09.彼女の銀の腕輪
目の前には青空を映す鏡のような湖面が広がっていた。
そのままぐるりと湖畔を見渡すと、少し遠目に王家が私的利用するために建てられた小さな屋敷が目に入る。
「……あれが噂の小離宮」
「王家のものとしては本当に小さな屋敷だよね。近くまで見に行ってみる?」
「いいえ。この場所だからこそのお屋敷ですから、そっとしておきましょう」
誰に聞かせるつもりでもなかった呟きを拾われ、湖面と同じ色をしたロディオンの瞳と視線が絡んだ。
短い往復で会話が途切れて、初夏の爽やかな風が草木を揺らす音や鳥のさえずりだけが耳に届く。
アストリッドは湖から目を離して振り返り、草地に敷かれたクロスの上に昼食の準備が着々と行われていることを確認した。
今日のピクニックはテーブルセットもカトラリーも用いないラフなもの。馬での移動になるため、バスケットをできるだけ軽くしたかったのだ。
事前に予定を伝えられた時に食事は任せろと手を挙げたので、レインホールド家厨房の自信作だ。その内容はアストリッドの希望が大きく反映されている。
よってその準備はすぐに終わるだろうから、先に用事を済ませなければならない。
「ロディオン様、こちらをどうぞ」
アストリッドが手提げ鞄から取り出し、手渡したのは小さな袋。
受け取ったロディオンが丁寧に開けると、布に包まれた銀のバングルだった。
「……僕じゃ内容が読み取れないけど、見事な回路だというのはわかる。……これは?」
「毒探知の魔装具で、よく使われる毒に反応するように設定しています。使い方は――――」
裏側を確認しながら呟くロディオンに向け、アストリッドが使用方法の説明をはじめた。
既存の毒探知魔装具はとても重くて嵩張る。
装着しておけば自動で判別してくれるので便利なのだが、だいぶ邪魔なのだ。
何故重いかと言えば、毒物判定のための回路がどうしても複雑になる上、動作のための魔力を多量の魔石に頼っていたからである。
そこでアストリッドは思い切って魔装具の動作を手動にし、動作のための魔力を使用者が自身のものを用いる仕様にした。
毒探知魔装具を必要とするのはだいたいが「やんごとなきお方」である。そんな彼らに向かい「自分でやれ」という方面の改造をするのは、なかなかに冒険であった。
簡易的な毒見役は未だ置いているが、毒探知魔装具の登場によって温かい食事に口をつけられるようになった立場の「やんごとなきお方」は、その仕様を歓迎した。装置が重いというのも、それはそれで食事が大変であったから。
ついでに回路の改良も施し、細身のバングル程度まで小型化をしたのがアストリッドである。そして真っ先にそれを使用している「やんごとなきお方」とは聖龍王国の王太子なのだが。
「……ああ、なるほど。最近殿下が使っているやつか。君が手掛けていたんだね」
「袖の下に装着していただくと便利ですよ。あ、媚薬に反応するとじんわりと熱を持ち、毒の場合は軽い静電気のようにピリピリするようになっています」
「媚や……ああうん。わかった、ありがとう。……せっかく君から貰ったものなのに、隠すのはもったいないな」
すっと腕に通してロディオンが具合を確認する。
急いでいたのと実用性重視なのもあって、バングルそのものはシンプルな意匠のものである。
本体が華やかなロディオンが身につけるには、少し浮いてしまうだろう。逆にバランスがとれているといった評価もできる気がするが。
反応する物質に媚薬を含んだのは、ロディオンに必要だと思っただけであってアストリッドに他意は無い。ちょっとした意趣返しなどではない。
「これは要するに実用品ですので……揃いのものはどうせこれから用意するじゃないですか」
「あ……うん、そうだね」
アストリッドがふたりで居る未来を語ったことに、ロディオンは一瞬だけ目を瞠る。
それから嬉しそうに目を細めて笑うロディオンが本当に美しくて、ああ顔がいいってずるいなとアストリッドはいつものように思った。
◇
場を整え、お茶を淹れるだけの準備はすでに済んでいた。
レインホールド家のバスケットから取り出されたのはワックスペーパーに包まれたサブマリン・サンドイッチ。
