役目を終えたあと
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気配が、薄れていく。
消えたわけじゃない。
遠ざかったわけでもない。
ただ、
最初からそこにいなかったかのように、
場から抜け落ちていく。
エレシは、そちらを見なかった。
見る必要がないと、
本能が告げていた。
あれは、
敵でも味方でもない。
理解する対象でも、
怒りを向ける相手でもない。
――役目を終えただけだ。
魔力の流れが、わずかに変わる。
術式が解ける音はしない。
空間が歪むこともない。
それでも確かに、
世界の一部が、静かに畳まれた。
ミレイナだけが、
ほんの一瞬、視線を上げた。
追わない。
呼び止めない。
そうしてはいけないと、
理解していたからだ。
次の瞬間。
そこに在ったはずの気配は、
完全に失われていた。
最初から、
そうであったかのように。
「……透哩」
定臣の声は、
それだけだった。
問いでもなく、
呼び止める言葉でもない。
ただ、
そこにいた事実を、
確かめるような声だった。
◇
エレシは、
自分の内側に残っているものを確かめる。
怒り。
殺意。
否定しきれない憎しみ。
――全部、まだ在る。
消えてはいない。
薄まってもいない。
それでも、
今は放たない。
視線の端で、
ポレフが息をしている。
いつも通りの呼吸。
いつも通りの立ち姿。
何も知らない顔だ。
それでいい。
それ以外は、要らない。
選んだのは、
正しさじゃない。
許しでもない。
ただ、
守るべき順番を、
一つだけ間違えなかった。
誰もが、
無意識にオルティスを見る。
命令を待つ視線ではない。
答えを求める視線でもない。
――判断を仰ぐ視線だった。
その時点で、
この場に異を唱える者はいなかった。
魔王の座は、
すでに移っていた。
オルティスは、
いつも通りに笑っていた。
柔らかく、
人を安心させる笑顔。
けれど、
その奥にある緊張を、
誰も見逃してはいなかった。
◇
世界は、
救われたように見えた。
血の呪いは止まり、
争いの理由は失われ、
最悪の未来は潰れた。
それでも。
誰もが分かっていた。
ここで起きたことは、
終わりじゃない。
選び直しでもない。
――不可逆だ。
エレシは、
ポレフの前に立つ。
背中を向ける。
それ以上のことは、
何もしなかった。
それで、
十分だった。
それぞれが、
それぞれの立場を引き受けたまま。
場は、
静かに解けていく。
この日、
世界は確かに前に進んだ。
同時に、
いくつもの感情が、
取り残されたまま。
――それでも。
それでいいと、
誰もが思っていた。




