エドラルザ II
■
重大な事件が起きた直後、人は悪い冗談にでも見舞われた様な奇妙な感覚に陥る。
今の定臣は正にそんな状態であった。
突如、吹き飛ばされた大扉。自身をも巻き込まんとしたその矛先は、ラナクロアの世界王へと一直線に侵攻していった。
それは───正しく暗殺であった。
そう、この謁見の間でたった今、起きた出来事はこの国を揺るがす程の大事件だったのである。
◆
……今、王様殺されかけなかったか?
確か背後から大扉が飛んできて……
先程の光景を思い出す。咄嗟に回避運動を行えたのは、自分自身がこの場において気を張り詰めた侵入者だったからに他ならない。
もしも直撃していたならば恐らく命は無かっただろう。吹き飛ばされた大扉にはそれだけの速度と質量が備わっていた。
背中に嫌な汗が伝う。常日頃から鍛錬を積み重ねている自分ですら、死を覚悟する程の威力を孕んでいたのだ。もしもそれが王に直撃していたのならば……
騎士としての務めを果たしたドナポスに視線を送る。
ドナポスさんいなければ王様死んでたよな……
そこに思考が到達した時、ようやく一種の金縛り状態だった身体が自由を取り戻した。
まずは落ち着こう。もう一度、先程の出来事を反芻しつつ、ゆっくりと心拍数を整えていく。
謁見の間。吹き飛ばされた大扉……あれ?前にもこんなことなかったか?
そう───あれは羅刹に初めて会いにいった時だ。あの時は大扉と一緒に師匠が吹っ飛んできた。
謁見の間の大扉が破壊されるのは世界の理なのだろうか。相変わらずに場違いなことをなんとなしに考えてみる。思えばそれは無意識に行った現実逃避だったのかもしれない。
騎士団長ドナポス・ニーゼルフは先程からずっと一点を睨みつけている。自然の成り行きに身を任せるのであるならば同じくそちらに振り返るのが道理だった。
しかし振り向けない。不自然にそちらを見ないようにしていた自分に気がついたのは、背後から不機嫌そうに鼻を鳴らすその音が聞こえてきてからのことだった。
『ふんっ』
どうやら無視することは出来そうにない。そう、即座に判断を下した。
ある意味で観念し、ある意味で覚悟を決める。そしてようやくドナポスの視線の先、つまるところの謁見の間の入り口に視線を送る。
そこに───
激怒の赤髪の姿が在った。
大気が震えている。遠目に見たその人の背後の空間が歪んで見える。
怒りで髪が逆立つことが本当にあるのだと初めて知った。その人の髪は神話のメデューサさながらにうねうねと戦慄きながら主が怒っていることを顕著に訴えていた。
よく見れば、身体の輪郭を縁取る様に一定の距離を保ち、火やら水やら風やら雷やら氷やら土やらが具現化して彷徨っている。
本能が震え上がる程の恐怖を覚えたのは何度目のことだろうか。
───ミレイナ・ルイファス。
ここまで幾度となく名前を聞かされた〝愛すべき馬鹿たれ〟ことロイエル・サーバトミンの実姉であるその人は、ロイエによく似た赤髪と目元をしてはいるものの、しかしその表情は愛くるしい妹君の表情からは想像もつかない程に怒り狂っていた。
───平伏せよ。
思わずそんな幻聴が聞こえてきた気がした。
『答えろ!ミレイナ・ルイファス!返答次第では……』
よくあれに強気に出られるな……
素直な感想を心の中で述べつつ、さすが英雄ドナポス・ニーゼルフだと背後の騎士団長殿に感嘆の念を抱く。しかしそれも束の間のことだった。
『そこをどけ!ドナポス!貴様のモヒカン千切られたいかっ!』
『えっ、ちょ……それは困る!』
『私は怒っているのだ!』
うわ~……
あまりに事前に聞かされていた情報通りの人物すぎて、思わず面白い顔になった。
そんな定臣やポレフPT、オルティスPT更に親衛隊の面々を他所に二人は会話を交わしていく。
『うむ、怒っているのは見ればわかる』
『まったく……君は変わらんな』
『うむ、そちらも壮健そうでなによりだ』
『さて───君はそこを譲ってくれる気はなさそうだが』
……あれ?
