カルケイオス IV
■
◇
定臣とロイエルが眠りに堕ちたその頃、エドラルザ王国国立魔科学専攻学院最深部〝セキオスの間〟では一つの事件が起こっていた。
膨大な魔力で蠢くその空間には〝当番〟で任務にあたっているキカ・サミリアスの姿があった。
整った目元と、丁寧に切り揃えた漆黒の前髪。笑顔が似合うはずのその顔はしかし、今は脂汗を浮かべた追い詰められたものへと変貌していた。
「油断した───まさか私狙いだったなんて」
キカ・サミリアスのその言葉に、彼女の正面の位置に佇む少女が口元を歪める。
気がつかなかったのも無理はない。私の記憶の中での彼女は、いつも人影に隠れているような大人しい子だった。
にやりと吊り上った口元に今でも違和感を感じる。
痩身長躯の体型に藍色のポニーテールのその少女は、正体が知れた今でもどこか怯える様に瞳を揺らしていた。
その瞳とは対称的に、凶悪に吊り上られている口元が〝セキオスの間〟の異様な雰囲気と合わさって、なんとも奇妙な感覚に陥れられる。
「でもなんであなたが……」
聞いてはみたものの、やはり返答は無かった。
そもそも外部からの〝侵入者〟という思い込み自体が間違いだったのだ。彼女は三年前にはこのカルケイオスの住人になっていたのだから……
それにしても───
他の〝当番〟の三人に視線を送る。案の定、全員が両手をだらりと垂らし、虚ろな瞳を浮かべて心ここに在らずといった状態になっていた。
───わかってはいた。
通常、五人一組で割り当てられている〝当番〟には当然ながら五人必要な理由がある。
世紀の大天才〝ミレイナ・ルイファス〟が創りだした〝ミレイナの窯〟
それを〝維持〟するには常に学生三人が本気で魔力を注ぎ続ける必要がある。
恐らくは学生の実力を〝試す〟意味も込められたその魔力設定。
───もしも実力が及ばず、魔力がボーダーラインを割り込もうものならば。
この〝セキオスの間〟にはエドラルザの〝法〟が適応される。
城壁関係で何かトラブルが起きようものなら、原因を作った人間はエドラルザ王国に送致された上で即、死刑となる。
その事情も踏まえた上で、三人で足りるところを五人制にしている理由。学生に高い魔力レベルを要求しつつも、まるで〝間違ってもカルケイオスから死刑囚は出さん〟と学長が副声音で語っているようだと、キカは受け取っていた。
しかし現在、〝ミレイナの窯〟に魔力を注いでいるのは自分一人のみ。悪意を自分に向けている者が目の前の少女以外にいない以上、他の〝当番〟の者達の状態は容易に想像できた。
時間は経つ。そう遠くないうちに魔力が底をつくのは目に見えていた。
「私───あなたに恨まれるようなことしたかしら?」
もちろん返答は期待していない。自分の言葉で彼女の心に隙が生まれればいいと、その程度の気持ちで放ったキカの一言はしかし、今は〝敵〟となった元クラスメイトの彼女の心を大きく揺り動かした。
「ご、ごめんなさい!う、恨んでるとかそんなのじゃないの……」
その声は凶悪に吊り上る口元とは裏腹に、キカが知るいつも通りの臆病な彼女のものだった。
「……だったらどうして?」
少し間を空けて諭すような声色でキカがそう尋ねる。相手の様子から裏になにか事情がありそうだと察したからだ。
「こ、これは恩返しなの!だ、誰も殺されたりしないから!だからお願い!」
臆病に揺れていた瞳に芯が入る。そう言い放った彼女はなにかを決意したように見えた。
