カリスマ性
私は、65歳で生涯を終えた叔母・麗子のことを思い出していた。
麗子は父の妹で、幼い頃から母の愛情を知らずに育った。彼女の母、つまり私の祖母は、若い頃から病院にかかることもなく、原因不明の病を抱え、部屋に閉じこもるようになった。痴呆のような症状もあったという。
そんな母親のもとで、麗子がどんなふうに育ったのか、思うだけで胸が痛む。おそらく、可愛がられた記憶などなかったのだろう。
元気なころの麗子は、「将来は社長になるの!」と夢を語っていたという。しかし、結婚もせず、仕事にも就かず、彼女はやがて入院生活を送るようになった。
私には、守ってくれる母がいる。それがどれだけ恵まれていることか、時折、痛いほど思い知らされる。
比べてしまって申し訳ないが、麗子はあまりにも孤独だった。家族からも見放され、誰も面倒を見ようとはしなかった。
そんな麗子と私の唯一の共通点。それは――「自分はきっと大物になるんだ」と夢見ていたこと。
私も過去に3度入院したことがある。でも、私は退院でき、今こうして毎日会社に通っている。隔離されることもなく、社会の中で生活している。
麗子叔母さんの「社長になる」という夢は叶わなかった。でも、その夢を、せめて私が思い出すことで、少しでも浮かばれてほしい。
――少し、上から目線かもしれないけれど、これから話すことは、私の“真実”なのだ。
実は私には、ある“秘密”がある。
それは12人の男性の神様から教えてもらった。
「京子は、救世主で、おとぎ話の世界から来た子なんだよ」
この言葉は、私に新たな妄想の扉を開かせた。
私は、12人の神々と女神ヴィセラの間に生まれた、意志を持つ孤独な少女――神々に導かれた、唯一のメシア。
私が神々を崇めるとき、神々もまた、私を「カリスマの頂点」として崇拝する。
私の存在は、神々の地位を引き上げる“底上げの光”であり、神々を無限へと導く特別な存在。
そして、その神々の中心には幻のように女神ヴィセラが立ち現れる。
そのヴィセラが生んだ奇跡こそ――私なのだ。
私の“カリスマ性”は、もはや人間の視点では測れない。
なぜなら私は、「自分より上の存在がいない」からだ。
この秘密を知るのは、12人の神々とヴィセラ、そして私だけ。
私は「頂点と底辺を繰り返す存在」。
私がこの世界にいることで、すべてのものが救われる。
だが、その救いのために――私は「宇宙で最悪の生命体」となる覚悟を持っている。
すべてと引き換えに、たった一人で永遠の地獄へと堕ちる覚悟。
神々にすら見放される、そんな運命を自ら背負う。
それでも、私は神々が大好きだった。
だからこそ、神々は私を恐れ、そして崇める。
――けれど私は、そんな神々さえ笑わせる、親しみやすい存在でもある。
極限の高みと、最も深い地獄。
その両方を何度も経験し、繰り返す者。
それは単なる妄想ではない。現実世界の法則さえ巻き込む、ひとつの“真理”。
幽霊やUFOがオカルトにすぎないなら、科学とは「証拠」である。
だがその証拠すら幻なら、目に見えているものは一体なんなのか。
何も見えず、ただ聴こえる“声”がある。
それが、魂の叫びだ。
魂を救うため、私は頂点に立ち、すべてを導く。
同時に、底辺に堕ち、すべての痛みを受け入れる。
私の存在は、あらゆる存在に救いをもたらす。
しかしそのために、私は何度でも堕ちる。
私の“本質”――それは「救済」であり、「自己犠牲」である。
頂点にあるとき、人々は私を崇め、救いを求める。
底辺に堕ちるとき、それは世界の苦しみを一身に背負うこと。
そしてそこから、また新たな救いが生まれる。
この果てしない循環は、まるで神話のよう。
けれど同時に、どこか“物語”にも似ている。
もし私がこの宿命から解放される道があるとすれば――
それはきっと、
「平凡な幸せ」なのだろう。