28. オリバー、はじめの一歩
オリバーは先ほどの自分の前世の話で短く切り上げた部分を話始めた。
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母が雇った執事の家庭教師は自分の家でレオンを教えたいと言ってきた。家庭教師は通常雇い主の家で行うことが多い。母は首を縦に振った。
レオンは教えられた住所に行くと貴族街でも1番下町に近い治安の悪いところだった。おそらく安い家庭教師を雇ったのだろう。
家庭教師は皆が知っていることしか教えなかった。だが、本棚には執事に関する書籍が何冊か入っていた。たぶん、執事になり損ねたのだろう。
その家庭教師は教育と称してグレイブの背中やお腹など見えにくい部分を叩いたり殴った。レオンは妹と弟に危害が加わるのが嫌だったので誰にも言わなかった。
家庭教師は決まった時間の半分もレオンに教えることはなかった。代わりに書籍を読む了承をもらって暴力を振るわれない時間に書籍を全て覚えた。
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「怖い⋯⋯痛いし怖かったんです⋯⋯でも誰にも言えなかった。男爵家の5男なんて何の価値もない。そんな苦労話をする相手もいない⋯⋯聞いてくれる人もいなかった⋯⋯」
オリバーは言葉を選んではいられなかった。心の奥底にしまったはずの気持ちが迫り上がってくる。
そして決壊したダムのように心の奥にしまった思いが濁流のように流れ出る。その様子をグレイブは静かに見ていた。
「転生したこの世界は信じられないほど、恵まれていたんです。慈しみの溢れる父に、心から慕ってくれる妻もいてこんなに幸せでいいのかと何度も疑いました。父さんはいつも褒めてくれるし、妻のスピアも素敵だって何度も言ってくれる」
その言葉とは裏腹に沈む気持ちがある。オリバーは喉がきゅっと締まるような感覚があった。
「父さんやスピアは素晴らしい人だ。その人たちにこんな話をすることは出来なかった⋯⋯悲しい目を向けてほしくなかった」
オリバーはグレイブを見ると優しい目を向けるだけで、オリバーのことの言葉を持っている。
オリバーはグレイブの優しさに触れて甘えてしまう。
「俺はずっと自信が無いんです。父さんやスピアの言葉は嬉しいけど、心から自分がそう実感したことがないんです」
オリバーは下を見続けている。こじんまりと閉めた両膝に自分の拳を乗せる。そしてありったけの力を込める。するとオリバーは頭を上げた。頬を涙が伝う感覚がある。
「だから、自分で胸を張れることをしたいんです。これは自分でやったぞって言えることを見つけたいんです」
涙で滲む景色の真ん中にグレイブが見える。グレイブは立ち上がってそっと近づくとオリバーの目の前でしゃがみ、力を込めている拳の上に手をそっと乗せた。
グレイブは少し咳払いをする。
「これは受け売りなんだけど、会社って言うのは皆がそれぞれ固有に持っている知識、経験則を掛け合わせて1人じゃ出来ないことを実現する場所なんだ。皆が驚く物を皆で作り上げないか?」
オリバーはそれを聞いて自分の拳の上に乗せてくれたグレイブの手の上に涙をこぼしながら、嗚咽を漏らした。
オリバーはグレイブと会議室を出た。オリバーはグレイブが席を少し外した後、冷たい缶コーヒーを買ってきてくれたようで、目を冷やすようにと渡してきた。オリバーは目を指の腹で触ってみる。少し目は腫れているが落ち着いたようだった。
「この後、僕たちの仕事を見せるよ」
グレイブはそう言うとオリバーをまた4階へと連れて行った。グレイブは色んな資料を見せてくれた。そしてしきりに「気になる業務があったら、すぐに言ってくれ」と繰り返した。
(父さんみたいに温かい人だな)
オリバーはグレイブを見ながら口を緩めた。
その説明が3時間ほど続いた時に、オリバーはグレイブのデスクに大量の紙束があるのに気になっていたのだ。
「あの、あそこに積まれている資料も何かのプロジェクトのものでしょうか?」
「あぁ、これは⋯⋯」
グレイブは歯切れが悪い。子どもが親に怒られた時のような顔をしている。
「僕の持っている知識が書かれているんだけど、データにしなくてはいけなくてね」
グレイブは取り繕うように笑っている。
(もしかしてグレイブさんはデータにするのが苦手なのかな? 俺が役に立てるかもしれない)
オリバーはそう思うと言葉にした。
「あの、それのデータ化を俺がやってもいいですか? 資料をまとめたりとか得意なんです」
それを聞いた時のグレイブは輝くような嬉しそうな顔をした。それを見てオリバーは口を大きく緩めた。
「そういうのが得意なのか。すごく助かるよ⋯⋯あっちょっと待ってて」
グレイブはオリバーの方に手で制すと、伝版を掴んだ。番号を押すとどこかへ電話をかけているようだった。
