負けんなよ
■
謁見の間は、すでに終わった場所の顔をしていた。
戦は起きなかった。
血は流れなかった。
だからここは、
正しく処理された場として扱われている。
誰かがそう判断し、
誰も異を唱えなかった。
◇
扉が開く。
軋みはない。
乱暴さもない。
ただ、
扉の向こうから足音が届く。
急いでいない。
警戒もしていない。
――来るべき者が、
遅れて到着しただけの歩き方だった。
華勇者一行は、
中へ足を踏み入れた瞬間、違和感を覚えた。
血の匂いがない。
剣が抜かれた気配もない。
それなのに、
空気だけが張りつめている。
終わったはずの場所に、
終わっていない重さが残っている。
◇
エレシの視線が、
玉座の前へ走る。
そこに立つ存在を、
一つ。
次に、
もう一つ。
それだけでも、
異常だった。
理由は分からない。
説明もない。
ただ、
魔王と呼ばれる存在が、
一人ではない。
それだけで、
感情が追いつかなくなる。
次の瞬間、
殺気が走る。
理屈ではない。
判断でもない。
反射だった。
両親を殺された記憶。
世界を壊された実感。
それらが一気に蘇り、
ただ一つの衝動に収束する。
――全部、殺す。
エレシは、
誰よりも早く踏み出していた。
狙いは定まっていない。
だが、迷いはない。
止めたのは、
剣だった。
乾いた音が一つ、落ちる。
定臣が、
エレシの進路に立っている。
構えてはいない。
斬る気もない。
ただ、
そこに立った。
それだけで、
エレシの動きが、僅かに止まる。
定臣は、
何も言わない。
剣を下ろし、
視線だけを向ける。
――ここまでだ。
そう告げる代わりに、
その場に立ち続けた。
エレシの殺気が、
再び高まる。
だが――
次の瞬間、
向き先を失った。
消えたのではない。
向けるべき対象が、
本能的に弾かれた。
視界が歪む。
魔王たちの姿が、
一瞬、遠のく。
呼吸が詰まり、
心臓の音が遅れて届く。
危険、という言葉では足りない。
強い、でもない。
――違う。
そこに、
“近づいてはいけないもの”がいる。
◇
誰も、
その姿が現れた瞬間を見ていない。
だが、
最初からそこにいたかのように、
場の中心に存在している。
――小波透哩。
穏やかな表情をしていた。
それだけで、
異質だった。
何かをしているわけではない。
何かをしようとしているようにも見えない。
それなのに、
場が、それ以上進まなくなっている。
魔王たちでさえ、
無意識に距離を取っていた。
威圧でも、
敵意でもない。
ただ、
“そこにいる”という事実が、
判断を鈍らせている。
定臣は、
その存在を見た瞬間、
わずかに視線を逸らした。
――ああ。
来たな。
そう、
分かってしまった。
言葉にすれば、
何かが崩れると知っているから、
何も言わない。
透哩の視線が、
一瞬だけ定臣に向く。
そして、
ほんの僅かに細まった。
分かっているのに、
何も言われなかったことを、
きちんと受け取って。
透哩は、
初めてエレシを見る。
逃げ場のない距離で。
「担保する」
それだけだった。
だが、
その言葉と同時に、
エレシの中に、
一つの“確信”が落ちる。
――あの子は、思い出さない。
理由は分からない。
方法も分からない。
ただ、
そうなるのだと、
分かってしまった。
エレシは、
反射的にポレフを見る。
何も知らない顔だ。
それでいい。
それだけは、
ここに残る。
怒りは消えない。
許しも生まれない。
だが、
“今、殺す”という選択肢だけが、
静かに遠のいた。
エレシは、
ゆっくりと息を吐く。
納得ではない。
受容でもない。
ただ、
選んだ。
――ポレフを。
クレハが、
一歩だけ前に出る。
その背中は、
最初から覚悟を終えていた。
「若、負けんなよ」
その一言で、
ここに至るすべてが、
確定した。