意識を集中して背後の扉を伺う。あの扉さえ開ければ〝法〟の番人〝ルブラン・メルクロワ〟その人が待機しているのだが……
残念ながら、彼女があの扉を開いて中に入ってくることは通常ではありえない。今は命を狙われることが少なくなったとはいえ、このカルケイオスにはいまだに彼女の暗殺を諦めていない輩が数人いるのだ。
普段の彼女はあの扉の向こうから、気配だけでこちらを監視している。そして現在この〝ミレイナの窯〟周辺で起こっている事態は目視以外で察知できるものではない。
あの鉄扉が恨めしい。とはいえ気配を察知できないルブランを責めることは出来ない。
目の前の彼女の悪意は〝特異体質〟である自分でやっと察知できる程度の異常なのだから。
「───き、聞かせてもらえるかしら?」
消耗が激しい。早くこの状況を打破しなくてはと、キカはさらに少女に意識を集中させた。
〝すべての感覚が鋭い特異体質である〟
キカ・サミリアスはカルケイオスにおいて〝ミレイナ・ルイファス〟が唯一認めた〝特異体質〟の持ち主だった。
すべての音が一瞬消える。次の瞬間には、正面の彼女の息遣いが大音量で聞こえ始める。
さらに神経を研ぎ澄ませる。周囲の魔力の流れが鮮明に視え始めた。その中で彼女から流れ出ている魔力が明らかに周囲のものから浮いているのがわかる。
吊り上った口元を起点に流れ出ている〝異質〟な魔力 。
そこに意識を集中させた瞬間───
視界が弾けた。
それは誰もが予想していなかった出来事だった。
周囲の膨大な魔力にキカ・サミリアスの〝特異体質〟。さらに目の前の少女が持つ〝異質〟な魔力。それらが織り成し合い初めて起こりうる奇跡だった。
「!?……な、に……こ……」
キカ・サミリアスは視界が弾けた感覚の中、自身が身体から抜け出し、正面の少女の身体に吸い込まれていくような感覚を覚えていた。
何が起こったのか理解できない。過去にこんなことは一度も無かった。
混乱に陥りかけた脳を必死になだめる。
ここは───彼女の中なの?
視界はまだ無い。しかし最後に覚えた感覚を頼りに、茫然とそんなことを思った。
───オーネ・ネルビル。
いつもクラスで、影に隠れていたこの子の名前は確かそうだった。数回しか話した記憶は無いものの、悪事を働くような子には見えなかった。
思考がそこに到達すると、途端に視界に景色が写りこむ。
再び視界に捉えたその景色は〝セキオスの間〟のものではなかった。
景色を認識する前に眼前に広がる光景から〝色〟が抜け落ちていく。モノクロになったその景色に目を凝らすと……
〝うぅ……〟
眼前に突然、泣きじゃくる少女が現れた。
この子は〝オーネ・ネルビル〟だ。何故か直感的にそれがわかった。
……昔のオーネ?
面影はあるものの、自分が知る姿よりも明らかに幼いその姿になんとなしにそう思った。それを口に出して呟いてはみたものの、声になることはなかった。
よくわからない状態は続く。
しばらくして、自分の姿は目の前の幼いオーネには見えていないようだと理解した。
〝……どうして?〟
尚も泣きじゃくる幼いオーネ。彼女の声だけは頭に直接、響くように伝わってくる。
どうやら今の自分には〝彼女〟を視ることしか出来ないのだと理解した。それならばとさらに少女に意識を集中させる。
まだ僅かにおぼろ気だった少女の姿が際立ち始める。
不意に───さらに彼女の中に潜るような感覚に襲われた。
〝キカ・サミリアス?〟
再び弾けた視界の中で声を聞いた。
───その声……オーネ・ネルビル?
〝そう〟
───何が起こってるの?