突然、場に張り詰めていた空気が緩和した。
先程の激怒の演出もどこへやら、ドナポスと親し気に話し始めたミレイナに違和感を覚える。それと共にそれに応じているドナポスにも同じ違和感を感じた。
恐らくは立場ある者通し多少の面識はあるのだろうが、いくら何でも今しがた主の命を狙った者相手に気を許しすぎではないのだろうか。先程の攻撃には確かな殺意が込められていた。それは受けきったドナポス自身が一番把握出来ているはずだ。
だというのに……
ドナポスのあの余裕のある態度は王を守護する絶対の自信からなのか、はたまたミレイナの怒りを和らげるための狡猾な戦略からなのか……
どちらにせよあれだけの怒気を露にしていたミレイナが、それに応じているのがどうにも納得出来ない。先程の怒りは間違いなく本物だった。それならば謁見の間に入った直後にその怒りを和らげる〝何か〟があったはずなのだ。
顎に手を当て思案する。
う~んと唸り始めた定臣に答える様に、突然ミレイナがその解答を提示した。
『まぁいい。とりあえずの意趣返しは既に済んだ』
はてなと首を傾げながらミレイナの視線の先を見やる。その視線に気がついたドナポスも同じく自身の背後に視線を送った。
『アッーーーーーー!!』
謁見の間に野太い叫び声が木霊した。
ドナポスの背後、つまりは先程まで玉座が存在していたその場所から、崩れ落ちた内壁までのそこには両鼻から鼻血を流出したままの姿で、白目を剥いて口をあんぐりと開き気絶しているエドラルザ王の姿があった。
それはそうである。迫り来る大扉を完全に防ぎきっていたのであるならば、玉座の背後の内壁が崩れ落ちるはずがないのだ。それが見事に崩れ落ちていたということは……
ドナポスプッシュ。大きなその背中でうっかりと壁との間に標的を挟み、圧迫する重量級の成せる大技である。
思わず脳内にそんな解説が流れた気がした。
というかうっかりで許される範囲なのかこれは。
『馬鹿者っ!未然に阻止出来ずになにが親衛隊であるかっ!』
先程、格好良く決まったドナポスの決め台詞が脳内でリピートされる。恐らくは一喝された親衛隊の面々も同じ状態なのだろう。彼らの心の声が聞こえてくる気がした。
───団長、駄目じゃん、と。
なんともいえない空気が場を支配する。もちろんその場に居合わせた全員の視線がドナポスに集中している。
そんな中、筋骨隆々なドナポス・ニーゼルフは一度、凛々しく胸を張り、謁見の間にゆっくりと視線を這わすと、くわっと眼を開き───
『てへっ♪』
もじもじと両手を後ろに組み、片足を後ろで交差させ、そう言いつつ舌をぺろっと出した。
拝啓───小夜子様。
そちらはいかがお過ごしでしょうか?
こちらは……
俺は……
突如の大雪に見舞われました。現在進行形で。
「…………やだあああああああああ!!」
極寒の謁見の間。燃える赤髪の炎さえも凍りつかせた大事件は、こうして定臣の絶叫で締めくくられることとなった。
■
大丈夫。まだ軌道修正できる範囲です。
謁見の間で起きた一連の出来事。それを脳内で反芻しながらオルティス・クライシスはそんなことを思っていた。
ミレイナ・ルイファスの唯一無二の弱点。それは妹であるロイエル・サーバトミンである。彼女を攻略するには〝そこ〟を衝くほかには無かった。しかしそれは諸刃の剣でもある。
すべての人類を平等に見下す彼女が唯一、特別視している存在。それは彼女の弱点であり、それと共に逆鱗でもある。もしも取り扱いを間違えようものならば、逃れ様のない死がこの身に迫るのは火を見るより明らかであった。
故に事は慎重に運んだ。歳月をかけ、下地を着実に積み重ねてきた。
出来る事ならば自分の誠意に応じてもらう形で仲間に迎え入れたかった。しかしその願いは叶わぬまま、機会は訪れてしまった。
〝私が欲しいのなら手段を選ばずに来い〟
カルケイオスに通い詰めること三年。取り付く島も無かった彼女がある日、突然そう言った。
───お前の本気を見せてみろ。
言葉の裏に隠された彼女の真意をそう解釈した。
それまでの三年、僕は彼女に本気の誠意を見せてきたつもりだった。そしてその誠意は伝わったのだろう。だからこそ彼女はようやく態度を軟化させた。
その上で提示された課題内容。恐らくは僕に奥の手があり、それをまだ出し惜しみしていると看破されていた。
彼女はそれを使ってこいと言う。
しかしそれは───
オーネに無理を強いるということだった。
東で偶然にも事件が起こり、ミレイナがカルケイオスを空けたのは邂逅だった。
言い訳はしない。結局、それを期に僕はその道を選んだ。
スッとミレイナを見据える。見れば彼女も腕組をしたまま、こちらに視線を投げかけて来ていた。
───あなたには意地でも仲間になって頂きます。
───さぁて、どうでる小僧?
