坂本志穂
母の葬儀に参加していた殆どの人達が、母が心の病を患っていたことを知っていたので
〈母は心の病のせいで衝動的に自らの命を絶ったのだろう〉
と思っている様だった。
それは間違いではないのだがそのきっかけというか引き金を引いたのは僕だという事は誰も知らない。
母と最後に交わした会話の事は父にすら話していない
自分の言葉が母を殺したという事実が受け止められず、怖くて、怖くて話せなかったのだ。
母の葬儀がつつがなく終わり僕と父は普通の生活に戻ることになったがこれからも今まで通りに……という訳にはいかなかった。
元々父は口数が少なく僕との会話もそう多い方ではなかったので二人きりになった生活では常に重く、暗く、静かな空気が流れていた。
父は何とか僕とコミュニケーションを取ろうと努力していたようだが僕はそれを拒絶した。
父には悪いと思ったが自分が母を死に追いやったという罪悪感がどうしても消えずに父とは距離を取ってしまったのである。
それからしばらくして僕達は今住んでいるマンションから引っ越すことになった。
この重苦しい空気を変えたいという父の気持ちと
母がマンションのベランダから身を投げたという事実は近所にも知れ渡っていたのでどこか気まずいという空気もあったのだろう。
僕と父は空気という謎の物体に追いつめられて住み慣れた家を出て行くことになった。
今度の家は新しく建てられたマンションだった。父の気遣いだろうが僕は転校することもなく前の学校に通い続けられることになった。
前より少し通学に時間がかかるが特に気になるという程ではない、というか僕的には転校しても良かった。
母の死以来僕は誰とも仲良くすることをしなかった。クラスの友達からも距離を取り一人の世界に閉じこもった。
学校側や父がカウンセリングなどを手配してくれたが僕はそれらを全て拒絶した。
ある日学校から帰ってくると奥から人が話す声が聞こえて来た。どうやら父と誰かが会話をしているみたいだった。
玄関には女物の靴が並んでいたのでどうせまたカウンセリングの人だろうと一人でうんざりしていると目の前の扉が開いて一人の女性が姿を見せた。
「おかえり徹君‼」
その女性は明るく僕の名前を呼んだ。僕は思わず目を逸らす。
「帰ってきたか、徹。この人はヘルパーさんというか、これからお世話をしてくれる坂本志穂さんだ。
俺は仕事で遅くなることも多いしやはり男所帯は色々と不便だしな。彼女は週に二回ほど来てくれる予定だからきちんと挨拶しなさい」
父がこの女性を紹介がてらどこかいい訳じみた説明してくれた。
僕が憮然としていると彼女は少し膝を曲げて僕と視線を合わせるように顔を近づけると、にこやかに微笑んだ。
「初めまして徹君。坂本志穂です、これからよろしくね」
妙に明るくて馴れ馴れしい態度が鼻についた。しかし父の手前無視するわけにもいかず僕は視線を逸らしながら無言のまま小さく会釈した。
「おい、徹。そんな挨拶は無いだろう」
父の声が僕を責めるように聞こえてきたが彼女はそれを遮った。
「いいんです、突然知らない女が目の前に現れたら誰だって戸惑いますよ。ねえ、徹君」
彼女は僕に同意を求めてくる様な言葉を投げかけて来たが僕はそれをあえて無視した。
馴れ馴れしいうえに無神経だ。まるで〈私は貴方の理解者よ、貴方の母親代わりになってあげる〉とでも言いたげな態度である。
厚かましいにも程がある、僕の母親は一人だけだ、お前みたいな……そこで僕は考えるのを止めた。
何を勝手に想像して腹を立てているのだろうか僕は⁉この女は単なるヘルパーさんじゃないか
一定の距離を取って接すればいいのだ、そう、いつも通りに……
その坂本志穂という女性は再び僕を見て微笑んだ。見た目は随分と若く二十歳前後くらいだろうか?
