第五十話 ゆびきりげんまん
「じゃ、私が買って来るよ。少し先に大型の電気店があったはずだ」
「お願いします」
「気をつけてー」
湊さんに買い物をお願いして、僕とくろちゃんはスタジオの中に入って、焼け焦げたコードを撤去しつつ再接続の準備をする。
と、いっても一分もかからない作業だ、終わると湊さん待ちになるので手持ちぶたさになるのだけど……その、空気が、ね。
「二人きり、だねっ」
「あ、あー、うん、まぁね」
東京でくろちゃんとキスして以来、僕たちの距離はすっごく縮まってた。と言っても湊さんがいつも一緒なせいもあって、常時イチャイチャしてたわけではない。
なのでこうスパッとふたりきりな時間が出来てしまうと、どうしても意識しちゃうなぁ。
「ん♪」
早速そう言って目を閉じ、唇を結んでキスをせがんで来る。まぁ嬉しんだけど、どうにもカオが熱を持つのは慣れない。ちゅ、と唇を重ねてから一歩離れようとしたら、彼女は僕の体をぎゅむっ! と抱きしめて来た。
「え、ちょ、ちょっと……」
「んー、ヒカ君の髪の毛いい匂い♪」
頭半分以上背の高いくろちゃんにハグされると、彼女の顔が自分の頭に埋まる格好になる。『彼氏』というには何とも冴えない絵面だ、早く背が伸びないかなぁ。
あと肩に当たる柔らかい感触が、なんか恥ずかしい……
でも、やっぱり嬉しい。こうして三人で旅をして、空手の稽古で自分を高めていき、日本中を回っていろんな人たちを見つけて行く毎日。
学校に行っている時には考えられなかった。根暗な奴とややハブられ気味で、女子には感心すら持たれなかった。毎日がルーチンワークで、このまま何もなく大人になるのかなぁ、なんてずっと思ってた。
でも、今はこうして、好きな女の子と一緒にいられる。彼女の体温を感じ、唇の柔らかさを味わって、その『好意』を重ね合っている。
ひとつわかる確かな事。今、僕の『にんげんホイホイ』は、絶対に何も映していないと。
今が人生で、一番幸せなんだから。
「ね、湊さんって気づいてるかな? わたしたちのこと」
体を離した後そう聞く彼女に、僕はうーん、と首をひねりつつも曖昧に返す。
「知らない、んじゃないかな。湊さんの前ではいつも通りだし」
「んふふ。私は気付いてると思うよ~」
知られていたら一大事なのに、何故かくろちゃんは嬉しそうに、ぴょん、と後ろに飛び跳ねた。あ、可愛いな、なんて思って、僕は目を窓の外に反らした――
数秒固まった後、僕はくろちゃんに突進し、彼女に抱き着いて押し倒した!
「え、何? どうしたのヒカ……」
(シィーッ、声を出しちゃ駄目だ、頭を低くして!!)
ぽかんとして顔を赤くするくろちゃんの頭を押さえて、床に伏せる。
まさか、まさか、まさか……今、窓の外に見えたアレは!
このビルは全面ガラス張りだが、さすがに腰から下あたりは曇りガラスになっていて、身を低くしたら姿は見えないはずだ。頼む、通り過ぎてくれ!
(クマが、いる!)
(へ?)
冷や汗をたっぷり流しながらの僕の言葉に、彼女は目を丸くして固まった。一瞬置いて顔を引きつらせ、ごくりと唾を飲み込む。ようやく彼女も今の状況を……
「ゴフッ、ゴフッ」
来るな、来るな、来るなっ!
ビルに入り込み、真っ直ぐスタジオに向かって来る。なんで、どうして?
(こっち来てるよー)
(こっちの姿は、見えてないハズなのに、ッ)
クマはスタジオ前に辿り着くや否や、立ち上がって窓ガラスに、どん! と手を付く。
(デカイっ!)
その真っ黒い体は、身長だけなら湊さんくらいだろうか、でも手も足も胴体も人間とは段違いに太く、周囲の空気を歪めんばかりの恐ろしさを身に纏っている。
そして、そのクマの視線を追ったとき、僕はようやく気付いた。
(しまった! あいつは僕たちの『ホイホイ』を見てたんだ!!)
なんて間抜けなんだろう。いくら僕たちが身を伏せても、肝心の大ウィンドウが浮いてれば、そこに誰かいるのが丸分かりじゃないか。
クマは一度身を伏せ、そこから出入り口のドアに向かって歩き出す。トアといってもガラス製の自動ドアで、前に立てば勝手に開いてしまう……ヤバすぎる!