〝わ、私にもよくわからない……〟
───さっき幼いあなたが視えたわ。
〝私にもあなたの視界を通して視えていたわ〟
少し話して会話の必要がない事に気がついた。恐らくオーネも同じことを思ったのだろう。
お互いにお互いの意思がわかる。だからこそ伝えたいことがあるのだと理解できた。
〝うん……いいよ。視て……キカ・サミリアス〟
オーネのその声を聞いて、さらに意識を集中させる。集中するだけで、視界は水を弾くような音を鳴らして跳ね続けた。
意識が弛んでいく。霞む視界とは裏腹に、心は引き締められていくような不思議な感覚が身体を駆け抜けていく。
気がつくと私は……
───キカ・サミリアスでありオーネ・ネルビルだった。
感覚が語りかけてくる。
〝私はあなたと同類だから〟
その意味を探ろうとすると再び視界が弾けた。
◇
〝セキオスの間〟で起こった不可解な出来事。その中でオーネ・ネルビルに意識を飲まれたキカ・サミリアスは、一体化した彼女の記憶を遡る。
オーネ・ネルビルはキカ・サミリアスになにを語るのか……
◇
〝私はあなたと同類だから〟
視界が彼女の記憶に支配される寸前に、聞こえてきたその声が妙に印象的だった。
今は理解する必要はない。流れに身を任せていれば、それですべてが理解できる。
不思議とそんな確信があった。
そして〝私〟は完全に過去の〝彼女〟になった。
◇
───幼い頃から何故か人によく殴られた。
記憶を遡れば、最初に手をあげたのは母だったように思う。
昔のことを思い出すのは嫌だ。私には泣いていた記憶しかないのだから……
私が私として本当に生まれたのは五年前のことだった。
それは降りしきる雨の中の出来事だった。
その日も私は殴られ、腫れ上がる頬を手で抑えながら道端で蹲っていた。
頭上からは雨音に混じり、今も誰かの猛る声が聞こえている。
───どうして?
もう何度、自問したかわからない。
物心ついた時には私の周りには〝悪意〟が充満していた。〝悪意〟は暴力を生む。
私の周りには暴力が充満していた。
それは時には直接私に降りかかり、時には周りの人間を飲み込んでいった。
私の周りには争いがつき纏っていた。いつしか私はそれが自分のせいなのだと理解した。
〝悪意は私と共に在る〟
自覚してからはある程度、避ける術がわかってきた。
できるだけ目立たず影のようにしていればいい。そうしていれば殴られる回数も減っていった。
でも───
その日はうっかりした……本当にうっかり……
素通りしていれば良いものを、財布を落とした子供に拾って手渡してしまったのだ。
その子は純粋に〝ありがとう〟と言ってくれた。それが嬉しくて、つい笑いかけてしまった。
私が笑うと〝悪意〟は鎌首をもたげるようにして現れる。わかっていたのに……
あぁそうか……今私を足蹴にしているのはあの子の父親だったんだ。
痛いのには慣れている。うっかりの代償にしては、いつもよりひどい気もするけれど……それもすぐに終わってくれると思う。
明日からは失敗しないようにしよう。今日よりも生きなければ、明日は何事も無く生きていられる。
気がつくと怒声が止んでいた。妙に耳障りな雨音のせいで〝暴力〟が終わったことに気づくのが遅れたようだ、と。
ふと顔を上げる。
腫れ上がって見えにくい視界の中、自分を足蹴にしていた男が宙に浮いているのが見えた。
驚く私をよそに、男はこちらを向いたまま後ろ向きに飛ばされていく。
「魔法……?」
唖然とした顔のままで、こちらを向いたまま視界の彼方へ消え去った男。物理法則を完全に無視したその出来事に思わずそう呟いた。
そんな私を覗き込むようにして
───その人は現れた。
「違いますよ。純粋な〝暴力〟です」
爽やかな笑顔だった。
そのあまりの笑顔に〝自分はもしかしたら助けられたのかもしれない〟と、思わずそんな幻想を抱いた。
今までに人に助けられたことなど一度も無い。
だからこそ、今のこの気持ちは儚い幻想なのだと……
「まったく……やれやれですね。今の男……弱いのは勝手ですが
───あなたの様に本当に強い方に蛮勇を披露するのは頂けない」
言葉の意味はわからなかった。
とにかくその人は私を殴らなかった。それが、ただただ嬉しかった。
「立てますか?