僕の中ではヘルパーさんというのは四十歳過ぎの落ち着いた中年女性というイメージがあり
こんな若くて元気な女性というのは少し意外であった。
それに彼女が身に着けている服は白いTシャツにデニムのジーンズという随分ラフな格好だった。
まだ引っ越しの荷物が全部片付けきれていないのでその手伝いもあったのだろう。
でも僕の感想は〈ヘルパーさんのくせにそんな恰好をしてプロとしての自覚が足りないのでは⁉〉とか
謎の上から目線で彼女を見てしまっていた。つまりいきなり現れて馴れ馴れしく距離を詰めて来たこの女の事が気に入らないのである。
「じゃあ荷物の片づけからやりますね。それと夕食の用意もしますから食べられないモノとかあったら言ってください。
好き嫌いではなくアレルギーとかの話ですよ」
彼女は明るくそう言った。その言い回しも気に入らない。上手く言ったつもりでいるのだろうか?
全然笑えないし、何か偉そうだ。とにかく何もかもが気に入らないのだ。
その坂本志穂という女性は少しやせ気味だが活発な印象を持つ女性だった。
黒い髪のボブヘアで色は白く少し垂れ目がちの目元と丸顔が人懐こさを感じさせた。
母のような美人ではないものの可愛らしい女性という感じだろうか?まあどうでもいい事だ。
その日から坂本志穂は毎週二、三度家に来た、そして何かと僕に絡んでくるのだ。
学校はどうだ?とか、困っている所は無いか?とか、何か食べたいものは無いか?とか、とにかくうっとうしい事この上ない。
もちろん僕はまともに返事もしない、ただのヘルパーさんのクセに母親の様に世話を焼いて来るのが腹立たしい。
僕の母さんは日本一の母親だったのだ
お前なんかに変わりが務まるモノか⁉僕は心の中で叫んだ。だが僕がいくら無視しても坂本志穂は付きまとって来た。
どこまで無神経な女なのだろう。もう我慢の限界だった。仕方がないので僕は最終手段に出る事にした。
「ねえお父さん、僕あの坂本志穂って女嫌いだよ。何故かはわからないけれどいつも僕に嫌がらせをしてくるのだよ」
僕は父に坂本志穂の悪口を告げ口した。僕にしてみれば赤の他人である彼女が母親面して僕に絡んでくるのは
嫌がらせに等しい行為だったからこれは嘘ではないと言い訳して自分を正当化した。
僕の話を聞いて父は難しい表情を浮かべ少し考えこんでいたが。
「わかった……」
と小さく頷いた。これでいい、例え坂本志穂に非がなかったとしても僕があの女を嫌っていて
もう二度と絡んで欲しくないという事が父に伝わればいいのだから。
その翌日の事だった。僕が学校から家に帰り玄関のドアを開けるとそこには坂本志穂が立っていた。
両手を腰に当て仁王立ちするような格好で帰宅した僕を見降ろしている。
だが彼女が来るのは毎週水曜日と土曜日、たまに月曜日も来る事があるが基本的にはそのローテーションのはずだ。
しかし今日は木曜日、どうしてこの女が来ているのだ⁉
僕が困惑し立ちすくんでいると坂本志穂は大股で近づいてきて僕の両肩をがっちりと掴むと目線を合わせるように顔を近づけ真剣な口調で言った。
「どうして?私が嫌がらせをしているなんて言ったの?」
どうやら僕が父さんに告げ口したことが気に入らなかったようだ
随分とわかりやすい反応だがまあいいだろう。この際キッパリと言っておくことも必要かもしれない。
「それが本当の事だからだよ。アンタが一々母親面して僕に近づいて来るのが気に入らなかった。それだけだ」
言ってやった、ガツンと言ってやった。ここまで言えばいくらこの女が馬鹿でもヘルパーを辞めるか
仕事と割り切って僕にかまわなくなるか、どちらかになるだろう。
だが坂本志穂の口から出た言葉は僕の想像していたモノとは違ったのだ。
「私の事が気に入らないのであれば、自分自身の口で言いなさい‼陰でコソコソと人の事を言うような人間になってはダメよ‼」
何だ、この女は⁉何を言っている。僕は段々と腹が立ってきた。
「僕が何をしようとアンタには関係が無いだろうが、母親でもないくせに偉そうに、アンタ何様名のつもりだよ⁉
僕の事なんか何も知らないくせに‼」
僕は思わず感情的に返してしまう。すると坂本志穂は逆に優しく語り掛けて来た。
「そうよ、私は徹君の事は何も知らないわ。だから知りたいの、わかりたいの、それはダメな事なのかしら?」
「どうしてだよ、お前なんか僕の母親でも何でもないじゃないか⁉僕のお母さんは凄い人だったんだ
頭良くて、美人で、料理も上手で、僕の自慢の……お前なんかとは……」
僕は何かを訴えかけるように言い放つと何故か涙がボロボロと零れ落ちた、どうして僕はこんな事を言っているのだ?
