天界 Ⅲ・後編
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天界は、今日も変わらず穏やかだった。
――少なくとも、見た目の上では。
桃色の雲の大地に、白い空。
どこからともなく、オルゴールの音色が流れている。
あの旋律が鳴っているということは、
誰かが任務を達成して、
無事に戻ってきたのだろう。
川篠定臣は、
それくらいの認識でその音を受け止めていた。
だからといって、
特別な感慨があるわけでもない。
――いつもの天界だ。
そう思って視線を前に戻した、その時だった。
書類の山である。
「……なんだこれ」
机の上だけじゃない。
床、椅子の背、壁際。
量が多い、というより、
“手が回っていない”印象だった。
その書類の中心で、
小柄な天使が忙しなく動き回っている。
「……るるかさん?」
声をかけると、
大宮るるかは、びくっと肩を跳ねさせて振り返った。
「あっ……定臣さん!
お、おかえりなさいですぅ……!」
るるかはいつも忙しそうだ。
それは知っている。
ただ――
今日は、少し様子が違う。
定臣は、そう感じていた。
「それで……この状況は?」
「えっ、あ、えっと……」
るるかは一瞬だけ視線を泳がせ、
言葉に詰まった。
「……ちょっと、忙しくて」
「“ちょっと”じゃないですよね」
やんわりと言うと、
るるかは観念したように小さく息を吐いた。
「……はい。
少し、問題が起きてまして」
それで、十分だった。
オルゴールは、今も鳴っている。
だからこの光景が異常だ、とは言い切れない。
それでも――
この書類の量は、どう考えても多すぎた。
定臣は、そう感じていた。
◇
「それで?」
促すと、
るるかは書類を抱え直しながら説明を始めた。
「ええと……
任務を達成したはずの世界が、
どうも足りていないみたいなんです」
「足りないんですか」
「はい。
詳しい仕組みは私も把握しきれていませんが……」
るるかは困ったように笑う。
「天界的には、
まだ“大問題”というほどではないです」
「……と、いうことは?」
「各世界側から見たら、
放っておいていい状況じゃないと思います」
「ですよね」
定臣は即答した。
任務を終えた世界がどうなるのか。
正直、詳しいことは知らない。
だが――
“足りない”という言葉だけで、
嫌な予感は十分すぎるほどだった。
「原因はわかってるんですか?」
「表向きには……
任務達成率が下がっている、
という扱いになっています」
「なんかマズそうですね」
それ以上は、踏み込まなかった。
頭の片隅に、
ひとりの天使の顔が浮かぶ。
――小波透哩。
理由はわからない。
だが、あいつが動いていないなら、
こういうズレが出てもおかしくない気はした。
「それなら」
定臣は、軽く肩を回す。
「俺が行きますね」
「えっ?」
「任務ですよ。
いないよりは足しになると思いますし」
るるかが慌てて両手を振る。
「ま、待ってください定臣さん!
まだ休息期間ですし、
急ぐ必要は――」
「いや、今いった方がいい気がするんですよ、なんか」
「……気がする?」
「はい」
定臣は、あっさりと頷いた。
「こういうのって、
考えるとロクなことになりませんから」
「そ、そういう問題でしょうか……?」
「そういうもんですよ」
そして、少しだけ笑う。
「だからちょっと行ってきます」
◇
「……やっぱり、行くのか」
その声に、
定臣は振り返った。
紫の髪を揺らす天使――
君島海里。
「うん。ちょっと」
「相変わらずだな、お前は」
「よく言われます」
軽口を交わすだけ。
それ以上でも、それ以下でもない。
ただ、
彼女の視線がほんの少しだけ
心配寄りなのを、
定臣は見逃さなかった。
「じゃ、行ってきます」
軽く手を挙げ、
任務水晶の間へ向かう。
無数の水晶が浮かぶ空間。
それぞれの中に、
これから始まる世界がある。
「さて……」
一つ一つを眺める。
色の違いはない。
特別な輝きもない。
それでいい。
今回は、
何があるかわからない世界でいい。
指先で触れた水晶が、
わずかに脈打った。
「……これにするか」
胸に当てる。
その瞬間――
――くしゅん。
どこかで、
はっきりと聞こえたくしゃみ。
「……ん?」
同時に、
視界の端で“何か”が歪んだ。
推奨。
案内。
座標。
それらが――
一瞬、真っ黒に塗り潰されたように見えた。
「……気のせい、かな?」
答えは出ない。
光が、定臣を包む。
そして――
その姿は、天界から消えた。
◇
その直後。
「…………」
小波透哩は、
わずかに首を傾げた。
「……定臣は?」
理由はわからない。
ただ一つ確かなのは――
川篠定臣が、
どこに降りたのかが見えない、
ということだった。




