愛の公約
「ただいま」
家の玄関を開けると奥からパタパタとスリッパで近づいて来る音が聞こえて来た。
「あら、あなた。今日は早いのね」
「ああ、少し仕事が早く終わってさ。でも今度の土曜はゴルフの付き合いだよ」
俺はおどけるように首をすくめた。
「お休みなのに大変ね」
妻が同情するように優しく声をかけてくれた。あれから四年が過ぎた。
俺は四年前に志穂と結婚し家庭を持った。当時まだ学生だった俺の事を思って
〈結婚は大学を卒業してからでもよくない?〉と妻は言ってくれたが
〈どうしても今すぐに結婚したい〉と主張した為、俺は卒業を待たず学生結婚したのである。
「杏奈はどうしている?」
杏奈とは今年幼稚園に入った俺達の娘である。
「部屋でお絵描きしているわ。さっき始めたばかりだから当分出てこないわ」
妻はクスリと笑って首をすくめた。
結婚してすぐに志穂から〈子供ができたみたい〉と告白されたときは正直怖かった。
なぜなら心が壊れている俺が本当に子供を愛せるのだろうか?
母のように自分の子供を愛せなかったらどうしよう。という恐怖にも似た思いが頭をよぎったからである。
「大丈夫よ、貴方なら大丈夫。もしそうなったとしても私がしっかり育てるわ」
志穂はそう言ってくれた。もしもの時も彼女に任せれば愛に飢えた子供には育たないはず……と、心を強く持った。
そして数か月後、娘の杏奈が生まれた。自分の娘を見た瞬間両目から涙が溢れ出て来た。
訳の分からない熱い波が心の中に押し寄せてきて体中が感動で満ち溢れた。
妻と一緒に娘を見た時、俺は妻の手を握り何度も何度も〈ありがとう〉と伝えた
その都度妻はウンウンと嬉しそうにうなずいてくれた。
「あなた、もうお風呂が沸いているけれど、先に食事にする?」
妻の問いかけに俺はすぐ返事を返した。
「そうだね、先に風呂に入るよ」
「じゃあお風呂から上がったくらいに食事ができる様にしておくわ」
妻は楽しそうにそう言って台所へと戻って行った。
風呂から上がると食卓にはもう夕食のメニューが並んでいた。
「そういえば……」
妻は何かを思い出したかのように長細い箱を持ってきた。
「それって?」
「ええ、お父さんから」
妻が持ってきたのは彼女の実家から送られてきた今年製造の純米酒である。
「じゃあ夕食と共にいただくよ」
俺は妻の食事と共に彼女の実家から送ってきた酒を喉に流し込んだ。
「美味い、今年の純米酒はいい出来じゃないのかい⁉」
俺がそう問いかけると妻はニコリと微笑んだ。
「そうでしょう。父さんもそう言っていたわ」
俺はいつの間にか酒を飲めるようになっていた。
もちろん妻の実家の影響だが、酒を飲むなど以前の俺では考えられなかったのだが妻のおかげで俺も随分と普通の人間になってきたようである。
「あっ、パパ、お帰り‼」
娘の杏奈が部屋から出てきて満面の笑みを向けてくれた。
「ただいま、杏奈」
走ってくる娘を抱きかかえ思わず頬ずりする。優しい妻と可愛い娘、そして美味い料理。
これ以上の幸せなどあるのだろうか?と思えるほど今の俺は充実していた。
「ねえパパ、陽菜ちゃんがね〈杏奈ちゃんのパパはかっこいいね〉と言ってくれたの‼」
陽菜ちゃんとは杏奈の友達であり、一度ウチに遊びに来てくれた事もあった子だ。
「そう、それは有難うと言っておいて」
「うん、私ね、ウチのパパはかっこいいよってみんなに自慢しちゃった‼」
へへへっと無邪気に笑う杏奈の姿を見ると〈ウチの娘は世界一可愛いのではないだろうか?〉と思えてしまう。
それほど俺は娘にメロメロになっていた。
「それでね、今度の土曜日にもう一度陽菜ちゃんをウチに呼ぶの‼」
今度の土曜日……その日は急遽仕事が入ってしまったのだ、杏奈にどう説明しようか?と一瞬悩む。
そんな空気を感じ取ったのか杏奈の顔が不安で曇った。
「いい、杏奈。今度の土曜日はパパお仕事なの、だから別の日にしなさい」
どう説明しようか悩んでいた俺を察してか、妻が代わりに説明してくれた。
「だって土曜日はいつもお休みって……」
「いつもはお休みだけれど、今度の土曜日はお仕事なの」
「だって、もう陽菜ちゃんと約束して……」
「わがままを言わないで、パパがお仕事をしてくれるから私達はご飯を食べたり服を買ったりできるのよ」
「だって、だって……」
妻は娘と目線を合わせるようにしゃがんで喋っていた。かつて子供の頃の俺にそうしてくれたように……
杏奈は母親の言う事に理解はできても納得がいかない様子だった。
ほほを膨らまし唇を尖らせて不満顔を浮かべていた。
「わかった、土曜の仕事は断るよ」
俺の言葉に杏奈の顔はパッと明るくなり飛び上がって喜んでくれた。
「やったー―パパ大好き‼」
この言葉を聞く為ならば上司に睨まれることなど造作もない。これで良かったのだ……
俺がそんな事を考えていると妻が呆れ顔でこちらを見て口を開いた。
「あなた、いいの?」
「ああ、全然かまわないさ。娘の為だ。俺が頭を下げれば済む話だから」
すると妻は呆れ気味にため息をついた。
「あなたは本当に杏奈に甘いのだから……でもそういうのって出世とかには響いたりしないの?」
妻が心配そうに俺の顔を覗き込んできた。
「出世などどうでもいいよ。俺が家族の為だけに働いているって知っているだろう?
