心の距離
彼女が台所で料理をしている後ろ姿を眺めながら待っている時間はとても幸せだった。
トントンという包丁の音がリズムよく刻まれ妙に耳に心地良い。
そんな幸福な時間が三十分ほど続き彼女は自慢の料理を運んできた。
「さあ、召し上がれ‼」
志穂の作ってくれた料理はいわゆる家庭料理、萌香が来るまでコンビニ弁当やレトルト食品などがメインだった俺達に気を配っての事だろう。
俺と父さんは彼女が作ってくれた料理を口に運ぶと、何ともいえない懐かしさが込み上げて来る。
そう、これが彼女の料理だ、しっかりと舌が覚えていた。
「うん、美味しいよ。これこそ君の味だ、本当に懐かしい」
それに父さんも同調する。
「そうだな、あの頃の味だ、相変わらず料理は上手いね」
俺達はむさぼるように食事を進めたが当の彼女はどこか不満そうだった。
「あの頃と同じか……あの頃よりも料理の腕は上がっているはずなのだけれど?」
言葉のチョイスを間違えたことに気が付いた俺達は慌てて取り繕った。
「いや、あの頃より美味しいよ、ねえ父さん」
「そ、そうだな。うん、あの頃より美味い」
必死で取り返そうと言葉を並べ立てるが彼女はジト目でこちらを見てため息をついた。
「ハア、まあそんなモノよね。でも喜んでくれたことは素直に嬉しいわ」
それから俺達は和やかな会話をしながら食事を進めた。志穂も父さんもすでに昔の事を気にしなくなっている様だった。そんな時である。
「志穂、そこのしょうゆ取ってくれないか」
父さんが発した言葉に彼女が一瞬固まる。父さんも思わずしまったという顔を見せる。
俺としてはそれ程気にしていない事だが明らかに二人の反応がぎこちなかったのだ。
食事を済ませ時計を見るともう六時を過ぎていた。外はすでに暗くなり志穂は食器を洗い終えると、〈う~ん〉と伸びをして立ち上がった。
「じゃあ私はそろそろ帰るわ」
「じゃあ俺が長野まで送っていくよ」
俺がすかさず提案すると、彼女はゆっくりと首を振った。
「貴方は明日も大学でしょう?長野まで往復なんてさせられないわ」
「それぐらい大丈夫だよ、大学も一日ぐらい休んだところで……」
そう言いかけると俺の唇に人差し指を当て俺の言葉を遮った。
「それはダメ、貴方の負担にはなりたくないの。大丈夫よ、私は電車で帰るから」
こう言われてしまっては何を言っても無駄だろう、志穂はこうと決めたら聞かない頑固なところがあるのを知っている。
俺は素直に従うことにした。
「徹、駅まで送ってやりなさい」
父さんの言葉に俺は黙ってうなずいた。
玄関で靴を履いた志穂が父さんに向かって改めて頭を下げた。
「今日は突然押しかけてすみませんでした」
「いや、謝る事じゃないよ。それで一つだけいいかな?」
父さんはかしこまって志穂に言った。彼女は〈何を言われるのだろう?〉と顔をこわばらせ身構えている。
そして父さんは深々と頭を下げて言った。
「あの時言えなかった事を今言おう。徹の事をよろしく頼む」
あの時とは七年前の事だろう。俺の事を頼むという言葉は昔とは意味合いが少し違う。
今の父さんの言葉は母親としてではなく生涯のパートナーとして頼むという事だ。
その意味合いの違いを志穂は当然理解しているだろう。
「はい、任せてください」
彼女はニコリと微笑んで言った。俺は二人のやり取りを聞いてどこかホッとしていた。
「君の方から何かこちらに要望することは無いかい?」
今度は父さんの方から問いかけた。いつもは口数の少ない父さんだがやはり気心の知れている彼女には喋りやすいようだ。
志穂もそれはわかっているのか父さんの問いかけに少し考えるそぶりを見せた。
「そうですね、特に要望はありません。でも一つだけいいですか……」
「何かな?」
父さんが促すと彼女は微笑みながら答えた。
「私の事を志穂と呼ぶのは止めてください。それだけです」
父さんは少し慌てた様子でうなずいた。
「わ、わかった。気を付けるよ」
志穂は再び頭を下げて玄関を出て行った。
駅に向かう為に俺は再び父さんに車を借りて出した。助手席に乗り込んだ彼女はシートに座った途端、大きく息を吐いた。
「ハアーーー、緊張したわ」
俺はその言葉に驚きを隠せなかった。最初はともかく会話のやり取りを見てもいつもの彼女に見えたのでそんな緊張している風には見えなかったからである。
「緊張していたの?」
「そりゃあそうよ、貴方のお父さんとは久しぶりに会うのだし……」
「そうなんだ、全然そんな風に見えなかったけれど」
「まあ、必死で隠していたからね。貴方にもわからなかったのなら成功だったのかも。昔だったら無理だったわ」
彼女がどことなく安堵している感じが伝わって来て本当に緊張していたのがわかった。
「俺には理解できない感覚だけれど、そういうモノなの?」
「そういうモノよ……」
彼女は窓の外を見て静かに言った。そして追加するようにつぶやいた。
「だって……まだ好きな気持ちが残っていたらどうしよう?と、思ってさ……
私は吹っ切ったつもりでいたけれど直に会うと気持ちが揺れたたりするかもしれないし
もしそんな事になったら、その……徹に悪いじゃない……」
彼女は相変わらずこちらを見てはくれないが、ガラス越しに映った横顔が照れていて耳が真っ赤になっていた。
こういう隠しきれないところが何とも可愛いと素直に思った。
