動けぬ者
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膜の向こうが、静かになった。
ホウガンが消えた直後の静けさだ。
静けさは、音が無いというより――
次の音が来る前の、溜めだ。
その溜めが、破られる。
膜が、揺れた。
そして。
空気が、変わった。
変わったのは音でも光でもない。
もっと単純で、
もっと無慈悲なもの。
――殺気だ。
来た瞬間にわかった。
誰が放ったかなんて、考える暇もない。
胸が、ぎゅっと潰れた。
息が、止まる。
舌が、固くなる。
俺の隣で、マリダリフが一歩だけずれた。
エレシとポレフの方を――
守る位置へ。
ポレフが、息を呑む。
エレシの肩が、僅かに揺れた。
そして、エレシは。
笑っていなかった。
笑っていない、というより――
顔から、表情が消えていた。
膜の向こうから、ホウガンが現れる。
現れた途端に、場の全員が理解した。
ホウガンは――前に立つ。
逃げる気がない。
退く気がない。
名誉のために。
誇りのために。
自分が選ばれたという事実を、正面から受け取って。
だからこそ。
承諾した。
……そういう立ち方だった。
門番が淡々と告げる。
「三人目。出でよ」
ホウガンは、短く頷いた。
その頷きは、さっきの「承った」と同じ類のものだ。
言葉にしないぶん、余計に固い。
その一歩目が、床を鳴らす前に。
エレシの声が落ちた。
声は静かだった。
なのに、世界が震えた。
「……ポレフの敵」
たったそれだけ。
たったそれだけの言葉で、
エレシの中の何かが、外へ出た。
抑えられていたものが、解放された。
今までずっと――
ポレフの仲間だから、で押さえ込んでいた殺意が。
今、理屈を失った。
いや。
理屈が変わった。
ポレフの敵になった。
それだけで十分だった。
殺気が、広がる。
広がるというより、満ちる。
満ちるというより、押しつぶす。
ドン引き、という言葉が追いつかない。
背中がぞわっとした、とか、そういうレベルじゃない。
怖い、というより――
生き物としての機能が止まりそうになる。
ポレフが、固まった。
ポレフ自身も、エレシのそれに慣れていない。
慣れていい類でもない。
エレシは、ホウガンを見ていた。
ホウガンは、エレシを見た。
ホウガンの目が一瞬だけ揺れる。
名誉とか誇りとか。
全部。
一瞬で飛んだ。
それでも、ホウガンは前に立とうとした。
立ち続けようとした。
選ばれたから。
承諾したから。
だから――
戦うつもりで。
でも。
無理だった。
ホウガンの膝が、ふっと抜けた。
倒れるのが遅い。
倒れるまでに、間がある。
身体が状況を理解できていないみたいに。
白目をむいて。
口から泡がぶくぶくと出て。
最後にそれだけ言い残した。
「……こんなん無理やろぉ」
そして、気絶した。
場が、一瞬だけ完全に止まった。
誰もが同じ顔をしている。
引いている。
引くしかない。
◇
ホウガンの身体が、淡く発光した。
便利魔法だ。
気絶したまま、膜の向こうへ引き戻される。
――終わった。
そう思った瞬間。
空気が、再び揺れた。
同じ位置だ。
承諾した時と、寸分違わぬ場所。
ホウガンが、現れる。
意識は無い。
白目を剥いたまま。
泡も、そのままだ。
ただ“戻された”。
システムとして。
◇
エレシが、一歩踏み出した。
迷いが無い。
今度は、完全に留めを刺しに行く距離だ。
マリダリフが即座に割り込む。
定臣も、声を張る。
「待て!」
ポレフが、悲鳴のように叫ぶ。
「やめて!」
シアが、前に出た。
無言で。
だが、確実に。
そして――ルブランも動いていた。
音を立てない。
一歩も大きくない。
だが、最短で“エレシの進行線”に身体を置く。
四方向から塞がれる。
エレシの動きが、止まる。
視線が揺れる。
ほんの一瞬。
ポレフを見た。
それだけで十分だった。
エレシの肩から、力が抜ける。
殺気が、引いた。
完全ではない。
だが、これ以上は――ない。
◇
門番が、咳払いをした。
その仕草は、やや早い。
視線が、無意識にエレシを避けている。
淡々と、だが急ぐように告げる。
「戦闘は成立していない」
一拍。
説明は省く。
省かざるを得ない。
「不戦扱いとし、魔王側にポイントが加算される」
さらに続ける。
「四人目は、過去に一度も承諾・参戦の履歴が無い」
同条件。
「追加ポイントが加算される」
結論だけを置く。
「以上をもって――
勇者ポレフ一行の敗北が決定する」
◇
定臣が、思わず声を漏らした。
「……うっわ。ずっる」
マリダリフが、肩をすくめる。
「制度だ」
ポレフは、理解が追いついていない。
帰還処理が準備される。
進行ではない。
終わりだ。
――制度上は。
◇
空気が、わずかに歪んだ。
ポレフが、最初に気づく。
「……あ」
狐目。
白いマント。
腰に六本。
懐かしい。
それより先に、名前が浮かぶ。
ルクセン・パロエ。
定臣は、一拍遅れて察した。
剣士としての格。
初対面で感じた、あの警戒。
近くない。
だが、忘れられない。
ルクセンが、そこに立っていた。
「参加はしない主義だったんだけどねぇ」
軽い口調。
「でもさ」
視線が、膜の向こうを一度だけ撫でる。
「名誉のために立った子がいたろ?」
門番が、反応しかけて――やめた。
「制度で勝つのは、嫌いじゃないけどさね」
ルクセンは、肩をすくめる。
「ちゃんと“戦った結果”として
勝たせてあげたいじゃないか」
それだけ。
説明は終わりだ。
誰も、口を挟めない。
◇
俺は、ゆっくり息を吐いた。
……長くなる。
◇