自分でも理解できない。でも止まらなかった。
「お母さんは……僕はお母さんが大好きだった。でもお母さんは僕の事が好きじゃなかった
僕のせいで病気になって……僕がお母さんに〈僕はどうすればいいの?〉って聞いたからお母さんは……僕のせいで……」
どうしてこんな女にあの時の事を話しているのか、自分でも理解できなかった。
父にも言っていない母の自殺の理由。涙と感情が溢れだして止まらなかった。どうしてこんな女に……
そんな事を考えていた時、坂本志穂は僕の頭をそっと抱きしめた。
「わかったから……もうわかったから。徹君はお母さんの事が大好きだった。
そしてお母さんの方も徹君の事を愛していた……」
その言葉を聞いた時、僕の心に再び怒りに満ちて来た。
「わかったようなことを言うな‼お母さんは僕の事が好きじゃなかったと言っているだろう⁉
お母さん自身が言ったんだ、僕の事を愛せないって。お母さんは僕を、僕の事が……」
これ以上は言葉が詰まって言えなかった。僕は耳元で諭すように話してくる坂本志穂を無理矢理引きはがし
わかったかのように綺麗事を並べ立てる彼女に言ってやったのである。
しかし坂本志穂は表情を崩さず、ゆっくりと首を振った。
「違うわ、お母さんは貴方の事を嫌っていたわけではない。徹君の事を愛そうとした、愛したかったのよ。
だから心が壊れてしまう程苦しんだの。本当に徹君の事を何とも思っていないのであれば全く苦しまなかったはずよ。
お母さんは徹君の事を愛したかった、愛そうとした、だから自分の心に必死に抗ったの。
それって愛されているって事では無いの?」
坂本志穂の言葉は僕の心に突き刺さった。僕は自分がお母さんに愛されていないという事実がショック過ぎてお母さんの気持ちなど考えたことも無かった。
坂本志穂の言う通りお母さんがあれほど苦しんだのはどうしてか?
僕の事を愛せない自分自身を責め続けていたからでは無いのだろうか?
そう考えた時、スッと心が軽くなり違う涙が溢れて来た。
「僕は何もわかっていなかった……お母さんは僕の事を……」
それ以上は言葉が出てこなかった。感情と涙が津波のように押し寄せ崩れ落ちそうになる。
そんな僕を坂本志穂は再び僕をそっと抱きしめてくれた。
「良かったね、徹君。貴方のお母さんは素晴らしい人だったのよ」
「うん」
そう返事するのが精いっぱいだった。後から考えると母が本当は何を考えていたのかはわからない
しかし僕は救われたのだ、彼女の言葉によって。僕は彼女の胸に縋りつくように身を寄せると、涙枯れるまで泣いた。
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