騒然とする謁見の間。両雄は視線でそう会話を交わした。その背後、救護兵に慌しく連れられていったエドラルザ王がこの謁見の間に戻るまでには、まだしばらくの時を要しそうであった。
◆
これが贔屓ってやつか。
自分よりも派手に、そしてついでにエドラルザ王の暗殺まで試みたミレイナ・ルイファスはお咎めなし。そして俺は───
『無駄な抵抗はやめろ!貴様は完全に包囲されている!』
一連の出来事から数秒。慌しく運ばれて行くエドラルザ王を尻目に、定臣を取り囲んだ親衛隊は十数人。その誰もが只者ではない気配を身に纏っていた。
「まぁ、こうなるわな」
ぽつりと呟く。むしろ今のこの状況よりも、ここまでの道のりに対しての方が違和感を覚えていた。
何故か邪魔されることなく通された城壁。半ば肩透かしにあった様な感覚に陥りつつも、それならそれで好都合だと目指した王城で受けた妨害……むしろあちら側からすれば警備なわけだが。
それも序盤だけで、後はここまで何の抵抗も受けずにやって来れた。
突破してきたというよりも誘い込まれた。自身を取り囲む兵の〝質〟がここにきて桁違いに上がっている。その印象はどうやら間違いではなさそうだと、定臣は刀の柄にそっと右手を添える。
『オホンッ!親衛隊。引け』
野太い声が謁見の間に木霊する。見ればそこには騎士団長、ドナポス・ニーゼルフの姿があった。
『その者、勇者候補ポレフ・レイヴァルヴァンの連れの者である。拘束する必要はない』
正に鶴の一声。英雄のその一言に場を支配していた剣呑な空気が霧散し、親衛隊の面子は銘銘に持ち場へと戻って行く。それを例の〝どや顔〟で大きく頷きながら見送るとドナポスは定臣に向き直り、改めて口を開いた。
「サダオミ殿、姿が見えぬので心配しておりましたぞ」
「ども、レイフキッザ以来ですね。ドナポスさんもお元気そうでなによりです」
一応の挨拶を交わす。どうやらドナポスは先程の失態を強引に誤魔化した様に、俺の乱入も〝ただの遅刻〟で誤魔化す気でいる様だ。しかしながら俺がここに来た目的は他にある。
内心でドナポスの心意気に感謝しつつも、俺は本来の目的を口にした。
「ドナポスさん、すいません。実は俺、ここに脅迫にきたんです」
!?