寧ろ偉くなったりすれば時間を拘束される事が増えるばかりで何もいい事は無い。
生活に困らない賃金さえもらえるのならば俺は一生ヒラ社員でも構わないと思っているよ」
俺はそれが当然とばかりに話すと、妻は少し嬉しそうに笑った。
「そうね、貴方はそういう人だったものね」
俺と妻が笑っていると杏奈も一緒にはしゃいでいた。
「杏奈、もう遅いから寝なさい」
「はーい、パパ、ママ、おやすみなさい‼」
杏奈は元気よく部屋へと戻って行った。その後ろ姿を見ていると自然と顔がにやけて来る。そんな俺の姿を見て妻は嬉しそうに微笑んだ。
「まさかあなたがここまで子煩悩になるとはね……」
「ああ、自分でも驚いているよ。結婚前に君のお父さんには〈生涯志穂さんだけを愛し続けると誓います〉と言ったが
そこに娘も加えてもらわないといけないな。こんなに幸せでいいのか?と、思うほど今の俺は幸せだよ‼」
俺がはっはっはと笑うと何故か妻がふと視線を逸らした。
「何だい?何かあったのかい?」
俺が問いかけると妻は恥ずかしそうに答えた。
「実は……二人目ができたみたいなの……」
俺は驚いて立ち上がった。
「それ、本当かい?」
「そんな事で嘘はつかないわよ……産んでもいいよね?」
「ああ、もちろんさ‼産んでくれ、産んでください‼」
俺は思わず妻を抱きしめた。
「ちょ、ちょっと⁉」
戸惑う妻もお構いなしに俺は全身で喜びを表現した。
「今でもこんなに幸せなのにもっと幸せになるとか、いいのかな?
そうか、二人目か~杏奈も兄弟が増えると聞けば喜ぶだろう。
次は男の子かな?いや、また女の子でもいいな。もしかして双子とかだとどうしようか⁉」
ハイテンションではしゃぐ俺の姿を見て妻はヤレヤレとばかりに笑った。
またお父さんとの約束を破る事になるな、でも許してくれるだろう。何せ可愛い孫なのだから……
そんな事を思いながら俺は久しぶりに母の事を思い出していた。
今度生まれてくる子供の事も一杯愛してあげようと誓った。
我が子を愛したくても愛せなかった母の分まで。
そして母の愛が欲しくて、欲しくてたまらなかった子供の頃の自分の分まで……
この作品は少し歪んだ愛の形というモノを書きたくて執筆したものです。物語の序盤で登場する萌香という人物なのですが当初の予定ではもっと軽くてチャラい女性にするつもりでしたが書いている内に段々と愛着がわいてきましてかなり変更しました、個人的にはかなりお気に入りのキャラになりましたので皆様に受け入れてもらえたら嬉しいです。実は彼女は別の男性と家庭を持ち娘の保育園でばったり再会するという話も考えたのですが明らかに蛇足なので取りやめました。そもそもこの作品自体作者の誤った女性観全開全開で書いた作品ですので〈こういう考え方もあるのか……〉くらいで生暖かく見守ってくれるとありがたいです。
次作はミステリーモノです。少しジャンルは違いますが呼んでくれると嬉しいです。ではまた。
頑張って毎日投稿する予定です。少しでも〈面白い〉〈続きが読みたい〉と思ってくれたならブックマーク登録と本編の下の方にある☆☆☆☆☆から評価を入れていただけると嬉しいです、ものすごく励みになります、よろしくお願いします。