今のところこの国には存在していなかったそれはアストリッドが前世の記憶から注文し作らせたもの――ただし潜水艦という概念がないため、ただの変わり種サンドイッチ――で、生野菜や香草を挟んだものがハムとサーモンの二種類。
あとは物足りなかったとき用に数種類の具材別ケークサレと、食後向けにバナナマフィン。
どれもが素朴な調理法のものだが、すべてがアストリッドの好物である。
ちなみにバナナマフィンに使われたバナナは、玻璃宮デートの後日に送られてきたものである。
名目は王太子からということだったが、実際のところは目の前のロディオンが許可を得て手配をしたのだと思う。
軽く味見をしたところデザートバナナのようだったので、お菓子にしてもらった。
こうやって、アストリッドはなんだかんだ王太子に甘やかされているという自覚はしている。お役目に対する報酬とも思っているが。
アストリッドが小さく切ったサンドイッチを少しずつ口に運んでいると、遠慮なく大きくかぶりついていたロディオンが感心していた。
「このサンドイッチ、見た目もボリュームがあるから満足度が高いね。忙しい時の殿下のお食事に良さそうだ」
「お忙しい時って、食事の時間すら惜しいくらいなんですか……?」
「王太子様のお仕事なんてだいたいが視察と会議と準備と勉強と視察と会議と……みたいなもんで、時間に振り回されるものだよ。その予定に合わせ、その時必要な情報を整理して殿下に渡すのが僕らの仕事……つまり僕だって食事の時間が惜しいときもある」
げんなりとした様子を隠しもせず、サンドイッチにかぶりつくロディオンが目の前に居る。
いつもの優雅さとは程遠い荒々しい所作だが、彼がやると何故かそれも様になるのが不思議だ。
気がつけば、とりとめのない雑談がただ流れる落ち着いた時間になっていた。
アストリッドもはしたなくない程度に作法を無視し、気楽に振る舞えるのはこの場ならではだろう。ロディオンに対する目隠しを外してみれば、彼とて普通の男性なのだとよくわかる。
もともと護衛たちには少し離れてもらっている。
せっかくなのでと、アストリッドはロディオンの恋人たちとされる女性について気になることを確認することにした。
「……これは独り言なのですけれど」
「うん?」
「以前いただいたメモを見てからなのですが、ロディオン様が様々なお姉様方とお付き合いされているのはお仕事の一種なのかなと思い始めまして」
「……………………」
あくまで独り言だという体裁に乗ってくれたらしく、ロディオンによる相槌は続かなかった。
ロディオンはサンドイッチをもう一口かぶりついて、視線はケークサレの物色をはじめた。しかし意識だけをアストリッドに向けるという器用な真似をしている。
これはアンドゥ公と縁のある組織――国史編纂室と第三管理室や旧ドレマ伯爵邸のコーヒークラブなど――と家族の誰かが関わりのある女性が、あのメモからことごとく除外されていたことが発端であること。
巷の噂をかき集めると、交際期間の短長に関わらずそういった共通点のある女性に偏って交際の噂が立っていると思ったこと。ただし、古い話は把握が難しいためこれは仮定にすぎない。
ロディオンのメモには既婚女性の名も複数あったが、大半が未婚の令嬢たちだった。これは別れ話のもつれによるトラブルというよりは、現状で過激な付きまといをされていることによる被害予測だと思ったこと。
以上のことから、噂されている女性の大半が仕事上の付き合いとその隠れ蓑だと予想をしている。
先程もロディオンは自らの仕事について「情報を整理して殿下に渡すこと」だと言っており、その情報収集の一環ではないかとアストリッドはほぼ確信していた。
アストリッドの独り言を聞き終えたロディオンはサンドイッチを飲み込み、紅茶で喉を潤すと一息ついた。
「――――うん、殿下が君を気に入るわけだ」
どうやら試験には合格したようだと、アストリッドは知らぬうちに強張っていた肩の力を抜く。
それでも何故こんな迷惑な試験を課されていたのかを教えてもらえるのかは、まだわからない。
目の前のロディオンとどこか雰囲気の似た、油断のならない笑みを浮かべる彼の主を思い出す。
アストリッドは思わず吐き出しそうな溜息を呑み込んだ。