08. ワイズ、辞職を決意する
その日からワイズは新素材の開発を始めた。それはイノテックの仕事ではない。
ワイズの目指すのは“衝撃緩和素材”だ。
ケイトが交通事故に遭った。同じような境遇に1人でもならないためにする素材の開発がしたい。それを実現させるにはイノテックを辞めて会社を興すことだと確信した。
まずは会社を興すのに必要な書類や情報をまとめ始めた。
朝起きると息子の支度と共に自分の支度を済ませると駅に近い保育園へと息子を預ける。
その足で会社へと向かう。就業中は他のことが出来ないので、仕事に集中する。時間になるとパソコンのスイッチを切り、駅まで帰ってくると息子を迎えに行く。
慣れない生活でワイズの母は2日に1回は料理を作ってくれたり息子にご飯をあげてくれたり世話を焼いてくれた。
息子が寝てしまうと、ようやく自分の時間が訪れる。買ったばかりのパソコンのスイッチをつけるとフロッピーディスクに入っているデータを起動させる。体力の続く限り作業をしてから寝る。
(しまった、明日の朝のウインナーを買い忘れてしまった⋯⋯)
息子がいると時間があっという間に過ぎていく。息子はあまり手間のかからない子でワイズの母ともパズルやブロックでよく遊んでくれた。
そうして1年ほど経つとワイズが必要だと思うベースとなる情報がまとまった。だが最近イノテックの仕事が忙しかった。今の開発が落ち着いたら退職願を提出しようと思っていた。
珍しくその日は寝坊をしてしまい、床に散らばっている書類を折らないようにかき集めると急いで鞄に入れた。最近は持ち帰りの仕事も増えたので、そろそろ辞め時だなとは感じていたのだ。部署長に退職願を突きつけたら、どんな顔をするのだろうか。ワイズは想像してほそく笑んだ。人事部に呼ばれてしまったらありのままに話そうとも思っていた。
(おっと、今日は会議があるから会社へ着いたら急いで準備をしないといけない)
ワイズは走って会社へと向かった。デスクへ着くと鞄を置き、ぶっきらぼうに中身を取り出す。昨日仕上げた資料の最終版を紙の中から探し当てると抜き取り確認しながらコピー機へと向かう。
部数を揃えるとそのまま会議室に準備へと向かった。机に並べてポインターの確認をして、飲み物を置く。そうしているうちに人が集まってくる。時間ちょうどとなり会議は始まった――。
2時間経つと会議室のドアが開いた。ぞろぞろと人が出てくる。
ワイズはほっと溜息をつきながら会議室から出てきた。ようやく、既存商品の改良版の素材が決まったのだ。肩が軽くなったようだ。この後は実際に製品にして最終調整に入る。
(この勢いで退職願も書いてしまおうか)
ワイズはそう考えながらにやりとしたまま、デスクへと戻ってきた。朝はバタバタして鞄の中身を机の上に散乱させたままだったのだ。机の上に散らばった紙を集め始める。
そこでワイズは手を止めた。朝、机に置いて行った紙の量とは明らかに違ったのだ。手の中に集まった紙の厚さを指で確認しながら机の周りを丁寧に見る。
1枚も落ちていない。
そこで昨日の夜と朝鞄に入れるまでのことを思い出してみる。あの部屋にはたくさんの書類があったはずだ。今日の会議の書類ではない紙。
大事なワイズの夢の詰まった新会社設立へ向けた紙――
データはフロッピーディスクに入っている。だが、あの紙が人目に付いたらまずい⋯⋯。
ワイズの異変に気が付いたのか向かいの女性が声をかけた。
「ワイズさん、何かありました?」
「いえね、机の上に残していった⋯⋯書類が見当たらなくってね。まだ草案なのに――」
女性は何かを思い出しているのか目線を上に向けた。
「あっ部署長がワイズさんの机で何かをしていましたよ。もしかしたら――」
「ありがとう。ちょっと探してみる」