クィーン、と音を立ててドアが開き、一頭のクマが僕たちのいるスタジオに入って来た。
ドクン・ドクン・ドクン・ドクン!!
心臓が早鐘を打つ。もう隠れていられない、僕は身を起こしてくろちゃんの腕を引っ張って起こすと、出来もしない言葉が自然と口を突いて出た。
「僕がコイツを引き付ける、くろちゃんはスキを見て逃げて!」
その言葉に引っ張られるように空手の構えを取る。そんな事なんて全然頭になかったのに、体が勝手に戦闘態勢に入った。大熊師範代、無理だろうけど、ありがとう!
僕の背中から肩の服を掴まれる感触がある。くろちゃんが僕にしがみついているんだろう、何とか一瞬このクマの気を反らして、彼女を逃がさなければいけない。
「フッ、フッ、フゴッ、フゴッ」
僕たちの1m手前で止まったクマは、なんか鼻先で僕たちと空中を交互に指し示していた。なんだこれ? 何かクマの習性にこういうのあったっけ……?
「え、ホイホイ? ヒカ君、こいつ私達とホイホイを見比べてる、みたい」
てっきり襲って来るかと思っていたクマが、まるで僕らに何か指示をしているかのようなリアクションを取るのを見て、くろちゃんが呆気に取られてそう発した。
と、クマが突然立ち上がり、まるで何かを覗き込むかのように、首を回してきた。
それは明らかに、横を向いて見えなかった僕のホイホイの画面を覗き込んでいた。
グルルルルルルッ!
クマが唸った。明らかに今までとは違う、興奮と怒りをかかえた表情で牙を剥き出しにし、四つん這いに戻ると……
僕を一睨みした次の瞬間、床を蹴って踊りかかって来た!
「うわぁっ!」
「嫌ぁっ、ヒカ君っ!」
クマに覆い被さられ、そのまま仰向けに倒される。体重をまともに浴びせられ、左足に強烈な痛みが走ったかと思うと、ぐきり、と嫌な音がして全身に痺れが走った。
「ゴパァァァァッ」
口を大きく開けて吠えて一度頭を引くと、そのまま僕の首根っこ目掛けて噛み付いてきた。髪の毛一本の差で上半身をひねって身をかわし、相手の口に僕の左肩を差し出すように噛ませた。
ごりっ!
「うあぁぁぁぁぁぁぁぁーーっ!!」
痛い、痛い、痛いなんてもんじゃない。瞬時に意識が飛び、痛みで覚醒するのを繰り返す。これは……死ぬ、死んじゃう!!
ふ、と、意識が飛ぶ度に、僕の頭に走馬灯のように、ある回想が浮かんできた。
―いいかい白瀬君、武道っていうのは活人拳を旨とするんだ―
―つまり、自分や大切な人の生命が脅かされた時、それを守れる技―
―普段は決して使っちゃいけない禁じ手。でも空手にはその時にだけ許される技がある―
大熊道場で蘭師範代に教わった事。それが今の状況に導かれるように頭をよぎる。
そうだ、くろちゃんを、戻って来る湊さんを守らないと――!
「あああああっ!」
生きている右手指の中の三本を立て、親指と小指を結んで力を込める!
―『目突き』。人差し指、中指、薬指を立てる。中指はいわば照準、それをコメカミの真ン中に付き込んで、左右の指で目を潰す―
「でぇいっ!」
半身になりながら、僕の左肩に噛み付いたクマの眉間目掛け、右手を突き出す!
グチュゥッ!!
クマの太い鼻面を手のひらでまたぐように滑って行き、二本の指の爪先が弾力のある、それでいて固い物に突き刺さる。どうだ!?
「ガアァァァルワァアァァァ!」
クマは牙を放して上半身を起こすと、激しく首を左右に振り回す。両手で目を押さえて呻き続ける。その手の隙間からは、真っ赤に染まったクマの両目が見えている。
やった、これであのクマはまともに見ることが出来ないかも。後はくろちゃんと僕がここから逃げ出せば……
ズゥン!