───ふむ」
差し出された手を思わず拒んでしまった。
「ごめんなさい!」
それが申し訳なくて……哀しくて……
「あなたは……」
そう言うとその人は、目を見開いて私のことを見据えた。
───殴られる。
咄嗟にそう思った。
「こんなに……綺麗なものは無い」
それは驚嘆と感嘆が入り混じったような声だった。
哀しげに……でも、笑顔を絶やさずにその人はもう一度手を差し出して、今度は力強く私の手をとり、抱き上げてくれた。
「あなたは自分のことが理解できていない……
人は今まであなたを意味もわからず憎んできたはずです」
その言葉の意味もわからなかった。
けれど───
心当たりは嫌という程あった。
〝悪意は私と共に在る〟
そう自分に言い聞かせて、今まで生きてきた。
そこにいるだけで何故か殴られる自分。苛立ち始める周囲の人々。
笑顔は特にいけない。私はきっと呪われている。世界は私を否定している。
選択肢なんて過去に一度も無かった。それを当たり前なのだと思っていたし、これからもそうだと思っていた。
それなのに───
突然現れたその人は、いとも容易く私に選択肢を与えてくれた。
「僕と一緒に来ませんか?
───あなたがこのまま失われるのは実に惜しい」
◇
是非も無かった。私を取り巻く環境はとうの昔に〝悪意〟の餌食になっている。
着の身着のまま、すぐにその人に連れられることが出来た私は、言われるがままに〝保護〟された。
───オルティス・クライシス。
それが、とびきりの笑顔を携えて職業〝影の支配者〟を名乗った私の恩人の名前だった。
「影の支配者ってなに?」
もう何度言ったかわからない。その疑問を口にする度に『ふふふ、すごいでしょう』などとオルティスは決まっておどけて誤魔化すのだ。
〝保護〟されてからというもの、目まぐるしく変わった周囲の環境。見たことも無かった綺麗な服に豪華な食事。与えられた屋敷には使用人や警備兵までいる始末。
オルティスがどこか大きな組織の、重役であることはそのことからも容易に伺えた。
───職業〝影の支配者〟
もしかしたら本当にそんな職業なのかもしれない。
でも───
本当はオルティスの職業なんてどうでもよかった。
他人と会話する機会が少なかった私は、当然オルティスにもなかなか話かけられなかった。
そんな折に聞かされた職業〝影の支配者〟。
あまりにあまりな職業名につい思わず質問をぶつけた。
それは彼が私に作ってくれた〝きっかけ〟だった。
オルティスは私が話かけるのを待ってくれている。
それが理解できたからただ嬉しくて……
他人に拒否されないことがただ嬉しくて……
それから私が、彼に話かける時の最初の言葉はいつも〝それ〟になっていた。
仕事の合間に、マメに訪問してくれる彼との他愛も無いやりとり。
その時間は私がようやく〝人間〟になる事を許してくれていた。
◇
「最近、少し明るくなりましたか?」
数ヶ月が過ぎた頃、不意にオルティスがそんなことを言い出した。
「ここは……笑っても殴られないから」
そう返答した私に、オルティスは哀しそうな笑顔でこう告げた。
「そろそろ……お話しましょうか」
あなたが何者であるのかを───
◇
私が何者であるのか───
〝悪意は私と共に在る〟
恐らく私は人間ではなく〝悪意〟そのものなのではないか。
だから殴られる。蔑まれる。嘲笑われる。
私は〝悪意〟だから〝人間〟に蹂躙されてもそれは自然なことだ。
それが明日を生きるために、今日を生きない生き方を選んだ中で、私が辿り着いた結論だった。
だからこそ、彼の口から告げられた事実に特に驚くこともなかった。
あなたは───〝特異体質〟なのです。
首を傾げていた私に、オルティスは懇切丁寧に説明をしてくれた。
〝特異体質〟とは史上稀に出現する特殊な能力を持った人間のことを指し示す言葉で、現在のラナクロアにおいては、公認されているものはカルケイオスに存在する一名のみとされている。
〝特異体質〟の持つ能力は、先天的に個人の総量が決まりがちな魔力に比べ、訓練次第でその上限を大きく引き上げることが可能である。
そしてあなたは───
〝悪意を司っている〟
オルティスのその言葉は、私の胸の中にスッと入り込んできた。
あぁ───やっぱりそうなんだ……
「私はやっぱり人間じゃ「あなたは人間ですよ」
オルティスが私の声を声で阻んだ。阻んでくれた。
───私は人間でいてもいいの?
