第四十九話 熊
宮城県仙台市、”東北モリモリレィディオ”ビルのロビーにて。私達三人は眼の前に浮かぶひとつの小さなウィンドウを、愕然として見つめていた。
「そんな、狭間さんが、ホイホイに、どうして!」
「うそ……でしょ?」
二人がこぼすのも無理はない。今日落ち合うはずだった地元の高校生、狭間優君が、待ち合わせの場所であるここでホイホイに入ってしまっていたのだから。
画面の中で彼は、大勢の仲間たちと一緒に吹奏楽のコンテストに出場し、得意のトランペットを高らかに吹き上げている。でも、いつものように、ホイホイの向こうから音楽が聞こえてくる事は、無かった。
(ほんの夕べ、ここで会おうって約束していたのに……何故なんだ、狭間君!)
心の中で愚痴をこぼさずにはいられない。昨日の夜、彼とヒカル君たちは無線でのやりとりをしていて、今日のここでの再会をお互い楽しみにしていたはずだ。
その約束を破ってまで、彼はこのホイホイの中で、学友たちと共にコンテストに出場する事を選んでしまったのか……せめて二人と会ってからでも遅くは無いだろうに。
このスタジオビルは側面が全てガラス張りになっていて、一階のロビーもその隣にあるモリモリ第一スタジオも外から丸見えになっている。狭間君曰くそれがここのウリで、歩道を歩く人たちからもスタジオでお喋りしているアナウンサーやキャスターたちの様子を見ることが出来る、いわゆるオープンスタジオなのだそうだ。
だから、ここに浮いている小ホイホイはすぐに目についた。まさかと思って駆け寄ると、その中に彼は居た。
「なにか悩みでもあったんでしょうか……」
くろりんちゃんが不安そうに聞いて来る。思い起こせば彼はホイホイに入る前に人生最後の夢であった『富士山頂でトランペットを吹く』を実行しに来てて、私たちと出会ったのだ。
なら、もしかしたらもうホイホイに入るのを決めていたのかもしれない。でも年下のヒカル君とくろりんちゃんがホイホイに入らずに頑張っているのを知って、再会してしまったら決意が鈍ると考えて、その前に入っちゃったのだろうか。
「ツインソロ吹いてる……ひょっとして、彼女さん、かな?」
演奏会の途中、彼と一人の美少女が寄り添うようにして、金色のトランペットと赤紫のリコーダーのオバケのような楽器(オーボエと言うらしい)を仲睦まじく演奏している。確かにコンテストとはいえ仲の良さそうなその光景は、どこか寄り添う恋人同士を思わせる。
「会えなかったのは残念だけど、彼も向こうで幸せそうだから良しとしよう。どうせいつかはコッチに引き戻す算段なんだし、私たちはこっちでやれる事をやらないと!」
私のハッパに二人も「そうですね」と頷いてスタジオに向かう。まだちょっと残念そうではあるが、まだまだこの世界に仲間は大勢いる。狭間君の代わりに二人と仲良くなってくれる同世代の友人はきっといるさ、だから元気出せ!
「あ……これ、コード焼き切れてます」
ヒカル君がスタジオ内で、NHKtの放送を流す為の接続器のジャックコードを眺めて言う。なんでも電圧の使用が違うので耐圧のコードを使わないと持たないらしい。
どうやら狭間君はそれに気付かずに普通のコードを繋いで、昨日までは持ったが夕べあたりで限界が来たらしい。まさかそんな事ぐらいで自分を責めてホイホイに逃げたわけでも無いだろうけど。
「じゃ、私が買って来るよ。少し先に大型の電気店があったはずだ」
たかが電気コード一本で全員が移動するのも大袈裟だろう。お使いなら私が行って来るから、少しの間『ふたりきり』を楽しんでなさい。
「お願いします」
「気をつけてー」
二人の見送りを受けて中継車に乗り込み、電気店に向かう。うーんあの二人、まだまだナイーブな所があるけど大丈夫かな。いろいろとやりすぎなきゃいいけど。
電気店に到着。電気は来ていないけど入り口の自動ドアにカギはかかっていなかったので、力ずくでこじ開けて店内に入る。ほどなく目的のコードを入手してレジに向かい、その商品を頂戴した次第と私の連絡先を書いたメモを残し、店外に出て……
私の目にそれが映った時、全身の芯に悪寒が駆け抜けたのが分かった。
私の中継車、そのすぐそばに蠢く大きな黒い影! 知ってはいるが実際に野生のそれを初めて見た。
明確な『生命の危機』と共に!!
