08.彼の新緑の香水
裏側に魔法回路を刻み魔石の一種である感応石を埋め込んだ、細身の銀のバングルを眺める。
表側に石はなく、細工が彫り込まれただけのものだ。
ここまで緻密な回路を施せる技師は国内にも少なく、アストリッドはそのうちのひとり。
彼女は発明家を自称したりもしているが、実はどちらかというとその器用さと回路の再構成による魔道具の小型化を評価されていた。
このバングルのように細かな回路を曲面にびっしりと施す……となると、可能な技術者は更に数が絞られる。
嘘発見器のために志した魔道具開発の道だが、なんだかんだ楽しくて色々と手を広げてしまった。
ここに至るまでの努力は当然したものの、これらの才能は「転生者特典」というものなのかもしれない……とアストリッドは最近ふと思うのだ。
知らぬうちに不正をしてしまったかのような、そんな居心地の悪さを少しだけ感じている。
運命神は何のためにアストリッドに前世の記憶を残し、この才を与えたのだろうか。
「――――お嬢様、アーメット様がお見えになりました」
「……ええ。いま出ます」
私室の外からの叩扉後、侍女の声が要件を告げる。
アストリッドは銀のバングルを柔らかい布に包み小さな袋に入れると、そのまま手提げ鞄に放り込んで扉に足を向けた。
◇
ロディオンとの二回目のデートは、王都近郊の湖に遠乗りついでのピクニック。
今回は彼の要望なのでもっと派手な提案をされるかと思ったが、素朴な内容にアストリッドは少し驚いた――行き先は素朴と言い難いが。
「前回の玻璃宮もですけど……王家所有の土地なのによく許可が出ましたね」
「王太子殿下様々だよね」
ぽくぽくとゆっくり馬に揺られながらロディオンに尋ねると、潔い返答であった。彼も遠慮することなく主人に権力を行使させたらしい。
本日の行き先は、王城地下と同様に建国の伝説にまつわる聖地。
そのあたりはもともと聖龍の住処だったと伝わっているが、今は森と湖ばかりの地だ。聖地と呼ばれているが王家が息抜きに訪れる場所でもあるので、道もちゃんと整備されている。
「好感を得るためには、君の知的好奇心を刺激したほうがいいと思って」
「それ、本人に言ってしまったら台無しですよ」
その見立ては特に間違っていないのだが、本人に告げた時点で全てが胡散臭くなった。
乗馬ドレスのアストリッドを自らの前に乗せて、上機嫌さを見せるロディオンはそっと彼女の後頭部に唇を寄せる。
「……あの、だいぶ近くないですか」
「そう? 離れたら落ちちゃうよ、僕に捕まってて」
「そ、そういえば最近はわたしに時間を割いていただいてますけどお仕事のほうは大丈夫ですか!?」
今日はロディオンの声が妙に甘く感じる。
以前からこうだった気もするが、いまはあまりにも近い距離にいるせいかよくわからない。
気恥ずかしくなって話題を変えようとしたが動揺が強く出てしまい、不覚にも裏返った声になってしまった。含み笑いが頭上から聞こえ、居た堪れない。
「……大丈夫、心配してくれてありがとう。こっちも大事なことだからね」
「あっ、そうですねこれも仕事みたいなものですね」
「待って待って違うから納得しないで」
素直に納得しかけたアストリッドをロディオンが制す。
その反応は流石に心外だったようで、慌てたような気配のロディオンに抱き寄せられた。ほぼ密着といえる距離になり彼の匂いが強くなる。アストリッドは顔に熱がこもってしまい、更にうつむいた。
ふと、漂う香りにいつものスパイス感がないことに気づく。
これはなんだろうかと、物理的な距離から気を逸らすために彼の香水に意識を寄せる。微かに残るシトラスに続くのは、グリーンとウッディの気配だ。
目的地は森の中の湖で、同行者はそれを楽しみにしている者。
アストリッドの楽しみを邪魔しないように、けれど近づいたときに不快にさせないことを目的とし、場と比較して主張が少なく感じるものを選んだのだろう。
その配慮に、ロディオンが女性たちに支持されるのは見目が良いからということだけではないのだと実感する。
卒業間際で碌に授業もないアストリッドより、ロディオンはよっぽど忙しい。
彼からすれば三ヶ月という限られた期間で仕事をしながら交流の機会を持ち、なおかつ結果を出さねばならないための行為だろう。とはいえ、急にこの距離はよくないのではないだろうか。
婚約だってまだ正式に整っていないというのに。
「婚約って……本当にするんですよね」
「そうだよ。僕は親が何を言うか全然予測できなくて、顔合わせがちょっと不安」
「ロディオン様はお嫌ではないのですか……わたしは年下ですし」
もはや真偽がわからなくなってきたが、表面上の事実としてロディオンの恋人たちは全員が年上である。
年上の経験豊富な女性が好みであるのなら、アストリッドなど完全に対象外だろう。
アストリッドからしても、ロディオンのような軽薄に振る舞うタイプは苦手であるため、お互い様ではあるが。
運命神の思し召しにより、何故かアストリッドとロディオンも運命のふたり候補になっているが、本命は主人公と第二王子のほうだろう。
ならばこちらが本当に婚約をする必要はないのでは……と思う。
しかし、この婚約はアストリッドのためであるとの予想は容易い。目的のためになんだかんだと交流するにあたって、人目を完全に避けることは不可能だからだ。
今日ロディオンがアストリッドを迎えに来たという事実が両家から漏れることはない。しかし外からその光景を見かけた他家の者が何を言うかは別の話である。
今までの恋人たちとはまったく違う属性のアストリッドと恋多きロディオンという組み合わせ。人々がそれに対してどんな噂をするのか、そのパターンは決して多くない。
そこで婚約という建前すらなければ、アストリッドが置かれる立場は非常に危ういものとなる。
良くて「遊び人に弄ばれる愚かな娘」といったところか。平民ならまだしも、高位の貴族令嬢としては致命的だ。社交場で踊りをせがむのとはまったく意味が違う。
こういう場合、貴族社会において男性側が受ける風評被害は然程ない。ロディオンのような存在なら尚更である。
世界は危機に瀕しているというのに、なんと理不尽なものかとアストリッドは思う。
「嫌ではないよ。どうして……と訊くのは意地が悪いか」
そう零した後で少し悩み、ゆっくりと口を開いたロディオンは諭すような落ち着いた声だった。
「君が不安になるのもわかるし、しばらく迷惑をかけてしまうのは事実だから申し訳ないんだ。だからこそ無用な不安は取り除いていきたい。蔑ろにするつもりはないし、いまは信じて欲しいとしか言えないのだけれど……」
話せることとそうでないことの狭間で、賢明に言葉を探しているのがよくわかる。
いつもと違う雰囲気と物理的な距離の近さによるものか、アストリッドはそれらを素直に受け取ることができた。
否応なく置かれてしまった立場に、ロディオンとて不安があるのだと知る。
今までとは違うものに向き合うことを余儀なくされているのは同じなのだ。
アストリッドは、自らが無意識的に築いていた彼との間の壁が取り払われたのを感じる。
ふたりの距離はロディオンに抱き寄せられた時のまま変わることなく、馬は森の道を進んでいった。