「夕食凄く美味しかったよ、また作ってくれると嬉しいのだけれど」
俺は素直に感謝を伝えたのだが志穂はこちらに振り向くといたずらっぽく言った。
「前の彼女さんよりも美味しかった?」
彼女はニヤニヤと意地悪そうな笑みを浮かべて問いかけて来たのだ。
「もう、そういうのは勘弁してよ」
俺がそう言うと彼女はクスクスと笑った。
「ごめん、ごめん。でも徹もそういうセリフが言えるようになったか……」
確かに言われてみればこんなセリフ以前の俺では言えなかった言葉である。
「じゃあ、今度は徹が元カノの事を話してよ」
「えっ⁉何で?」
俺は彼女の意外な言葉に驚きを隠せず思わず聞き返した。
「何で?じゃないわよ。人には過去の恋愛事情を喋らせておいて、自分はダンマリとか卑怯じゃない」
「何、その理屈?そもそも君と俺とでは事情が……」
「いいから話して‼」
俺の主張はあえなく却下された。もうこうなったら諦めて話すしかないのだろう。
でも話をする前に確認しておきたい事があった。
「別に過去の事を話すのはやぶさかではないけれど、あまり人が聞いて面白い話でもないし、それに……」
俺が言葉を濁すとすかさず突っ込んできた。
「それに、何よ?」
俺は思い切って聞いてみた。
「自分から聞いてきたのだから、話の内容に怒ったりしないよね?」
「それは内容次第よ」
彼女は躊躇することなくきっぱりと言った。アウトになる基準も規定も項目も曖昧なのに随分な言い分である。
これは恐怖裁判と言ってもいいだろう。
「内容次第とは?具体的にどういった……」
俺は恐る恐る聞いてみる。せめてアウトになるヒントを知りたかったからである。
「元カノとの話を楽しそうに話したり自慢したりしたら即怒るわ。後は何となくかしら」
最後の項目があまりに漠然としていてイマイチ踏み出すことに躊躇してしまう。
とはいえこのまま黙秘権を続けてもそれはそれで死刑判決が出るだろうから一か八かで踏み出すしかないのだろう。
元々俺と萌香の間に色っぽい話など皆無なのだからそこまで恐れる事は無いはずだ。
俺は萌香との出会いから別れまでを端的に説明した。萌香には本当にすまない事をしたと思っているのでその気持ちも包み隠すことなく志穂には話した。
「そう、あの店に来てくれた彼女が……」
志穂とパン屋で再会した時、萌香は志穂の事をライバルだと感じて徹底的に攻撃した。
それは悪気があっての事ではなく全て俺の事を思っての事なので許してやって欲しいと説明した。
その話を志穂は怒ることなく神妙な面持ちで聞いてくれた。
そして何かに気が付いたのか、不意に問いかけて来た。
「そういえば信二さんもその子の事を知っている様子だったわね?」
萌香が俺と父さんの為によく食事を作りに来てくれた事や父さんになついていた事も説明した。
そしてよく父さんの事をかっこいいと言っていた事も。
それを聞いた志穂は思わず眉をひそめた。
「どうにも釈然としないわね、男の好みまで私と一緒とか……」
彼女は独り言のようにつぶやいた。
それは俺にとってやや気にかかるワードだったがとにかく彼女の機嫌が傾くことは無かったようでひとまずホッとした。
俺は駅に着くと車を駐車場に停め、駅の中まで志穂を見送りに着いていった。
「駅前で下ろしてくれれば良かったのに」
彼女はどことなく楽しそうに微笑んだ。
「少しでも君と一緒に居たかったから」
「有難う、貴方のそういう言葉も少しずつ慣れて来たわ」
彼女は冗談っぽく笑った。
「じゃあ、そういう事はもうあまり言わない方がいいのかな?」
俺がそう言うと志穂は唇を尖らせ拗ねた様な仕草を見せた。
「ダメ、もっと言いなさい」
「何だよ、それ?」
俺達は顔を見合わせて笑った。
「じゃあ、そろそろ行くわ。向こうに着いたら連絡するから」
志穂は手を振り帰ろうとしたがその瞬間、俺は反射的に彼女の手を掴んでいた。
思わずえっ⁉という驚きの表情を浮かべる志穂。俺も無意識での事だったので自分の行為に当惑してしまい、何も言葉が出なかった。
「何?どうしたの、徹?」
彼女は不思議そうに問いかけて来るが自分でも理解できない事なので説明のしようが無いのだ。
そんな俺の戸惑う姿を見て彼女は優しく微笑んだ。そしてゆっくりと近づいてきて俺の耳元でささやいた。
「今の私も貴方だけよ」
その言葉を聞いた瞬間、彼女を掴んでいた手が自然と離れた。
何だ、これは?少し考えたらその答えはすぐに出た。そうか、そういう事だったのか……俺はようやく理解した。
七年前彼女は突然俺の前から姿を消した。そして再会後の初めてのデートの後も彼女は何も言わず俺の前から姿を消した。
だからこのまま離れたらまた彼女がいなくなってしまうかも?
というトラウマで体が勝手に拒否反応を示しむ域式に彼女を引き止めようとしたのだ。
志穂はそんな俺の無意識の心境を理解し的確な言葉で対処してくれた。
前からわかってはいたがもう彼女無しでは生きられない事を実戦で示してくれたのだ。
俺は手を振りながら人ごみに紛れていく彼女を見送った。
彼女の姿が見えなくなってもしばらくそこを動けすいつまでも彼女のいた場所をいつまでも見つめていた。
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