( 熊、 かっ! こんな都会の真っただ中に!!)
そこにいたのは私と同じくらいの体格をした、真っ黒なツキノワグマだ。明らかにこちらを見つけていて、ほんの二十メートルほど先から、鼻息を鳴らしながらゆっくりとこちらに歩いて来る。
(しまったっ! 拳銃は車の中だ!!)
思わず臍を噛む。ニュースなどであれがどれだけ危険な生き物かくらいは知っている。何しろ四国民にはお馴染みの土佐闘犬より遥かにでかい野生の獣なのだ、もし飢えたアレに襲われたら、人間などひとたまりもないだろう。
(どうする……戦うか、戦えるのか?)
もちろん戦って勝ち目など無い。だが逃げると間違いなく捕食意欲を掻き立てて襲って来る、死んだふりが悪手なのもよく言われる事だ。
野生動物の爪や牙は雑菌の塊で、一掻きでも喰らえば破傷風から致命傷にもなりかねない。猪の牙にやられて片足を切断した山の人の話も聞いている。まずい、まずい、まずいっ!!
(フッ、フッ)
「うわっ!?」
突然耳元で鼻息を聞かされて、私は思わず飛びのけぞった。なんだ、まさかもう一匹!? いつの間にか、私の真横に???
「んぁ?」
思わず変な声が出る。私の側にいたのは動物だが、熊ではなく鹿だった。私が熊に気を取られている間に何処からか寄って来たのか……捕食者である熊が目の前にいるのに、なんて無防備な鹿だ。
だがこれはチャンスだ。この鹿に気を取られているスキに車に逃げ込めば難を逃れられるだろう、鹿が走って逃げてくれれば間違いなく熊は狩猟本能からそっちに向かうはずだ。
だが、事態の推移は私の想像の、遥か斜め上を行った。なんと熊と鹿が私の前に居並んで、フンフンと鼻息荒く私に詰め寄り続けたのだから。
「な、何だ……お前ら!」
状況が完全に理解不能だ。コイツらはまるで飼われている動物が飼育員に餌をねだるように、争いもせずに私に鼻面を突き出して何かをアピールしている。
「ゴフッ、ゴフゥッ」
「ヒュゥ、ピュゥーッ」
首を私に、そして私の右後ろあたりにスイングさせながら唸り声をあげる熊と鹿。なにか私に「そっちを見ろ」とでも言っているようだ、警戒を解かずに彼らが鼻面で指し示している所をチラリと見る……
そこにあったのは、宙に浮く私の『にんげんホイホイ』だった。
ホイホイに映っているのは二人の銃を構えた男。ひとりは老練のマタギを思わせる爺さんで、もう一人は鋭い眼光でスコープを睨む、若きハンターを思わせる男だった。確か犬が喋る漫画で見たような二人だな……熊に襲われている私が、助けを求める為に見えた画面なのだろうか。
熊と鹿はそのホイホイに気を取られているのか……ならばと私はそのホイホイを二匹の前に移動させた。手を触れずとも動かせるホイホイはこういう時に便利……
「グワァルルゥッ!」
「クキィーッ!」
突然、熊と鹿が吼えた。鹿は角を突き出し、熊は牙をむいて私を威嚇する。ホイホイに目もくれずに私に詰め寄り、今にも襲い掛かってきそうだ。
まずい、と思い、私はすぐにホイホイを元の位置に戻す。すると二匹は大人しくなり、また鼻面で私とホイホイを交互に指し示す。
(……ひょっとして、『この中に入れ』と言っている、のか?)
