第二部 ラナクロア編 最終話:それでいい
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エドラルザ王国領南部――ライマ山の山中にある靴の村、レイフキッザ。
城壁の外にありながら、この村だけはいつも“生きている音”がした。
木を削る音。
革を叩く音。
糸を引く音。
それらは、魔族の気配が近い世界で、
人間が人間であり続けるための、祈りに似た営みだった。
村の外れ。
森へ伸びる小道の先に、工房を併設した一軒家がある。
その扉は、夜明け前から静かに開いていた。
◇
エレシ・レイヴァルヴァンは、
靴のマイスターとしての業務を再開していた。
――再開、というより。
止めていた時間の方が、
この家には不自然だったのかもしれない。
作業台の上には、削られたばかりのカダ材。
型紙。針。糸。
そして、乾ききらない刻印の光。
エレシは手を止めず、
ただ淡々と、いつもの手順を繰り返す。
村へ納める靴。
城壁の外で生きるために必要な、正規の“足”。
けれど。
今朝だけは、ひとつだけ違った。
工房の隅に、
使い込まれた木刀が二本、
揃えて置かれている。
靴作りの道具ではない。
生活に必要なものでもない。
ただ、
今日が“そういう日”だと、
家そのものが知っているみたいに。
◇
夜明け前。
空気は冷たく、音が少ない。
呼び出したのは、二人だけだった。
理由は告げていない。
けれど、エレシは察していた。
前夜、最後の魔法の稽古をつけた時点で、
もう分かっていた。
彼が“最後”を選んだのではない。
世界が、彼を“帰す”準備を整えたのだ。
定臣が木刀を取る。
それを見て、
エレシとポレフは一歩前に出た。
二人揃って、深く頭を下げる。
「よろしくお願いします」
声は重なった。
けれど、その意味は同じではない。
片方は、
理解して受け取る別れ。
もう片方は、
理解しないまま受け取る設計図。
◇
先に出たのは、エレシだった。
剣を構えるその所作に、迷いはない。
既に“終わり”を理解した者の立ち方だ。
最初の一太刀。
速い。
鋭い。
そして、真っ直ぐだった。
そこに乗っているのは、感情ではない。
感謝だ。
今まで受け取ってきたすべて。
教えられたこと。
守られたこと。
見捨てられなかったこと。
それらを、
一太刀に込めて打ち込んでくる。
定臣は、それを受ける。
弾かず、競わず、
ただ正確に受け止める。
剣を返すたび、
エレシの剣が「整っていく」のが分かる。
恐怖ではない。
怒りでもない。
覚悟が、形を持っていく。
定臣は語らない。
師匠の顔をしない。
導く者ではなく、
並び立つ者として剣を振るう。
違う分野では、
彼女の方が先にいた。
この世界に降りたとき、
最初に手を差し伸べたのも彼女だった。
だから、これは教示ではない。
エレシが、いずれ必ず辿り着く“未来”を、
先に見せているだけだ。
一太刀。
また一太刀。
踏み込みの間。
魔力を込める前の一拍。
剣が止まる“その直前”。
すべてが、
彼女自身の剣の未来を指している。
エレシは、すべて理解した。
だから、
最後の一太刀は、
これ以上ないほど静かだった。
同時に、剣を収める。
呼吸が整うまで、ほんの数秒。
それから、
エレシは深く頭を下げた。
「……ありがとうございました」
それだけだった。
それ以上は言わない。
言えば、崩れてしまうから。
定臣は何も言わず、
ただ頷いた。
◇
次に前へ出たのは、ポレフだった。
表情は、いつも通りだ。
状況を完全には理解していない。
それでいい。
彼は最後まで、
“分からないまま進む”主人公だ。
剣を構える。
ポレフは一度、息を吸う。
「よろしく……お願いします!」
少しだけ声が大きい。
少しだけ緊張している。
定臣は頷き、
木刀を構えた。
最初の一太刀。
――遅い。
正確でもない。
力も足りない。
それでも定臣は一切、手を抜かない。
弾く。
返す。
踏み込ませる。
ポレフが剣を振るたび、
その“甘さ”を、
すべて剣で返す。
入念だった。
エレシの時よりも、ずっと。
何度も、同じ形を繰り返す。
何度も、同じ失敗をさせる。
ポレフは分からない。
なぜ、今それをさせられているのか。
それでいい。
定臣は、
意味を今、理解させる気がない。
いつか。
遠い未来。
迷った時。
立ち止まった時。
ふとした瞬間に、
この一太刀を思い出せば、
それでいい。
最後の一合。
定臣は、
わざと半歩、遅らせる。
ポレフの剣が、
初めて“通った”。
手応えに、
ポレフが目を見開く。
「……っ!」
何が起きたのかは分からない。
でも、
確かに“届いた”。
剣を収める音が、
静かに響いた。
朝の空気が、
ほんの少しだけ緩む。
稽古は終わっていた。
ポレフは、まだ息が荒かった。
額の汗を拭うことも忘れて、
ただそこに立っている。
そして――次の瞬間。
ぱっと、顔が綻んだ。
子供のように。
誇らしげに。
何一つ疑っていない笑顔。
「ご指導……ありがとうございました!」
それは、渾身だった。
意味も、理由も、
そのすべてを理解していなくても。
受け取ったという確信だけが、
まっすぐに宿った声だった。
定臣は、何も言わない。
代わりに、
ゆっくりと息を吐いた。
――ああ。
これでいい。
劉生が、
そうしてくれたように。
自分がいなくなったあとも、
世界が自分を終えられるように。
一太刀、一太刀。
設計図を刻んできた。
それが、今。
確かに、渡された。
光が、静かに溢れ始める。
爆ぜるようなものではない。
音もない。
ただ、
そこに“在った”ものが、
本来の場所へ還っていくように。
「……あれ?」
ポレフが首を傾げる。
エレシは、もう何も言わない。
ただ、
剣を持つ手を強く握りしめていた。
定臣は、
最後にもう一度だけ二人を見た。
――大丈夫だ。
この世界は、ちゃんと前に進める。
だから。
何も言わず、
ただ微笑んだ。
光が、輪郭を失い。
次の瞬間。
そこには、もう誰もいなかった。
◇
――観測。
遠く離れたカルケイオスの執務室。
ミレイナ・ルイファスは、
机に向かったまま、
瞬きひとつで“それ”を捉えた。
定臣の反応が――消えた。
ペン先が、
紙の上で止まる。
「……ふん」
吐き捨てるような声は、
苛立ちではない。
確認だ。
そして、
彼女は何事もなかったように、
書類へ視線を戻した。
――帰ったな。
風が吹く。
朝日が、刃を照らす。
世界は、
何事もなかったかのように、
回り続ける。
――その日。
エレシは、
しばらく剣を振らなかった。
ポレフは、
理由も分からないまま、
胸の奥に残った“何か”を、
ずっと忘れなかった。
それでいい。
それが、
彼がこの世界に降りた意味だった。
――第二部・完。