軽い調子で真相を言い放つ。案の定、場の空気はがらりと変わった。
『よい!引け……どれ、ワシが一つ事情を聞こう』
再び剣に手を携えた親衛隊の面々を制しながらそう言い放ったドナポスの眼光は、先程までの優しいものから獲物を見据える狩人のものへと変貌していた。
引くわけにはいかない。いざとなればエドラルザごとぶった斬るつもりでここまでやって来たのだ。
ぎゅっと握りこぶしを作る。その手を見つめながら思い出したのは、別れ際のロイエルの笑顔だった。
ドナポスの眼光に一瞬、ひるんだ定臣だったが自身の目的とそれが果たせなかった時のことを再確認し、瞳に力を宿らせる。再び顔を上げた定臣のその表情には確かな決意が見られた。
「実は妹が……いや、友達が死刑になることになりまして」
「む……?ふむ、名と罪状を聞こうか」
「ロイエル・サーバトミン。カルケイオスにて〝ミレイナの窯〟を破壊したことになっているはずです」
短く言い放つ。恐らくは英雄、ドナポス・ニーゼルフをもってしても確定した罪状を覆すこと等、出来はしない。ならばこの場で強引にロイエをさらってでもその命を死守する。ほとぼりが冷めるまで十年でも二十年でも守り抜いてやると、定臣は再び刀の柄に手を添えた。
『それは私の妹だ!!』
謁見の間に透き通った声が響いた。
慌ててそちらに視線を送る。声の主はミレイナ・ルイファスその人だった。
そしてミレイナは定臣をじっと見据えると、他のものへの興味をすべて失ったと言わんばかりに、真っ直ぐとそちらに向って歩みを進め始めた。
そしていよいよとして対峙する侵入者二名。
片や金髪美人のその人ことサダオミ・カワシノは、唖然とした表情で対峙するその人と見つめ、片や怒れる赤髪の小覇王ことミレイナ・ルイファスは、先程の怒りもどこへやら、どこか慈愛に満ちた瞳をサダオミに向けていた。
「君は……ロイエのためにここまで来てくれたのかね」
先に口を開いたのはミレイナの方だった。
ここまでの道のり、人から聞かされたミレイナ・ルイファスについて様々な印象を受けてきた。
故に定臣は思考する。その言をそのままの意味でとってよいものかと身構える。
「ははは、いいな君。ただの馬鹿ではなさそうだ」
さて、どう対処したものか。なにやらご機嫌なわけだが……まずは
「ども、初めまして。サダオミ・カワシノと申します」
「ふむ……で、サダオミ君。私は君に質問したわけだが」
「ん~、その前に名前名乗ろうよ。こっちは名乗ったわけだしさ」
俺のその言葉に周囲がざわめいた。名前を尋ねただけでそんなに驚かれても困るわけだが。
「ほう……君は私を知らないのかね」
パリパリとミレイナの周辺で空気が弾ける音がする。どうやら怒っているらしいが、名前を尋ねただけで怒られても困る。
「ん、ロイエの姉ちゃんでしょ?ミレイナ・ルイファスだっけ。
でもまぁ初対面なわけだし、名前くらい交わしてもいいんじゃない?」
もちろん、目の前の人物が何かとすごい人なのだということは知識の上で知っている。しかし自分としてはこれが初対面である。
周囲の騒然とする空気に圧されたこともあり、礼には礼を、無礼には無礼を返して何が悪いと、自覚している頑固っぷりがついうっかりと顔を出した。
しかしそれは結果として───
「はっはっはっは!君は面白いな。
この私と対等に口を聞こうとする者がまだこのラナクロアに存在していたとは」
この未来に待ち受けていた、最悪の事態を好転させる結果となった。
◆
たった一つのやりとりで、すべてを超越した先で理解し合えることがあるんだと知った。
正直に告白すれば、俺のミレイナに対する第一印象はあまり良いものではなかった。
しかし───
「はっはっはっはっ!いいな、君は実にいい」
臆することなくミレイナに対して、対等に口を聞いたことが何やら彼女の琴線に触れたらしい。
しばらくその場のすべてを置き去りにして笑い続けた彼女は、不意に真顔に戻ると綺麗な目元を意地悪く細めた。その表情はまるで子供が楽しい悪戯を思いついた時の様な〝あの〟顔つきだった。
───来る。
咄嗟にそう思った。
ここまで聞かされてきた彼女に纏わる話。その内容から察するに恐らく彼女は、人を試すことに生き甲斐を感じている節がある。ならば初対面である自分に対しても恐らく〝それ〟をしてくるはずだと、定臣は身構えた。
さて、何をされるのやら。
気を張り詰める。如何なる攻撃が来ようとも、即座に対応できるだけの気構えをもって対峙する。
さぁ、迎撃の準備は完了だ。
「ふふ、そう身構えるな。
愛しい妹のために命を賭して、ここまで駆けつけてくれた君を悪い様にするはずも無い」