ワイズはホワイトボードの行動予定表を確認すると、部署長の欄には“21階”と書いてある。21階にはこの部署の元締めである開発部門が入っている。
もし開発部門長に掛け合っていたら⋯⋯
(辞めさせられる分には問題ないが、あの書類には、会社に公表していない素材の情報⋯⋯俺しか知らない情報がたくさん書かれている⋯⋯一刻も早く取り返しに行かないといけない)
ワイズはエレベーターホールへと行った。手あたり次第ボタンを押す。どのエレベーターもまだ来ないようだ。
ここは18階だ。走った方が早そうだ。ワイズは非常階段へと急ぐ。階段を駆け上がり始めた。
ワイズの靴音が非常階段に響いていく。
ワイズの目に“20”の数字が見えた。あともう少しだ。ワイズは一段飛ばしで階段を駆け上がっていく。“21”の数字が見えた。息が上がり肩で息をしながら、非常階段の重たい扉を開けた。フロアを見渡す。
部署長の姿は見当たらない。開発部門長のデスクを探す。ワイズの部署の4倍はある広さに大きなデスクがいくつも並んでいる。窓際にひと際大きなデスクが見える。
だが、開発部門長の姿はない。
ワイズはデスクへと近づくと彼の行動予定表を確認するためにホワイトボードを探す。そこには“21-会2”と丁寧な字で書かれていた。誰かが彼の代わりに書いたのであろう。“21階の会議室2”を示す言葉だ。
それを見たワイズは会議室を目指す。会議室はこのフロアの端の方にある。ワイズは変な胸騒ぎがし始めた。
会議室が並ぶエリアへと入っていく。会議室2のドアは閉まっていた。ワイズは周りを見て誰もいないことを確かめるとドアに耳を付けた。
途切れ途切れに言葉が聞こえてくる。ワイズは思わず強く拳を握る。
「⋯⋯ここまで考えていたなんて⋯⋯この素材が⋯⋯」
ワイズは泥水を飲んだように気分が悪くなる。
「新会社だって、思い切った発想をしたね⋯⋯」
ワイズは会議室のドアを勢いよく開いた。すると開発部門長がこちらを向いて目を丸くしている。その向かいにいたのは部署長だった。こちらを見て目を見開いている。
「お話し中に邪魔をしていまい大変申し訳ありません。その書類ですが――」
「彼が発案者です」
水を打ったような静けさだ。
ワイズは何か起こったのか分からず、目を見開きながらゆっくりと部署長を見つめた。
部署長は開発部門長に黄色の歯をばっちり見えるような笑顔を貼り付けた顔を向けている。
開発部門長は口を開けたまま部署長を見た後、ワイズを見た。
(先手を打たれた!!)
開発部門長はワイズを見た後、笑顔になり賞賛を始めた。そしてワイズの肩に手を回し上機嫌でこう言った。
「感銘を受けたよ。今の時代、こういう行動力のある発想が必要だと思うんだ。まぁ新会社とは驚いたが発想は悪くないと思うよ」
ワイズは喉から絞り出すように声を出した。
「あの⋯⋯違うんです⋯⋯」
「就業中に行っていたんだろう? 仕事に必要なイノテック独自の知識もたくさん使われている。それに会社にいる私の手元にこの書類がある。それの何が違うことがあるのかね?」
ワイズは「会社の情報・知識という資産を使って作り上げたのだろう。それを会社の資産と時間を使って自分の好きなことをやって良いと思うのか? これは会社に還元するべきものだろう」と、そう言っていることがありありと伝わってきた。
ワイズは力いっぱい目を閉じると消え入りそうな声を出した。
「あの、詳しく説明させてください――」
それを聞いた開発部門長にんまりと口を緩めて頷いた。
「はっはっ僕も聞きたいと思っていたんだ。間に合えば今度の経営会議にこの議案を出したいと思っていてね。もちろん発表は君に任せたいんだ――」
ワイズは強く握りしめていた手を緩めた。