身を起こそうとした僕は、クマがそのまま四つん這いに戻った事で再度、地面に磔にされた。ダメだ、これじゃあ逃げられない。
でも、これなら……クロちゃん、は……逃げ……
「いやあぁぁぁぁぁぁっ! ヒカ君を放せ、はなせえぇぇぇぇぇ!」
バシバシとクマの体を叩く音と、彼女の悲痛な叫びが耳に入った。
―じゃあ、ヒカ君が私と一緒につよくなればいいんだよ。私も守られるばっかじゃ嫌だから―
あはは、馬鹿だな僕は。くろちゃんがそんなんで逃げるわけないじゃないか……
意識を手放そうとした時、僕の左肩に再度、強烈な痛みが走って、意識を覚醒させられた。
「グウォルルルル……」
さっきと同じ所を咬まれているんだ、多分血の臭いを辿ってここを狙われたんだ……
もう、ダメ、か……
―おっどれがあぁァァァァァァァ!!! このクソ熊があぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!―
僕の意識を呼び戻したのは、いつも一緒に旅をしてきた、頼もしい大人の男の人の、今まで聞いたことのない、怒りの叫びだった。
◇ ◇ ◇
全力疾走でスタジオの前まで走り、滑り込むようにして自動ドアの前に止まる。開き始めたスキマに身をねじ込むようにして部屋に入ると、猛然と獣に向かって走りゆく。
誰に、誰に! 貴様は誰に、噛み付いてるんじゃあぁぁぁっ!!!
体当たりをするように熊にぶち当たり、拳銃を握り締めて銃口を突きつける。それでもこの熊公は意に介さず、噛み付いたヒカル君の体を揺さぶり続ける。その目は真っ赤に血走っており、どこか狂人の様相を呈していた。
「どこ見てんだ、この野郎が!!!」
その真っ赤な目に銃口を押し当てる。それでも熊は全くこちらに意識を向けない。ならそのまま無視しているがいい!
バァンッ!
引き金を引いた瞬間、私の右手と熊の顔が、同時に弾け飛んだ。
「グフッ、ブフォーーワッ」
眼球に銃弾の直撃を受けた熊は、さすがにヒカル君を放して横転し、もんどりうって一回転してうつ伏せの状態になり、激しくうなり声をあげて……
「グホーッ」
次の瞬間、猛突進した。
私の方でも、ヒカル君の倒れている方でも、くろりんちゃんがいる所でもなく、なにも無い方向に向かって!
―ガッシャアァァァァン―
部屋の窓に激突し、ガラスを粉砕して動きを止める、そこで暴れまわる事で、割れたガラスが次々に突き刺さり、そこから血を吹き上げて行く。
「目が、見えて無いのか」
あの目が真っ赤だったのはそのせいだったのか。地面に倒れたヒカル君の右手の指は、真ん中の三本があらぬ方向に折れ曲がっていて、その先に血が付いていた。
そうか、空手の『目突き』を使ったのか。
「くろりんちゃん、ヒカル君を頼む!」
「あ……はいっ!」
半狂乱だったくろりんちゃんも、私の言葉でようやく正気に戻ったのか、ヒカル君に駆け寄ってすがり付き、涙声で彼の名を叫び続ける。
「ヒカ君、ヒカ君、ヒカ君っ、しっかり、しっかりして、ヒカ君っ!!!」
私は拳銃を握ったまま、窓枠に挟まって動けなくなった熊に歩み寄る。パニックは収まったのか、ガラスで傷付いた手の平をベロベロと舐めていた。
「バカ、モンが……」
目の見えていないクマの耳元に銃を突きつける。この小さな拳銃ではそうそう熊を仕留めることは出来ないだろう。だが、耳の穴から脳に打ち込んでやれば絶命は免れないだろう。
-パン、パン、パン、パン、パンッ。……カチッ、ガチッ―
ありったけの弾を撃ち込んでやる。一発撃つたびにクマはその巨体を震わせ、手足をばたつかせて抵抗する。窓枠に体を挟まれていなければあるいは私が危険だったかもしれない。
最後の一発を撃ち込んだ時、熊は大きな痙攣をおこし、やがてそれも収まると、体から獣臭の塊のような湯気を出して、完全に動きを止めた。
振り向きたくなかった。熊を仕留めた感慨に浸っていたかった。私の不用意な行動で、大切な少年を守れなかった事実と向き合いたくはなかった。
でも、私が動かなきゃダメなんだ。
振り向いて地面に横たわる二人に正対し、彼に覆い被さって泣き崩れるくろりんちゃんの肩に手を置き、半ば強引に彼女を引きはがす。
吐きそうになった。懸命にそれを飲み込んだ。