定臣の緊張とは裏腹に、ミレイナが定臣に投げかけた言葉は実に友好的なものだった。
ミレイナは自分のその言葉に定臣の緊張が和らいだのを確認すると、用意していた次の言葉を紡ぎだした。
「さて、妹を大事に想ってくれる君に一つの真実を伝えておこう」
「なにかな?」
今を思えばミレイナの次のその一言こそが、彼女が俺を試した瞬間だったのだろう。
とはいえ次の瞬間───
「ロイエの一人称が〝僕〟になるように躾けたのは私だ」
───ガシッ
「姐さんと呼ばせて下さい!」
交わされた固い握手と共に───
「許可しよう!」
俺に姐さんが出来た。
◇
目の前で起こった信じられない出来事に、思わず目を見開きました。あのミレイナ・ルイファスが一瞬で他人を認めてしまうなど……
いえ、それ自体は構わないのです……しかしその理由が……
「納得出来ない!」
思わず心底思ったその言葉が口をついて出た。それを聞きつけたクレハがすぐ様に、諭す様にぽんっと僕の肩に手を置いてきました。
「若、顔が残念なことになってる(ぼそっ)」
「し、失礼……しかしあの方は一体?」
「あぁ、悪いね。まぁだ報告してなかったなぁ」
クレハ曰く、あのサダオミ・カワシノという人物はエレシさんの親戚にあたる方らしく、既に聞き及んでいたマノフとの一連の出来事において、最も貢献度が高かった人物なのだという。
「ふむ、それで指名求人の方は……」
「若に相談無しでわりぃ~んだけど、破格の初回Aランク登録。
あの状況から生還したこともあるし、俺が確認したマノフの負傷っぷりが半端無かったからねぇ」
「なるほど……しかしクレハ、少し腕が鈍ったんじゃないですか?」
「む?そりゃ聞き捨てならねぇ~ぞ若ぁ」
「あれは初回Aランクなどではありません」
「ほぉ……俺の評価にケチつけるなんて珍しいねぇ……
理由、聞かせてもらおうか?」
陽気な雰囲気を身に纏ったままクレハの瞳の奥に鋭さが増す。仕事の話をしている時のこの人は相変わらずに真剣そのものですね。だからこそ過ちは修正しなければいけません。
「あれは……あの方は初回Sランクです。そして僕はあの人が欲しい……!」
「ほぅ……くく、くっくっくっ、実は俺様もそぉう思ってたとこなのよぉ若ぁ」
◇
そんなやりとりを交わしているオルティスとクレハの通路を挟んだ右隣にはポレフPTの姿あった。
とはいえ、一連の騒動にも動じずにラナクロアの主人公ことポレフ・レイヴァルヴァンは今も尚、姉であるエレシの背に背負われたままの姿ですやすやと眠りこけている。エレシはエレシで案の定、そんなポレフの寝顔をにこにこと見守っているのだった。
そんなポレフとエレシの背後にはシア・ナイの姿があった。その脇にはどさくさに紛れて通路を横断し、こちら側へやって来たセナキ・タダノの姿も見受けられる。
二人のあまりの服装に見兼ねたクレハのプロデュースにより、早々にラナクロアに馴染んだ服装に着替えさせられた二人は、どこか神秘的であった雰囲気もすっかりと鳴りを潜め、傍目に見れば歳相応の少年と少女のもつ外見へとすり替わっていた。
とはいえ整ったその外見は、相変わらずに誰もが思わず振り返る程の端麗さを兼ね備えてはいる。
そんな二人の視線はその人物が謁見の間に侵入して以来、その一点に釘付けにされていた。
「兄さま」
「うん、そうだね姉さま」
周囲の状況を一切、無視して二人は会話を交わしていく。そんな二人の間には他者が介入出来ない空気が流れていた。
表情の乏しいシアの顔に変化は見られないものの、笑顔がスタンダードなセナキの表情には珍しく険しい色が差し込んでいる。
「伝説の……類だと思ってた」
「僕もだよ姉さま。出会えたのは僕達が初めてのケースじゃないかな」
「そう」
「うん、とりあえずどちら側になるかわからないけれど」
「うん」
「各自対処ってことで。出来るだけお話する様に心掛けようね?」
「……わかった」
◆
ミレイナと固い握手と共に姐弟の契りを交わしてから数十分後、ようやく復帰してきたエドラルザ王を前に、定臣は信じられない光景を目の当たりにしていた。
『オホン……してミレイナ・ルイファスよ。申し開きはあるか』
罪状の重い順に問い正していく。そう宣言した後、エドラルザ王はまず姐さんに向ってそう口火をきったわけだが……
「なんだエドラルザ王。あなたはむしろこの私に言い訳をする側の人間だろう」
そう言い放った姐さんが現在座っているのは、魔法で早々に修復された玉座だった。当然ながらそこは本来、エドラルザ王が鎮座するべき場所である。対するエドラルザ王はというと、渋々といった様子で下座に佇んでいる。
ってこれいいのか!誰もつっこまなくていいのか!
