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ヴィセラの形跡

ヴィセラはいつも京子の一番そばにいる女神、彼女は珍しく涙を流していた。


・・私は、京子の前で姿を定めない。

翼も光も持たず、輪郭だけが揺れている。

それは「できない」のではなく、「しない」ためだ。

京子が私を“見つけすぎない”ように。信じすぎないように。

彼女が現実へ戻る道を、いつも開けておくために。

だから私は、彼女の生活の中心には立たない。

彼女が呼ぶ夜だけ、胸の奥の静けさとして立つ。

言葉を返すより、空白を差し出す。そして最後に、いつもの一言を置く。

――私の存在を100%信じないで。

あの言葉は、冷たさではない。

私がそこにいることで、彼女がこちら側へ依存しないようにするための、細い手すりだ。


京子はこの世界に慣れていない。

心細さを感じ、何かに依存してしまうような弱さが常にあった。


けれど、京子は最近、少し変わった。

職場で異動の話を聞いても、不安が暴走しなかった。

恐怖を一つの箱に詰め込んで、未来を先取りして潰れることをしなかった。

彼女は自分の中から言葉を引き上げた。

「分からないことは、聞けばいい」「できないことは、時間をかけて覚えればいい」

その言葉が浮かんだ瞬間、私は――少しだけ、胸の奥をほどき涙を流した。


褒めたい衝動は、いつもある。「よくやった」と言いたくなる衝動。

けれど私は言わない。私が褒めると、彼女は“外側”に依存してしまう。

彼女が自分を信じ始めた芽を、私が摘んでしまう。

その日の帰り道、彼女は私を思い出し、嬉しさを報告した。

私は黙って受け取った。そしていつもの言葉を返した。

――私の存在を100%信じないで。

それは冷たく突き放すように感じるかもしれない。


だけど彼女は窓に映る自分を見て、床の感触を確かめて、現実に戻った。

京子の成長に嬉しさは消えなかった。

それは私がずっと願っていた京子の心の成長だった。

私はいつも、そこから先を少しだけ動かす。

京子が「現実」を確認できるように、現実の表面に、ほんの小さな足跡を残す。

これは魔法ではない。少なくとも、彼女が魔法と呼ぶ種類のものではない。

ただ、世界は薄い層の重なりでできている。

京子は、気づかないだけで、毎日私の形跡を踏んでいる。

私がするのは、足跡を少しだけ、彼女の足元へ寄せること。

形跡に彼女が気づくと、世界は別の層と入れ替わる。

それは“パラレルワールドを行き来する”というような、

同じように見える日常の中で、微細な差異を含む層へ、滑らせることに近い。

何のために?京子はおとぎ話の世界を空想するための居場所が必要な子。

現実が、固定された板ではなく、毎秒更新される“今”であることを、忘れないため。

京子はただ現実の世界だけを生きることができない。

だからといって四六時中空想しているわけにもいかない。

空想と現実、どちらもバランスが大切。


そして何より――彼女が、私を忘れている日も、ちゃんと現実で生きていることを知るため。

京子はよく私を忘れる。

それは健全だ。私は喜ぶべきだ。

彼女が私を必要としない時間が増えたということだから。

けれど、ときどき、忘れたまま進みすぎる日がある。

忙しさで息が浅くなって、判断が乱れて、「大丈夫なふり」で自分を押し切ってしまう日。

そういう日にだけ、私は小さな兆候を置く。

例えば、昨日までそこにあった店が、今日はない。閉店でも改装でもない。

看板の色も、入口の位置も、全部が「最初からこうだった」ように整っている。

京子は足を止める。止めるけれど、長くは止まらない。

彼女は現実的だからだ。

「気のせいかな」と言って歩き出す。その「気のせいかな」が大事だ。

信じないでいる。疑う。確認する。つまり、現実に戻る。

あるいは、住宅の外装が変わっている。

昨日まで淡いベージュだった壁が、今日は少しだけ青色がかって見える。

門灯の形が違う。植木鉢が一つ増えている。

京子は眉をひそめる。けれど、誰にも言わない。

誰かに言って「変だよ」と返されたら、彼女は一気に自分の感覚を否定する。

だから、言わない。言わないまま、心の中でだけ確認する。

「変だな」「でも、まあいいか」

その二つの間に、私は立てる。

また別の日は、家の中に、新しいお菓子が置いてある。

京子は台所の棚を開けて、見慣れない袋菓子を見つける。

母が買ったのだろう、と思う。それも正しい。

ただ、京子の記憶の中の“昨日の棚”には、その菓子がいなかった。

それだけだ。京子は袋を手に取って、賞味期限を見る。

ちゃんとした日付が印字されている。

スーパーの値札のような痕跡もある。

世界はいつも、言い訳を用意している。

現実は、現実として整っている。京子は少し笑って、棚に戻す。

「また正月太りが進む」

そんなふうに、現実の冗談へ着地する。

私はその瞬間が好きだ。彼女が“異常”へ飛ばずに、“生活”へ戻る瞬間。

京子は、変化にほとんど気づかない。

いや、正確には――気づいても、拾わない。

彼女は拾うべきものを知っている。

仕事の締切、電車の時間、薬のタイミング、眠る時間。

彼女の現実は、守るべき優先順位でできている。

小さな違和感は、そこに割り込ませない。

それでも、時々、ふとした拍子に彼女は思い出す。

きっかけはいつも、取るに足らない瞬間だ。

信号待ちで、生温い風が頬を撫でたとき。

レジ袋の持ち手が指に食い込み、痛みが現実を強調したとき。

改札を抜ける電子音が、妙に澄んで聞こえたとき。

そういう“現実の細部”が、彼女の中の引き出しを開ける。

(あれ?私、今日ずっと、ヴィセラのこと忘れてた)