声の代わりに溢れ出た私の涙を、そっと指ですくいながらオルティスは言ってくれた。
「人は───殴られれば傷つくものです。
そして……傷つけられれば憎む」
それなのに、と私の頭に手を添えながら。
「ずっと傷つけられてきたあなたは誰も憎んでいなかった」
「そ、それは!」
「いいえ。そのことは否定させません」
「……ぇ?」
「あなたが自分のことをどう思い、世界の理不尽に耐えてきたのか……
それは、あなた以外の人間が理解できるものではありません。
しかし───」
綺麗だったと。オルティスはそう言ってくれた。
憎まれ。蔑まれ。嘲笑われ。
〝悪意〟に翻弄され蹂躙され続けた中でも、あなたは決して人を憎まなかったと。
笑いかければ〝暴力〟が具現化すると理解していながらも〝うっかり〟と少年に微笑みかける。
そんな姿がとても綺麗だったと。
殴られたのは?
───私は……〝悪意〟と共に在るから。
憎まなかったのは?
───そうされることを〝当たり前〟だと思っていたから。
どうして?
───私は……〝悪意〟そのものだから……
〝悪意〟がどうして人を助けた?
───それは……だから〝うっかり〟
『それはあなたが〝人間〟だからです。
あなたは───気高く、美しく、そして何よりも強かっただけです。
あなたは〝人間〟です。〝悪意〟などでは断じてありません』
普通の人間が持ち得ない〝強さ〟。それをあなたは持ち合わせていただけです。と
だから頼むからその〝強さ〟を人間らしく無いなどと勘違いしないでくれ。と
彼は珍しく息を荒げて私に言ってくれた。
そうか───私は〝人間〟だったんだ……
だから───涙が流れてたんだ……
そしてそれは今も……
でも───この涙は温かいなぁ……
その日、私は私の在り方のすべてを否定され……
そして肯定された。
◇
オーネ・ネルビルの想いが心に直接流れ込んでくる。
オルティスとの邂逅。それが〝彼女〟にとってどれだけの出来事だったのか……
そしてオルティスからの〝肯定〟。
彼女の人生観が変わったのが、その瞬間であったことは間違いなかった。
それからの彼女は死に物狂いだった。
───彼に恩返しがしたい。
自分にしか出来ないこと……
考えに考えた結果、やはり彼女が彼のために出来ることは〝能力〟を使うことくらいだった。
〝能力〟を〝能力〟と自覚し、努めて鍛錬に励む。次第に〝能力〟を自分の意思で制御出来るようになり、恩返しへの糸口を掴んだ彼女は、これならばとさらに鍛錬を積んだ。
それは血の滲むような努力だった。鍛錬の中で、やはり笑顔がより力を引き出すことを学んだ。
とはいえ〝悪意〟を使役する力である。その笑顔は自然と凶悪なものになる。
怯える瞳に勇気を携えて、口元に〝悪意〟を含ませ彼女は嗤う。
彼女がどんな想いで〝能力〟を行使していたのかを知った今となっては〝凶悪〟と表現するのは申し訳ない気がするけれど。あれは……
次第に大きくなっていく〝能力〟。その成長速度に、今度は制御が遅れ始めた。
その頃になり、密かに〝能力〟を鍛錬していたことがオルティスに発覚した。
彼は彼女の身体を気遣い、保護と同時に〝能力〟を抑制できる魔装具を手渡していた。
