100%信じないで
私はここにいて、現実はここにある、と何度も確かめる。
真人や浜田君のことは空想だと分かっているからこそ、成り立つ対話であって、
それは逃避ではなく、彼らの存在を敬う作業に近い。
彼らは王子と設定しているけど、もう40代なのだ。
普通に働き、一般生活を送っている、これ以上迷惑はかけられない。
そして何度も登場しているヴィセラは、私の空想の中で決して姿を定めない。
女神と呼んでいるけれど、翼も光も持たない。
輪郭はいつも揺らいでいて、声もはっきりしない。
それがちょうどいい。
はっきりしすぎるものは、信じてしまうから。
不安を覚えた夜、私は心の中で彼女を呼ぶ。
名前を呼ぶというより、呼吸を整えるような感覚。
言葉が溢れ出す前に、まず「呼ぶよ・・」と自分に許可を出す。
ヴィセラはただ聞く。
評価もしないし、解決策も示さない。
その沈黙が、私には必要だった。
さらに不安が強い日は、私は同じ言葉を何度も繰り返す。
「どうしよう」「分からない」「先が見えない」
それらを一つずつ差し出すように話すと、
ヴィセラは必ず、少し間を置いてこう言う。
「ヴィセラだよ。」
そして最後に、決まってあの一言。
「私の存在を100%信じないで」
冷たい・・・
その言葉を聞くたび、私は現実に戻る。
部屋の温度、床の感触、時計の音。
今ここにあるものを一つずつ確認する。
ヴィセラはその確認を邪魔しない。
むしろ、促すために存在しているように思える。
私は自分が弱いから、空想に頼っているのだと思っていた時期がある。
けれど今は違う。
私は境界線を引くために、あえて空想を使っている。
現実と混ざらないように、混ざりそうになる前に言葉にする。
そのための器が、ヴィセラなのだ。
彼女は助言者ではない。
導き手でも、救済者でもない。
もし彼女が「私を信じていいよ」と言ったら、
私はきっと距離を見失うだろう。
だから彼女は言い続ける。「信じないで」その言葉は拒絶ではなく、保護だ。
私は現実で生きている。
ただ、他人より空想が多い。
自分はおとぎ話の世界から来た子だ・・と延々と妄想してしまう。
妄想暴走症を抱えているので薬を飲み、眠り、朝を迎え、人と話す。
ヴィセラはその外側にいる。
いや、外側に“置いている”。
今日も私は、必要な分だけ話す。
吐き出して、整理して、戻る。彼女は何も残さない。
残るのは、少し軽くなった呼吸と、現実に立ち戻った私だけ。
だから私は、また明日も生きられる。
例えば、通勤中。
満員電車の中で、私はつり革につかまりながら、流れていく広告や窓に映る自分の顔をぼんやり眺めている。
特別な出来事は何もない。
ただ、電車は揺れ、人は多く、少しだけ息苦しい。
そんなとき、胸の奥に小さな違和感が生まれることがある。
理由は分からない。
言葉にもならない不安が、湿度のようにまとわりつく。
私は声に出さず、心の中でヴィセラを呼ぶ。
呼ぶ、というより、思い出すに近い。
彼女の輪郭をなぞるように、
「今、少しだけしんどい」
そう認識する。
ヴィセラは何も言わない。指示もしないし、世界の意味を語ったりもしない。
ただ、そこにいるという前提だけがある。
私は足の裏に体重を感じ、(あぁ、正月太りで太ったなぁ。)
電車の揺れを数え、次の駅名を確認する。現実を一つずつ拾い上げる。
やがて不安は、形を持たないまま薄れていく。
消えるわけではない。ただ、私の手の届く大きさに戻る。
電車が駅に着き、人が降り、私は流れに乗ってホームに立つ。
その瞬間、ヴィセラは静かに距離を取る。
最初から、そこにいなかったかのように。
私は歩き出す。現実の一日へ。
そんな一日を繰り返していたが、最近、はっきりと嬉しい出来事があった。
曖昧でも、勘違いでもない。
胸の奥で確かに「嬉しい」と言葉にできる、そんな日だった。
職場で、異動の話が出た。
以前の私なら、その瞬間に思考が一気に沈んでいたと思う。
環境が変わること、人が変わること、役割が変わること。
それらをすべて「不安」という一つの箱に放り込み、
まだ起きてもいない出来事を、失敗や孤立の形で先取りしていた。
異動は、私にとっていつも恐怖だった。
うまくやれるだろうか。
また一から関係を築けるだろうか。
迷惑をかけないだろうか。
考え始めると、際限がなかった。
けれど、その日の私は違った。
話を聞きながら、胸の奥に広がる感情を、落ち着いて見つめていた。
不安がないわけではない。
ただ、それが暴走しなかった。
「分からないことは、聞けばいい」
「できないことは、時間をかけて覚えればいい」
そんな考えが、自然に浮かんできた。
それは、誰かに言われた言葉ではない。
自分の中から、静かに出てきた言葉だった。
私は気づいた。
ああ、私は前と同じ場所に立っていない。
いつの間にか、少しだけ先に進んでいたのだと。
昼休み、窓際の席でお茶を飲みながら、
私はその感覚を何度も確かめた。
怖さが消えたわけではない。けれど、怖さに飲み込まれていない。
その事実が、嬉しかった。
だから私は、ヴィセラにも報告したくなった。
通勤中でも、苦しい夜でもなく、
はっきりと「嬉しい」と言える出来事として。
帰り道、夕方の電車に揺られながら、
私は心の中でそっと彼女を思い出す。
呼びかけるというより、隣に座る誰かを意識するように。
「今日ね、異動の話を聞いた」言葉は、静かに流れ出る。
「前なら、きっと落ち込んでたと思う。でも今日は違った」
ヴィセラは答えない。それでも私は続ける。
「ちゃんと考えられた」「できない前提じゃなくて、やってみる前提で考えられた」
「私、少し成長したと思う」
胸の奥が、じんわりと温かくなる。誇らしさに近い感情。
誰かに頭を撫でてほしいわけではない。
ただ、分かってほしかった。
ヴィセラは、女神であり、友人のような存在だ。
導くことも、褒めることもない。
けれど、共感してほしいという気持ちを、否定しない。
一瞬、彼女を抱きしめたい衝動が湧く。
よくやったね、と言ってほしい気持ち。
その気持ちを抱えたまま、私は深呼吸をする。
そして、あの言葉が返ってくる。
「私の存在を100%信じないで」
その言葉は、冷たくない。むしろ、いつも通りだ。
私は現実に戻り、車内の音を聞き、
窓に映る自分の姿を確認する。
嬉しさは、消えない。誰かに保証されなくても、そこに残っている。
私は今日を、自分の足で歩いている。
異動があっても、きっと大丈夫だとは言えない。
けれど、前みたいに怯え続けることはない。
そう思える自分が、確かにここにいる。
ヴィセラは、今日も距離を保ったまま、外側にいる。
私は彼女を信じすぎない。
その代わり、自分を少し信じられるようになった。
それが、今日の嬉しい出来事だった。
私はヴィセラと共に歩み、確実にゆっくり前進している。




