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壊れた初恋  作者: 雨乞猫
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大好きな母

その日は雨が降っていた。毎日のように容赦なく照り付ける太陽と嫌でも耳に入って来る蝉の大合唱


そしてうだるような猛暑の日が続いていただけに朝から降り出した激しい雨がその日のもの悲しさを際立たせているような気がした。


目の前には大勢の黒い服を着た大人たちが蟻のように並んでいる。


僕はそんな光景をぼんやりと眺めながらどこか自分とは関係が無い事の様に感じていた。


大勢の人間が集まっている中で僕は正面の母の写真の前で立ち尽くしていた。


写真の中の母は美しく、そして優しく笑っていた。


次々と訪れる弔問客に父は頭を下げている、誰もが心痛な表情を浮かべ押し黙っている。みんな母の事を悼んでいるのだろうか?


母は顔も広く有名人だったので式には驚くほどの人間が来ていた。


中には見たことも無い人も多く、そんな見ず知らずの人達が次々と僕に声をかけて来た。


〈辛いだろうけれど頑張ってね〉、〈お母さんの為にもしっかりね〉、〈子供なのに泣かないで偉いね〉とか


上っ面だけの言葉をかけて来たが正直どうでもいい。頼むから放っておいて欲しい


アンタらに僕の何がわかるのだ⁉何も知らないくせに、何も知らないくせに、何も知らないくせに……

 

うっとうしさとわずらわしさしか感じない騒音の中で僕はジッと母の遺影を見つめていた。


優しい母の笑顔、そう最後まで僕には向けてくれなかった心からの笑顔。そう、この母を殺したのは僕なのだ。


 

僕の名前は松原徹、小学六年生。そして松原千秋は僕の自慢の母だった。


子供の頃から勉強も運動も出来た母は東大に入りその容姿からミス東大に選ばれたこともあったそうだ。


大学を優秀な成績で卒業した母はコンサルティングサービスとかいうモノを提供している会社に入ると


そこでめきめきと頭角を現し、社内でも一目置かれる存在になったという。


その見た目と能力の高さから雑誌やテレビでも取り上げられたことがあり


【キャリアウーマンの代表】みたいに扱われたこともあったらしい。


それなのに気取ったところがなく誰とでも気さくに話す性格や家事も完ぺきにこなす隙の無さ


特に母の作る料理やお菓子はクラスの友達にも評判で、よく


〈徹君のお母さんは凄いよね⁉美人だし、頭いいし、料理上手だし、僕もあんなお母さんが欲しかったな~〉などと言われたものだ。


それが僕にとって何よりうれしく、まさに理想の母親だった。


父の名は松原信二、有名私立大学を卒業し一流と呼ばれる総合商社に入ったのだが


母と比べるとどうしても見劣りしてしまうのが現実だったようだ。


そんな父は仕事で母と知り合い、色々とやり取りをしている内に好きになってしまい


母に猛烈なアタックをかけてついにはゴールインしたそうだ。


普段どちらかというと寡黙で口数の少ない父がどうやって母に猛烈なアタックをかけたのか興味があったが父はいくら聞いてもそれを語ってはくれなかった。


母も〈お父さんから口止めされているから〉と語ってはくれなかった。


当時は会社の同僚などから〈あんな高嶺の花をよく射止めた‼〉と社内でも評判だったらしい。

 

そんな完璧に見える母だったがたった一つだけ欠点があったのだ。まだ子供の僕にはそれに気づくことはできなかった。


そして僕はそれを突然知ることになるのである。

 

僕はいつものように学校から帰るとすぐにランドセルを部屋に放り投げ、ポケットに入れていたテストの答案用紙を両親に見せた。


今回もテストで満点を取ったので早く母に褒めてもらいたくて意気揚々とテスト用紙を差し出したのだ。


「ねえ、お母さん。満点だったよ、このテストで満点なのはクラスで僕だけなのだよ‼」

 