「もしもし、グレイブです⋯⋯はい、今お時間大丈夫ですか? オリバーくんがデータまとめるのが得意みたいなんです⋯⋯ちがっ違いますよ。押し付けてないです⋯⋯えぇ、実際見たほうがいいと思うんです」
オリバーはグレイブが誰かと話しているのを見ている。その電話が終わるとどこかへ向かうようでデスクから離れた。
オリバーはグレイブの後ろをついていく。エレベーターホールにやってくると上のボタンを押した。
エレベーターがやってくると2人で乗り込んだ。グレイブは中へ入ると“7”の数字を押した。
エレベーターの扉が閉まるとグレイブがオリバーの方へ向き直った。
「これからスグロさんに会いに行くよ」
オリバーは頷いたが、これから何が起こるのか予想が出来ない。静かにグレイブの後ろを歩いていくと取締役室と書かれた部屋へとやって来た。
父の部屋の隣だった。グレイブがドアをノックすると中から声がした。グレイブはドアを開けると、結婚式よりもラフな格好をしていた。
父よりも年上だそうなのだが、父とは同じか父よりも若く見えた。眉がきりりとまっすぐに伸びており、目は大きいのに切れ長で渋くて格好良い、そんな印象だ。
スグロはオリバーの姿を見ると、親しげに手を挙げて挨拶をしてきた。
「オリバー、スーツ姿も似合っているな。グレイブに記録のデータ化の仕事を押し付けられたのか?」
そう言った顔は笑っている。スグロは冗談めいていた。それを聞いたグレイブは口を尖らせている。オリバーは慌てた。
「いえ、俺がやりたくて手を挙げたんです。グレイブさんはそんなことしません」
それを聞いてスグロは目を大きくさせながら笑った。そして引き出しから何かを取り出すと、戻ってきた。
「なんだ、オリバーはもうグレイブのことを気に入ったのか。ワイズ、お前の父はすべての知識が頭の中に完結しているような男で、それをデータ化するのに1ヶ月以上もかかったんだ」
スグロはグレイブをちらりと見た。
「そして、ここにいるグレイブはお前の父とは違う種類の天才だ。何でも記録にとってある。このUSBにお前の父のデータが入っている参考にしてくれ。それからこれは限られた者しか見てはいけないデータだから、そういう風に扱ってくれ」
「クラウドサービスで管理者・閲覧権限者でデータの公開を分けてはどうですか? USBだなんて、ウイルスの感染リスクもありますし、物理的な盗難リスクもあります」
スグロは目を見開いた。そしてすぐに嬉しそうな顔をした。
「詳しく教えてくれ」
オリバーはデータの扱いについて自分の意見を伝えた。
「それからデータの分類ですが、父のデータに合わせたほうがいいですか? グレイブさんのデータと見比べて最適と思われるデータの項目を決めたいのですが」
「ワイズのデータとグレイブの記録の最適と思われるサンプルを作ってくれないか?」
「承知しました」
オリバーは頭を下げるとに胸に温かいものが流れてきて少し微笑んだ。
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オリバーが家のドアを開けると玄関までいい匂いが漂ってきた。リビングへ行くと、時折スピアの声が聞こえる。なにか鼻歌を歌っているようだった。
「ただいま。いい匂いがするね」
「あっオリバー、おかえりなさい。もう少しだけ待ってね。あっこっち見ないで」
オリバーは口を尖らせて、先にお風呂の準備をして戻ってきた。するとちょうどスピアが大きな平皿に何かを乗せて持ってくるところだった。
着席を促されたので、オリバーは大人しく座って待っていると目の前にオムライスがやって来た。少しいびつなオムライスの周りをニンジンとブロッコリーが囲っていた。
それを見てオリバーはにこりと笑顔になった。スピアは少しうつむき加減にオリバーの様子を伺っていた。
「ありがとう、俺の大好きなオムライスだ」
「あら、オリバーはオムライスも好きだったの?」
スピアは嬉しそうにオリバーの目を覗き込んできた。
「俺の大好きなスピアが俺のために作ってくれたオムライスだから、大好きだ」
それを聞いてスピアは口を大きく開けて笑った。その後、急にスピアはオリバーを見ながら表情を曇らせた。
「あれっもしかして泣いた? 目が腫れてる気がするわ⋯⋯」
そう言われてオリバーは顔を手で覆いながら答えた。
「これは⋯⋯嬉し涙なんだ⋯⋯グレイブさんって言ってね、すごく良い人が先輩についてくれてね⋯⋯」
(スピアにはあの家庭教師のことは言えないけど、グレイブさんのことは伝えよう)
オリバーはグレイブさんについてスピアに長い事説明した。それを聞いたスピアは嬉しそうだった。
「なんだかオリバー生き生きしているわね」
「うん、全力でグレイブさんと仕事がしてみたいんだ」
スピアの目は少し細くなった。
「もっとオリバーの話を聞かせて」
オリバーはスピアを見ると大きく頷いた。オリバーの心は何とも心地のよいもので満たされたのだった。