そんなまさかの想像に、背筋がゾクリとざわめくのを感じた。何か? このホイホイを作った何者かが、動物の意思まで乗っ取って、私たち人間をホイホイに追い込もうとしている? そんな馬鹿な。
だが、私がホイホイに一歩近づくと、二匹は大人しくなり動きを止める。ホイホイの画面には二人のハンターが手ぶりで「早くこっちに来い!」とアピールしている。こいつらグルかよ!!
あ、と妙案が浮かぶ。私はウィンドウを操作して後ろに寄せ、後ずさりしながらそれを追いかけて行く。大きく円を描きながら、逃げて行くホイホイに付いていくように見せかけ、自分の中継車に少しづつ近づいていく。
動物たちもさすがに私の意図には気付いていない、時々ホイホイの方を見て、今にも入りそうなリアクションを示して警戒されないように、車のドアに近づき……
ガチャッ、さっ、バタンッ!
素早くドアを開けて飛び乗り、速攻でドアを閉めロックすると同時、ドカン! という衝撃と共に車が大きく揺れた。熊が牙をむいてガラスを引っ掻き、鹿がボンネットに角を突き当てている、明らかに怒っていた。
「残念だったな、あばよっ!」
エンジンをかけ、バックからハンドルを切ってターンし、駐車場から脱出して道路をすっ飛ばす。バックミラーに映る二匹の獣はものすごい勢いで追いかけてきたが所詮は獣、機械の速度と持久力に敵うはずもなく、ほどなく足を止めてこちらを見送り……
そして鹿は弾けるように熊から逃げ出し、熊も思い出したように鹿を追いかけ始める。
(な、なんなんだ、一体……)
運転しながら私は、この不思議な出来事に困惑するばかりだった。この大都会の仙台に野生の熊や鹿が現れた事にも驚きだが、そいつらがよりによって人間をホイホイに押し込もうとするなんて……
「あっ!!!」
そうだ、狭間君だ! 彼もひょっとして同じ目に遭ったんじゃないか?
あのスタジオは外から丸見えだ。だったらさっきの熊が彼を見つけて襲い掛かって来たとしたら、彼としても止むを得ずホイホイに避難したんじゃないのか?
アイツらの目的が捕食じゃなく、ホイホイ中に追い込もうとしているのなら、猶更に!
「まずい! ヒカル君、くろりんちゃんっ!!」
何てことだ、二人は未だに外から丸見えの、あのビルのスタジオの中だ! もし他にああいう熊が居たら、狭間君の二の舞になってしまう!
アクセルを目一杯ふかし、スタジオにすっ飛んでいく。まただ、あの徳島で家族の智美と里香をホイホイに食われた時も、私は油断して彼らから離れてしまった!
何度同じことを繰り返せば気が済むんだ! この大馬鹿野郎が!!
スタジオビルに到着すると全力でブレーキをかけて車を止める。助手席にあった拳銃をひっ掴んで、ドアを吹っ飛ばす勢いで開け放ってビルに駆け出す。
頼む、今度こそ、間に合ってくれ!!
スタジオの外の通路、そこに辿り着いた私が、ガラス越しに見たのは……
「やめて! 離れて、ばな”れ”な”ざーいいっ!!!」
泣き叫びながら、黒い大きな影に、マイクか何かのスタンドを必死に叩きつけているくろりんちゃんと。
「ゴルルゥッ! フッ、フシュウゥゥッ!」
背中を叩くくろりんちゃんには目もくれず、押し倒している人間の肩口に噛み付いている、大きな 熊 と。
その顔と肩を鮮血に染めながら、自分を組み伏せた熊に噛まれたまま、上半身を右に左に振り回される……
ヒカル君、だった。
全身が泡立つ。怒りと殺意が体の外と中から、私の全身を燃やし尽くす!
「おっどれがあぁァァァァァァァ!!! このクソ熊があぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」