僕はまるで餌か散歩を待つ犬のごとく目を輝かせて母の誉め言葉を待った。


「そう、よく頑張ったわね」


母は褒めてはくれたが思ったほどの反応ではなく、どうにもリアクションが薄い。


まあ母の反応が薄いのは今回に限った事ではないし勉強に限らずあまり大きく褒めてくれる事は無い。


考えてみれば母の子供の頃はもっと勉強ができただろうからこれぐらいは当然と思っているのかもしれない。


もしくはここで僕をあまり褒めて調子に乗ると教育上よくないと判断しているのだろう、僕は勝手にそう解釈した。


だがもう少し褒めてもらいたかったというのが本音だ。ぶっちゃけ母に褒めてもらいたくて頑張っているのだから。


「よくやったな、徹。えらいぞ‼」

 

母の代わりに父が僕を褒めてくれた。いつも僕の頭に大きな手を乗せて優しく撫でてくれるのが父だ。


母の反応が薄い分それをフォローするように父が褒めてくれるのだ。


「ありがとう、お父さん‼」


元来こういう事が苦手なはずの父が頑張って褒めてくれた。


だから僕も子供らしく喜ぼう、と子供らしくない事を考えながらやや大げさに喜んで見せた。


もちろんそんな父の事も大好きなのだが、僕は母が、お母さんの事がもっともっと好きなのだ。


だがある時から母の様子が少しずつ変わってきた。口数も少なくなりいつもどこかイライラしている印象を受けた。


食欲もあまり無いようで母の美しい容姿は徐々にやせ細っていった。


そして会社も休みがちになり病院に通いながらいつも大量の薬を飲んでいた。


「ねえ、お父さん、お母さんは病気なの?」

 

僕が問いかけると父は作り笑いを浮かべ僕の頭を撫でながら答えてくれた。


「母さんは心の病気なのだ。だから徹もいい子にしていろよ」


「うん、わかった」

 

心の病気とは具体的に何なのか?父は話してはくれなかったが母の様子と父の態度からそこに触れてはいけないような気がして、僕はそれ以上聞かなかった。


そんなある日の事である。夜中に喉が渇いて水を飲みに台所に行くとリビングの方から突然大きな声が聞こえて来た。


「そんな事はわかっているわよ‼」

 

僕は驚いて思わず水の入ったコップを落としそうになる。


どうやら母の言葉だったようだが普段母が感情的に声を荒げることなど滅多にないので一体何があったのだろう?


とリビングの方へと耳を傾けた。どうやら母は父と言い争いをしているみたいである。


「落ち着きなさい、大きな声を出して徹が起きてきたらどうするつもりだ?」


「だって、貴方がそんな事を言うから……」

 

母は納得できない様子で反論した。父と母は滅多に喧嘩などしない。


父は寡黙で温厚だし母は感情的になることは滅多になく周りからも理想の夫婦などと言われていたからだ。


「すまない、しかし徹は君に似て頭がいい。少しずつ気づき始めている様子だから……」


「そんな事を言われてもどうしようもないのよ、じゃあ私はどうすればいいのよ⁉」

 

再び母のヒステリックな金切り声が聞こえて来た、どうやら僕に聞かれたくない話のようだ。


ここで僕が取る最良の選択は話を聞かずにそっと部屋に戻る事だ、それは理解できる。


だが僕の好奇心はそれを許さなかった。僕に聞かれたらマズい話とは何だろう?


父と母に気づかれないようにそっと耳をそばだてる。そして僕は後悔するのである、聞かなければよかったと……


「どうしても徹を愛せないの、あの子が私に向けてくる感情が辛いのよ……」

 

衝撃的な言葉だった、正直母が何を言っているのか瞬時に理解できなかったほどだ。


「落ち着いて、徐々に治していけばいい。君の辛いのはわかるが……」

 

父が全てを言い終わる前に母は割り込むように反論した。


「貴方にわかる訳ないじゃない‼血を分けた子供の事を愛せないのよ、それがどんなに辛い事かわかる⁉


動物にだってできる事が私にはできないの‼それが、どんなに……」

 

母は言葉を詰まらせた。このところ母が病気で苦しんでいた原因は僕だったのだ。


ショックだった、立っていられない程の衝撃が僕の心を直撃した。


「あの子の言動が私に訴えかけるのよ。〈もっと僕を愛してよ〉〈どうして僕を愛してくれないの?〉って……


私はその問いに答えられない。母親失格どころじゃない、人間失格よ。


その度に私は嘘をつくの、〈そんな事は無いわ、私はあなたを愛していますよ〉って……


どうして私は徹を愛せないの?私がお腹を痛めて産んだ子なのよ⁉


素直で頭も良くて頑張り屋で問題など起こした事も無い本当にいい子。


でも愛せないの、どうしてだかわからないけれど愛せないのよ……」

 

