
床を磨き、
樽を転がす。
慣れない仕事だったが、
難しくはない。
「そこ、拭き残しだ」
「すみません」
「謝る前に手を動かせ」
ダンおじさんは相変わらず無愛想だった。
だが――
余計なことは言わない。
過去を聞かない。
理由を探らない。
仕事をすれば、
それでいい。
それだけだ。
夜になると、
ダンおじさんは何も言わず、
店の奥の物置を指さした。
掃除用具と空き箱が積まれた、
狭いが雨風はしのげる場所。
古い布切れを一枚、
無造作に放ってよこす。
泊まっていいとも、
悪いとも言わない。
だが――
それで十分だった。
数日が過ぎ、
サダオミは店の勝手を覚えた。
食器の置き場所。
酒の種類。
床のきしむ癖。
夜、最後の客が帰ったあと。
サダオミは、
空になった酒場を見回した。
古い椅子。
傷の残る床。
壁の染み。
それでも、
不思議と嫌じゃなかった。
ダンおじさんが、
帳簿を閉じながら言う。
「明日も来い」
「はい」
理由を考える前に、
口が動いていた。
店を出ると、
夜風が頬を撫でる。
サダオミは空を見上げる。
翼は、出ない。
だが――
今は、それでよかった。
「……しばらくは」
小さく呟く。
「ここでいいな」
酒場の灯りが、
背後で静かに揺れていた。




