07.遊び人の恋人たちとメモの関係
玻璃宮デートの夜、アストリッドは自室で魔石ランタンの灯りを頼りにふたつの日記を広げていた。
アストリッドには恋愛がわからない。
もちろん恋愛小説は嗜むし、恋の歌だって素敵だと思う。
仲の良い両親を見て恋愛結婚に憧れもするが、自分が誰かを好きになるという感覚は未だわからない。
前世の記憶にだってそんな感情は見当たらない。
ロディオンがこちらを見つめてきたときに「顔と所作と雰囲気がいい」と心が乱されてしまうのは恋でも愛でもない。
舞台俳優に憧れる気持ちや芸術を愛でる……前世で言う「推し」に対する好意に近いものだ。実はよく理解できていないが多分、そう。
当時は珍しかった恋愛結婚の両親は、アストリッドにも自分で相手を探して欲しがった。なので、よっぽどのことがなければ家の事情で決めないと言われて育ってきた。
。
そしてアストリッドは知らなかったことだが、学園在学中にアストリッドが自分で相手を見つけなかった場合は王太子が直々に見合いの話を整えるという話が昔からあったらしい。
もちろん、レインホールド伯爵家の事情にも配慮がなされる形で。
「……表向きは、そうして紹介されたのがロディオン様ということ」
当然のことだが、アストリッドの両親には邪竜の封印云々の事情は明かされていない。
両親は打診の相手に驚きつつも、アストリッドが拒否をしないことに複雑な顔を見せていたことが印象に残っている。思えば勉強と遊びや研究ばかりでそういう話を全くしていなかったし、実際何もなかった。
アストリッドが「王太子のお気に入り」だと良くも悪くも揶揄されていることについても、随分と気を揉ませていたようで申し訳なく思う。
手元にあるふたつの報告書に改めて目を通す。
これは母に頼んでおいたロディオンに関する社交界の噂話と、家政婦長に頼んでおいた使用人の噂話を集めたものだ。
「ふたつとも内容は主に女性遍歴……婚約に関して頼んだ調査だからそれもそうか……」
むしろ他に報告が必要な内容がないのではないかなどと、ある意味失礼な感想すら浮かぶのは見逃してもらいたいところである。
ロディオンが社交界に出てからの数年で長く関係が続いているのが三人。うち未亡人がふたり、既婚者がひとり。
未亡人の片方と既婚者は恋多き女性だが、未亡人のもう片方はロディオン一筋のようだ。
ここまでは社交界の噂話と使用人の噂話が一致している。いったいどうなっているんだ使用人ネットワーク。その恐ろしさに、アストリッドは思わず身震いをした。
そしてロディオンから貰ったメモ――彼いわく、あとで拗れそうな女性の一覧――には、彼女ら三名の名前は記載されていない。
「長く付き合っているなら何か一悶着がありそうだけど……逆に言えば割り切っているからこそ長続きするとも考えられるとか? 知らない世界だわ」
男女の性愛についてはさっぱりだ。
おしどり夫婦で知られる両親に尋ねるのも憚られるし、他人に訊くのは淑女として問題がある。
気を取り直し「ロディオンの恋人たちの家族から何か言われないとも限らないので」という理由で集めた、彼女らの家族についての情報にも目を向ける。
アストリッドとて、貴族令嬢として他家の情報はある程度頭に入っている。しかし社交デビュー前のアストリッドのそれは紙上のものであって生きた情報とは言えない。現役で社交に出ている両親の情報は貴重だ。
その両親に頼んだとき、可哀想なものを見る目だったことを思い出して切なくなったが。
遊び人の婚約者の後始末に娘が手間をかけていると思えば、親からすれば複雑だろう。今はまだ、アストリッドが受け入れる様子を見せているので静観してくれている。
しかしいくら温厚な両親とはいえ、改めてロディオンと挨拶をするときには何かしらの嫌味が飛びだすかもしれない。とはいえ自業自得なのでそこは甘んじて受けてほしい。
メモに目を戻しても見当たらない、ロディオンと数年間の付き合いがある三人の年上の恋人たち。しかし彼の見立てでは、問題なく別れられるという。
いまのところアストリッドの勘でしかないが、何か違和感がある。彼女ら本人かその家族に、何らかの共通点でも探れないだろうか。
「見た目、出身……いえ、それぞれの夫の所属は――国史編纂室、第三管理室……ちがう、旧ドレマ伯爵邸のコーヒークラブ。共通点といえば、アンドゥ公……?」
アンドゥ公とは、現国王の年の離れた弟のことだ。どれくらい年が離れているかというと、国王よりも王太子に年齢が近いくらい。
何か事情がありそうな気配もあるが、前国王の遅咲きの初恋により迎えられた第二妃腹の正当な王子である。
現在は年の近い王太子との兼ね合いもあって基本的に領地運営に専念しているのだが、国内政治の足場として王城でいくつかの部門の管轄も担っている、らしい。
息子がいなかったため、後継者を現アンドゥ公に指名して亡くなった先代の後を継いだ彼は現在独身。けれど、既婚者が原則であるはずの旧ドレマ伯爵邸のコーヒークラブの長も一緒に継いでいる。
アストリッドは男の世界に詳しくないが、ひとつひとつはよくある話なのではないだろうかと思う。
王族が主催していたコーヒークラブなら、引き続き王族が長になったほうが丸く収まることもあるだろう。
「……………………」
何かが妙にひっかかる。
ロディオンは本当に世間の噂通りの……本人も言う通りの恋多き男なのだろうか。
アストリッドは明日の自分に、早めにやっておくべき事項についてのメモを残す。
多少の手間はかかるが、思いつきの予想が当たろうが外れようが何らかの形で役に立つだろう。
確証はないが、ロディオンは高い確率でアストリッドに隠し事をしていると思われる。
そんな状況で彼との間に「真実の愛」なんて生まれるものなのだろうか。
もちろんロディオンが王太子の側近である以上全てを明かせなどと言うことはできないし、そもそも不必要に機密を知りたくない。
それでも一歩踏み込んで、まずは信頼関係を構築しなければならないのかもしれない。
息を長く吐いて各報告書とロディオンのメモを裏日記に挟み、鍵が付いた引き出しの二重底にしまい込む。
ナイトテーブルに置いた魔石ランタンの灯りを落とし、翌朝の朝食を思い浮かべて柔らかな寝具に潜った。
(――ああ、面倒くさい。ジャムが食べたい)
アストリッドはジャムをパンに塗るのではなく、砂糖代わりに紅茶に溶かしてみようかと考えながらふわふわとした眠りについた。