最期はまるで懺悔でもしているようにか細い声で言い放った


それどうしていいのかわからずに助けを求めている様な声だった。


しかし僕にとってはこれ以上ない程の衝撃的な告白だった。


正確には僕に向けられて放たれた言葉では無いのだから告白では無いのだろうがそんな定義はどうでもいい。


僕は母に、大好きなお母さんに愛されていない。そしてそれが原因で母は心の病を患ってしまったのだ。

 

僕の目の前は真っ暗になり突然平衡感覚を失った。そして手に持っていたコップを落とし僕は尻もちをつくような形でその場にへたり込んだ。


床に落ちたコップはガシャンという高い音を立て弾ける様に割れた


中に入っていた水はその場で四散し、へたり込んでいた僕のパジャマを濡らした。

 

音に気付いた父が慌てた様子でリビングの扉を開け床にへたり込んでいる僕の様子をマジマジと見つめた。


「徹、聞いていたのか……」

 

父の質問のような言葉に対し、僕は何も答えられなかった。


どう返事すればいいのか考えていたわけではない、頭が考える事を拒絶してしまっていたからだ。


その時リビング内にいた母の姿がチラリと見えた。


母は両目を大きく見開き瞬きもせず僕の事をジッと見ていた


その目は〈どうして聞いてしまったのよ⁉〉と訴えている様に見えた。


今まで見たことも無い母の顔、戸惑いと困惑と焦燥が入り交じった表情から僕は目を逸らす事ができなかった。


その日以来僕達家族はつとめて普通に振る舞ったがあんな告白を聞いた方も聞かれた方も


何事も無かった様に生活などできるはずもなく僕達の関係はギクシャクしていった。


父からは〈お母さんは心の病気で今はこうなってしまったのだ、病気が治れば普通に徹を愛している〉


と説明されたがそれが詭弁であることは子供の僕にもわかった。


母との会話は今まで通りだったがあの日以来、母は僕の目を見なくなった。


あの自信と余裕で満ち溢れ優しかった母がまるで僕に怯えているかのように僕を避けていた。


あの時の告白にあったように僕に責められているように感じているのだろう。


だが僕にしてみればどうすればいいのかわからない、どう母と接すればいいのかわからないのだ。


今まで一番身近で一番大好きだった母が突然一番遠い人に感じられた。


いくら考えても答えは出ない、辛くて悲しくて苦しくて息が詰まりそうだった。


切羽詰まった僕はある行動に出た、それがあんな結果を招くとは夢にも想像もできなかったのだ。

 

短期入院から帰ってきた母は一人台所に座っていた。


何度も僕の為に料理やお菓子を作ってくれて楽しかった思い出がいっぱい詰まった場所、その全てが噓だったと思うと何とも言えない感情が胸を駆け巡った。


そんな僕は考える事もなく無言のまま母に近づいた。

 

母は両掌で顔を覆うようにダイニングテーブルに座っていたのだが


僕の近づいてきた気配を感じたのか僕の顔をチラリと見た後、すぐさま顔を逸らして問いかけて来た。


「どうしたの?」

 

そんな母の態度が僕には我慢できなかった、どうして?どうして?どうして?僕の何が悪いの?ねえ、教えてよ⁉


僕は心の中で叫ぶ。そしてその感情のままの言葉が口から出た。


「ねえお母さん、僕はどうしたらいいの?」

 

僕の素朴な質問に母は反射的にこちらを見た。母が僕の顔をしっかりと見たのは多分あの日以来だと思う。


だが母のその目は愛しい我が子を見る目ではなかった。戸惑いと困惑と焦燥が入り交じったあの時と同じ、いや、あの時以上に驚愕の目で僕を見つめていたのだ。


しばらくの間、沈黙の時間が流れ僕は母からの返事を待った、しかしいくら待っても母の口が開く事は無かった。


僕は消沈と絶望を感じながら自分の部屋へと戻った。

 

そしてそれから一時間ほどが過ぎた頃、母はマンションのベランダからその身を投げた。



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