もっとも、保護された日に〝記念に〟と手渡された指輪にそんな役割があったとは〝特異体質〟うんぬんの話を聞かされるまで彼女は知りはしなかったのだが……
それを知った時の彼女の落胆ぶりは痛い程伝わってきている。
まったく……よりにもよって指輪とは、このオルティスという人物もわかっていない。
とは言え、彼の気遣いに反した形で、〝能力〟の鍛錬を重ねてきたことが彼に発覚してしまったのだ。
発覚した原因は、自力の制御に魔装具の力を借りても足りず、彼女の〝能力〟が漏れ出始めたこと。
オルティスは彼女を咎めなかった。
とはいえ───
「それ以上の魔装具となりますと……
ふむ───カルケイオスの協力を仰ぐしかないですね」
それが丁度、三年前の出来事だった。彼女が転入してきた日のことは覚えている。
今を思えば確かに少しだけ違和感を感じていた。
とはいえ、私を欺き続ける程に彼女の自力制御と学長印の魔装具は優秀だったのだ。
故に誰も気がつかない。
影で糸を引くオルティス・クライシス。
結局───
彼の〝思惑〟通りに事態は進んでしまった。
二年前の出来事───
〝悪意〟の矛先は操作されていた。
おかしいとは思っていた。
学長の実妹、ロイエル・サーバトミンである。いくら周囲に〝異質〟な魔力が渦巻いていようとも、後ろ盾も実力もある彼女が〝いじめ〟の標的であり続けることなどありえない。
とはいえ、当時の私は根源さえ絶てば問題は解決すると踏んでいた。
あの時、もう少し〝敵〟の狙いについて考えておくべきだった……
脳内に流れ込んできたオーネの記憶。カルケイオスに転入後も頻繁に会いにくるオルティスに、それを心待ちにしているオーネ。
そんなオーネにある日、表情に影を落としたオルティスが会いに来る。
当然、オーネはどうしたのかと尋ね、それにオルティスは困ったことが起きたと答える。
「な、何か私に協力できること……ない?」
「実は……」
まるで授業で習った、城壁の外側に蔓延る詐欺集団の手口そのものである。
ここで金の無心でもしていれば、まさにそれそのものであったのだが……
その時のオルティスの願いは実に奇妙なものだった。
『ある生徒の友達作りに協力してあげて欲しいのです』
その〝ある生徒〟とは、もちろんこの数日後に、学院に転入してくる予定だったロイエル・サーバトミンのことである。
そしてその手段が……
〝悪意の矛先を彼女に向け続けて欲しい〟
というもの。
───何故?
───どうしてオルティスがそんなこと?
───なんで?
それを聞いた直後に彼女の中に渦巻いた感情。しかしそれを凌駕したのは彼への愛情だった。
───オルティスがそう言うなら……
と。
〝あなたが直接手を下すわけではない〟
依頼した内容に、似つかわしくない清涼な笑顔を浮かべ、オルティスはさり気なくオーネに免罪符を手渡した。
結局、オーネは言われた通りにロイエに〝悪意〟の矛先を向け、そして私もオルティスの思惑通りに〝それ〟を助けロイエの友達になった。
オルティスがそうした理由……
まさか〝それ〟が今日のこの時のための布石だったなんて……
恐ろしい。素直にそう感じた。
どこまでが本当かわからない。どこまでが彼の掌の上なのか先が見えない。
あの笑顔は?
オーネが大切じゃないの?
最初からこの時のためにオーネに近づいたの?