エドラルザ王と共に謁見の間に戻ってきた親衛隊の面々に視線を振ってみる。見れば皆が皆、彼女のありえない行動に愕然と立ち尽くしていた。
腕を組み偉そうに鎮座するミレイナ・ルイファス。その正面には僅かに曲がり始めた腰に芯を入れ、佇むエドラルザ王。まったくもってどちらが王様かわかったもんじゃない。ミレイナのあまりにあまりな態度に思わず親衛隊よろしく、あんぐりと口を開く。
まぁそもそも、出会い頭にいきなり暗殺しようとしていたわけだから今更、畏まるはずもないとは思っていたわけだが……
『言い訳とな?申してみよ』
後手で親衛隊を制しながらエドラルザ王が言い放つ。凛としたその仕草には貫禄が滲み出てはいたものの、現在の位置関係がそれらをすべて台無しにしていた。
「ふん、くだらん茶番を演じる必要は無い。あなたは私の用件だけ聞き入れればいい」
ぶった斬られるエドラルザ王。正しく絵に描いた様な傍若無人ぶりである。
周りのすべてを置き去りにするのはミレイナ・ルイファス、この人のアイデンティティか。またしても謁見の間は、彼女の彼女による彼女のための独壇場と化していた。
場の空気を完全に掌握した上でミレイナはしたり顔で口を開く。最早、この場でそれを制止出来る者は存在しなかった。
「さて───」
ゆらりと立ち上がり腕組を解く。それをあっけに見守る周囲を他所に、すっと落とされた両手に光が集束していく。それを見たドナポスが慌てて王とミレイナの間に立ちはだかるよりも先に、ミレイナの宣告は下された。
「私はここに〝戦争〟をしに来たわけだが」
───戦争。
このラナクロアにおいて、カルケイオスの長である彼女のその言葉は絶大な意味を持つ。
そしてその意味をラナクロアに住まう誰しもが理解していた。
〝もしも〟がここに介在していた。
エドラルザ王国とカルケイオスによる世界大戦。
数の利か質の利か。どちらにせよ人類は魔族に滅ぼされるのを待つことなく、自滅への一途を辿ることとなる。
〝もしも〟そうなれば城壁素材の支給は絶たれ、それを扱うためにカルケイオスで育成されている未来の人材も派遣されることはなくなる。それどころか現在、その任を担っている者もカルケイオスへ引き上げ、城壁は早々にその働きを無効化される。
それに伴い、劣化した城壁部位を修繕、補強も不可能になり、ついには城壁内部へ雪崩れ込む魔獣達。たちまちに世界を席捲して行く阿鼻叫喚。それは過去の暗黒時代の再来であった。
それを皆が想像し、謁見の間は水を打った様に静まり返る。
───有無は言わさない。既に王の命は我が手中に在り。
悪戯に嗤う瞳が皆にそう告げていた。
『ま、待て!ミレイナ!わかっておるのだろう!』
ミレイナの溢れんばかりの殺意に中てられ、エドラルザ王が慌てて口を開く。それを蔑む様な瞳で眺めながらミレイナは冷酷にその続きを口にした。
「当然だ。誰に口をきいている。
その上で───私は〝戦争〟をしに来たのだよ」
『し、しかし』
「あの子の命を狙う様な人類であるならば、いっそ滅んだ方がいい」
その瞳は怪しく光り、その手に集束された魔術は今にも発動しそうな様相を呈していた。そんな中、ミレイナ・ルイファスはにやりと嗤い、そして定臣の方へと向き直った。
「───と、脅迫とはこの様にするのだよ。新しい妹よ」
そこで俺に振られても心底困る。本気でそう思った。
とはいえ、先程までのやりとりが演技であったことには正直、胸を撫で下ろした。阻止するためには姐さんと対峙する破目になるかと、内心で覚悟していただけにその思いはひとしおだ。
ここに突撃した自分自身も、エドラルザ王のことは一発くらいぶん殴ってやろうと思っていただけに、演技とわかった今となっては青褪めるエドラルザ王に含み笑いすら込み上げてくる。
しかし───
「妹じゃなくて弟っすよ。姐さん」
これだけは言わせて頂きたい!