噛まれた肩からは未だに血が流れており、ときたまスポイトの水のようにぴゅっ、と勢いを増す。上半身は左肩を中心に血まみれで、左脚は太ももからねじれ曲がっていて、内出血からか青紫色に変色していた。
「ヒカル君、しっかりしろ! 気を確かに持つんだ!」
彼の頬を手の平でサンドイッチして、大声で呼び掛ける。
「あ……湊、さん。よかった、無事、で」
薄目を開けて苦しそうにそう呻く、それを聞いたくろりんちゃんが、転びそうになりながらも傍らに飛んでくる。
「ヒカ君、ヒカ君っ!しっかり、しっかりして!」
「くろちゃん……良かった。ケガは、ない?」
その台詞に私は、吐き出すように慟哭を発した。今の君がそれを言うのか! あの横浜からどれだけ成長して、この猛獣から好きな女の子を身を呈して守るまでに……
「うん、うんっ! ケガなんてぜんぜん無いよ、ヒカ君が守ってくれたんだよ!」
「その通りだ! 君は本当に、凄い奴だっ!」
私の叫びの後、数瞬の静けさが部屋を覆っていた。それを破る、静かな言葉。
「そう、ですか。よかった」
達成感と、そして、あきらめの音を含んだ声で、彼はそう言った。
「湊さん! 急いでヒカ君を、病院にっ!……!?」
そんなものは、無いんだ。医者も、救急車も、手術道具も、この世界には。
「あ……あああ……」
くろりんちゃんがその可愛い顔を歪めて、涙をぼろぼろと落とす。そう、こうなってしまっては、もう……
「ヒカル君。いいか、よく聞きなさい」
私は覚悟を決め、静かに彼に向かって声をかける。
「これから君を、君のホイホイの中に入れる!」
「え?」
「……あ」
「だから君は、その中に世界最高の外科医と、最新式の医療施設を望むんだ」
そう、この「にんげんホイホイ」の中は、自分が思い描くものを作り出せる世界だ。なら、中に入って手当てを受ければ、あるいは助かる可能性が高いかもしれない。
「で、でもでも、そうなったら、もう、ヒカ君には……」
一瞬明るくなった後に、イヤイヤの首振りを見せるくろりんちゃん。そう、私たちはここまで頑として、ホイホイの中を拒絶して来た三人だ。そこにヒカル君を押し込むなんて、正直絶対にやりたくはない。だけど……
「ヒカル君。覚えているね、私の旅の目的を!」
「え、ええ……この、ホイホイに、されているひとを、たすけだす、って」
弱々しく返す彼に、私は泣きながらも笑顔を作って、拳を握って返答する。
「もし、その方法が見つかったら、私たちは世界の誰よりも早く、君を助け出す! 約束だ、絶対にだ!!」
その言葉にヒカル君が薄い笑顔を見せる。くろりんちゃんがしゃくり上げた後、涙をごしごしと拭って、うん! と大きく頷く。そして……
「だから、ゆびきりりげんまん、しよ!」
小指を立てて。ヒカル君の前に差し出した。
「……ぅん」
そう頷いた彼だが、その両手は動かなかった。左手は肩を咬まれ、右手はたぶん目突きのせいで指が折れている。
「私も混ぜなさい」
そう言ってヒカル君の左手を取り、出来るだけ肩に影響の無いように顔の前まで手の平を持って来ると、くろりんちゃんがそのまま小指と小指を絡ませた。
「「ゆーびきーりげーんまん、うそついたーらはりせーんぼーん、のーますっ」」
私が二人の手首を取って音頭を揺らし、二人は絡めた指先を嬉しそうに見ながら、歌を歌った。
こんな時でも、ヒカル君の歌は、とても上手だった。
「さ、急ごう」
致命傷とはいかないまでも、彼が重体なのは間違いない。感慨に浸って手当てが遅れたら一大事だ。私は彼の腰から背中を抱え上げ、くろりんちゃんは頭を抱き上げて彼のホイホイに連れ込む。
「じゃあ、行くよ」
彼の足から、彼のホイホイに入れて行く。ヒザ、腰、胸、そして肩まで彼の体が彼の『にんげんホイホイ』の中に入って行く。
「ヒカ君、私、待ってるね。いつまでも、いつまでも」
最後に彼女は、ヒカル君にキスをする。その頭をぎゅっと抱きしめると、ヒカル君は幸せそうな顔で、静かに囁いた。
(胸、顔に当たってるよ)
彼の全身が窓の中に入った時、砂嵐だった彼の映像が映し出された。そこにあったのは手術室のドアと、その向こうに見える何人もの名医らしき医者。ご丁寧に彼は台車付き担架に乗せられ、そのまま手術室に消えて行った。
そして、彼のウィンドウがすすす、と縮小して、スマホ大にまで小さくなると……
―その小さな画面は、再び砂嵐映像へと切り替わった―