わからないわからないわからないわからない。
それよりももっと恐ろしいと思ったのは───
オーネ自身が、オルティスの底知れない思惑に気が付いていることだった。
彼女は気が付いている。そしてそのすべてを受け入れている。
彼のためならば私は───
と。
「そう、彼の願いなら私はなんでも聞く」
彼女の声が聞こえた。それは先程までの脳内に響く感覚ではなく、普段通りの耳に届く声だった。
その声にいつの間にか視線が、彼女のものから自分のものへと切り替わっているのに気付かされる。辺りの景色は今も尚、色が抜け落ちていた。
「そうみたいね……」
短く返答しながらオーネを見やる。恐らくは精神世界なこの場所、彼女の姿は先程までとは様変わりし、漆黒のドレスに袖を通しその手には大鎌が携えられていた。
「オルティスのことを知られたのは計算外だったけれど……
それもこれでおしまい。彼の願いさえ叶えられればいい」
むしろ、オルティスの存在を隠蔽したがったのは彼女の意思だ。恐らくオルティス本人は自身の存在が知れようと別に構わないと思っている。
細部まで彼女の思考が理解できてしまう。彼女の〝能力〟が理解できてしまう。
彼女の狙いは───
オルティスの狙いは───
はじめから私を介してロイエにあるというのに……
だからこそ、ここで負けるわけにはいかないというのに……
絶対に勝てない。逃れられない。
そもそも〝能力〟の相性が最悪である。
それに積み重ねてきたものが違いすぎる。
そして〝想い〟が違いすぎる。
ロイエは大切な友達だけれど……
そういう〝想い〟は比べられるものじゃないけれど……
それでも───
オーネがオルティスを想う気持ちには届かない……
「それで……私のことをどうするのかしら?」
「あら?もう理解していると思うのだけれど」
そう言い放ったオーネの口ぶりには、先程まで見受けられた弱々しさは消え去っていた。
「……そうね」
想いを熱に、そして血を糧に日々研磨されてきた彼女の〝能力〟
その果てに辿りついた究極の型。それは〝悪意〟による支配だった。
「そう、私は〝悪意〟で人を支配する。
最もその過程であるこの〝作業〟を人に見られるのは初めてのことなのだけれど」
標的は本来、支配されていることにも気が付かない。
そう言うと彼女は大鎌を握るその手に力を込めた。
「先に言っておくわ。今から私は〝悪意〟をもってあなたに害を成す」
彼女が自らの〝能力〟を〝悪意〟を自覚して行使するのはこれが初めてのことだ。
前回は、少なくともオルティスが提示した免罪符が助けになっている。しかし今回の目的にはその免罪符も効果を発揮しない。
彼女は理解している。今から自分がすることは〝悪いこと〟なのだと。
故に彼女は自身に言い聞かせる。
もしも───
もしも人の中に〝魔王〟というものが存在するのならば……それは間違いなく自分のことであると。
「この現象には驚いたけれど、結果としてあなたを支配できる……
私があなたを支配できるのか……それだけが不安要素だった」
「……よく喋るのね。さっきまでとは大違い」
強がってはみたものの、もはや一刻の猶予も無かった。先程から足元がやけに重い。モノクロの景色の中、足元からは黒い影が触手のように伸び、そのツタをからめつけていた。
「あなたは私になったのだもの……自分のことは怖くないわ」
「……」
まずい。まずいまずいまずい。身体が硬直する。足は既にそこに在るだけのオブジェと化している。
「無駄よ」
絶対に勝てないと思った。そして逃げられないと思った。その時点で……
〝あなたは綻んだ〟
そう、私は〝綻んだ〟のだ。故に支配される。侵食される。
───ザッ
彼女の言葉を理解した時、自身の身体が大鎌に引き裂かれていたことに気がついた。
「……ぇ?」
袈裟斬りにあった自身の身体から、黒い霧のようなものが噴出している。それを確認するや否や、ぷつん、と視界が途切れた。
「ごめんね」
オーネのその声を最後に今度は意識が途切れた。
自身が〝魔王〟であると言い聞かせながら、私を切り裂いた少女のその声は……
やはり涙に濡れていたように思えた。