───もみもみ
直後のことだった。瞬時に背後に回りこんだ姐さんに、背後から抱きつかれる形で両肩をロックされる。
───もみもみ
「ちょっ……」
擬音をつけるのなら正に〝もみもみ〟
先程、撫で下ろしたばかりの自分の胸がミレイナ・ルイファスその人によって無遠慮に弄られていた。
「───と、脅迫とはこの様にするのだよ。新しい〝妹〟よ」
妹の部分をやたら強調して同じ台詞を言われた。
それからしばらくの間、〝弟〟を強調する俺に対して同じやりとりが行われ、ようやく心が折られたその時には謁見の間に先程まで流れていた緊迫した空気は、ものの見事に消失していた。
それはいいとして、オルティスがやたら前屈みになっているのやら、クレハがにやにやしているのやら、ドナポスさんが赤面しているのやら、エドラルザ王の口がやたら尖がっているのやら、親衛隊の面々の口元がやたら弛緩しているのやらが嫌に気になる。
先程、うっかり漏らした自分の声を思い返すと死にたくなってきた。
これが絶望ってやつか。虚ろになった瞳で恨めしく姐さんを睨んでみる。すると主犯であるその人は、相変わらずに周囲のすべてを置き去りにしたKY発言を繰り出してきた。
「ふむ……サダオミ・カワシノか……
う~む。いつまでも〝新しい妹〟では味気ないではないか。
そうだな……よし、ここはこの私が親しみを籠めて愛称を名付けようではないか」
……好きにしてくれ
今この場でそれは必要なことなのかと、心底つっこみたい気持ちもあるにはあったが、今はそれよりももう少しの間この絶望に浸りたい気分だった。
絶望の最中、思考を切り替えて立ち直りを計ろうと過去に自分が呼ばれてきた〝あだ名〟を思い返してみる。
学生時代、基本的に名前をそのまま呼ばれる事が多かったが、当然ながら、あだ名で呼んでくる人もいるにはいた。
まず、一番多かったのが〝川ちゃん〟次点で〝臣っち〟あたりか。変わり種で〝篠様〟なんてのもあった気がする。
〝様〟なんてのはどうにも落ち着かない。エレシに様付けで呼ばれた時のあのむず痒さは、学生時代の古傷を刺激されたからだったのかと今更ながらに思い出してみた。
まぁ妥当な線で〝川ちゃん〟あたりだろ。まだ聞かぬミレイナが名付ける自分の愛称にそう中りを付ける。
ようやく先程のショックから回帰し始めた頭で、ぼんやりとそんなことを思っていると不意にその瞬間は訪れた。
「チャッピーに決まりだな」
そうかチャッピーか。そういうのもあるか。なかなかにキュートではないか。
「ってチャッピー!?
…………………ぇ~……チャッピーて……」
「それでだな、チャッピー」
「ぇ、ちょっと待って!それ決定なの!?俺の意思とか関係無いの!?」
「チャッピー」
「ぇ~……」
───俺に愛称が付いた。
泣いてませんよ?