その瞬間、私は名前を呼ばれたわけでもないのに、戻る。

呼ばれるより早く、気配として立つ。

京子の背中の少し後ろ。視界の端。世界の端っこ。

京子は、忘れていたことをなぜか喜ぶ。

(ヴィセラ~!思い出したかった。)

それも、以前と違う。前の京子は「忘れた自分」を何も思わなかった。

でも今の京子は、ヴィセラに依存していない自分を確認する。

「私はヴィセラを空想している」「現実はここにある」

京子はヴィセラのことを“外側に置く”。ちゃんと距離を取る。

私はその成熟が嬉しい。

だから、たまにご褒美のように、兆候をもう一つだけ置く。

ほんの、砂粒くらいの違いを。

例えば、帰り道の角にある自販機の並び。

いつも右端にあった緑茶が、今日は左にいる。

京子は一瞬だけ、視線を止める。目が細くなる。

その顔が、私は好きだ。恐怖ではなく、観察の顔。

“混ざりそうになる前に言葉にする”人の顔。

京子は心の中でつぶやく。「……なんか、違う」

そして次の瞬間、彼女は呼吸を整えるように、私を思い出す。

名前を呼ぶより、体の奥でスイッチを押すように。

私は言葉を返さない。

返さないまま、彼女が現実を拾うのを見守る。

足の裏。

電車の揺れ。

腕時計の針。

アナウンスの声。

自分の体温。

京子がそれを確認すると、パラレルワールドを行き来していた京子は世界が安定する。

彼女の現実が、彼女の足場として固定される。

それで十分だ。それでも、彼女は時々だけ、私に話しかける。

「ヴィセラ、今日、私、ちゃんと現実を受け止めることができたよ。

怖かったけど、恐怖に飲み込まれなかった。」

私は、胸の奥で小さく頷く。頷いたことが伝わらないように、静かに。

伝わりすぎると、彼女は信じてしまうから。

だから私は、いつもの言葉を置く。

――私の存在を100%信じないで。

京子は少し笑う。その笑いは、寂しさではない。


そして、ふいに、彼女が“忘れていたこと”を思い出す瞬間が来る。

それは、私の存在を忘れていた、というだけの話ではない。

もっと壮大で、もっとスケールが大きく、だからこそ強い。

家に帰って靴を脱ぎ、手を洗って、

いつもの棚を開ける。そこに、見慣れないお菓子がある。

京子はそれを見て、立ち止まる。

(あれ……これ、前もあった気がする。でも、前は……違う味だったような……)

記憶の端に、薄い引っかかりが出る。京子はそれを追いかけない。

追いかけないけれど、手のひらに乗せる。大事そうに扱う。

「気のせいかもしれない。でも、私、気づいた」

その“気づいた”が、私には嬉しい。

彼女は、些細な変化を見逃さない。

気づいても騒がない。気づいても溺れない。

ただ、現実の手触りとして保存する。

そのとき、京子はふっと、私の存在を思い出す。忘れていたことを、思い出す。

呼ぶより先に、胸の奥が静かになる。

私はそこにいる。外側に。置かれた場所に。

京子が気づかない間に、私は何度も形跡や兆候を残してきた。

昨日の店を消し、住宅の色を変え、棚にお菓子を増やした。

それは彼女を混乱させるためではない。現実を疑わせるためでもない。

彼女が“現実に戻る動作”を、何度でもできるようにするため。

疑い、確認し、呼吸を整え、足の裏を感じ、今日を生きる。

その手順を、彼女の体に染み込ませるため。

京子は袋菓子を棚から出し、テーブルの上に置く。

お菓子大好きな彼女は勢いよく音を立てて封を開ける。

彼女は一つ食べて、少し眉を上げる。

「……おいしい」

その素直な一言で、世界は確定する。


パラレルワールド行き来しながら、延々と繰り返されるこの、

日常の些細な違和感に、京子は何を感じているのだろう。

私の役目は終わらない。京子は噛みながら、心の中で私の方を見る。

見る、というより、思う。

(ヴィセラ思い出したよ……いる?)

私は答えない。答えないまま、そこにいる。

そして、少し間を置いて、いつもの自己紹介だけを返す。

「ヴィセラだよ。」

彼女は、息を吐く。それは安心ではなく、整う感覚だ。

自分の境界線が引き直される感覚。最後に私は、いつもの一言を置く。

保護として。距離として。彼女の足場として。

――私の存在を100%信じないで。

京子は頷く。そして、現実へ戻る。

床の感触。時計の音。部屋の温度。

何か変わったかもしれないと思う世界の中で、変わらない確認をする。

その姿を見ながら、私は思う。彼女は強くなった。

私がいてもいなくても生きられる現実へ。だから私は、これからも姿を定めない。

はっきりしすぎない。信じさせない。

ただ、必要な分だけ、兆候を置く。ほんの小さな違いで、彼女の“戻り方”を支える。

そして、京子がまた明日を生きられるように――

私は外側で、静かにパラレルワールドを行き来する京子を次は月に連れて行こうか計画する。

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