愛を喰らう悪魔
「あなたのことが好きです。付き合ってください」
「ごめんなさい」
きっかけはオレの告白から始まった。
腰まで伸びた雪のような銀髪と、人の全てを見透かすような鋭い目つき。
女の名は早乙女 深雪。同じクラスの、容姿端麗で才色兼備な女生徒。なんでも小学生の頃から何人もの男に告白されていたとか。しかしそのことごとくを一瞬で振ったようで……まさに高嶺の花だそうだ。
周囲の人間は、今日も今日とて撃沈した男子が一人増えた、程度にしか思っていないだろう。実際に成功例がないのだから当然のことだ。
————しかし、だ。ここで彼女にとっての誤算だったのは、オレが1ミリたりとも諦める気がなかったというところ。むしろ、そうすんなりいってしまっては、オレの計画に支障が出てしまう。
オレは告白を断られて以降も、執拗に彼女に絡みに行った。
例えば放課後。
「今日は一人ですか? よろしければオレとお茶でも————」
「結構です」
あるいは昼休み。
「今日も一人ですか? よろしければオレとランチでも————」
「学校の昼休みをランチと呼ぶような人とあまり一緒に居たくないです」
あるいは授業中。
「今日もひと————」
「授業中です」
そんな感じで、どれだけそっけない態度を取られてもオレは彼女に近づくことをやめなかった。
そして、それがもはや日常として溶け込んでいたある日の放課後。
「今日も一人ですか? よろしければオレとお茶でもどうでしょうか?」
初めてだった。いつもいつも言い切る前に遮られていた言葉を、きちんと言い切れたのは。
「……いいでしょう」
初めてだった。彼女が、彼女をまっすぐ見つめるオレの視線から目を逸らしたのは。
「ですが、いつもいつも誘ってきますが、行くところはちゃんと決めているんでしょうね?」
「————もちろん」
そうして、頬を赤らめる彼女の手を引いて、オレと彼女は徐々に、徐々に愛を育んでいった。
○
「……」
ある日の夜、月に照らされる大樹にて、まばらに歩む人間を見つめていると。
「……なんだ、ラインハルト卿。また報告書を書きに来たのか」
ふと、背後から凄まじい悪寒を感じた。
実に不快で、不愉快で、気色が悪いその視線を浴びるようになってから、もう何年経つだろう。
「やぁやぁ、ルークくん。相変わらずキミは気配に敏感だなぁ」
振り向かずに声だけ飛ばすと、その者は愉快そうに笑いながら影から姿を現した。
「心配せずとも、もう貴様らの愛情を喰らう気などないというに」
「それはキミの理屈であって、我々夢魔の掟にはそぐわないんだ。ボク自身、キミがもうこちら側に寄ってくることすらないということはわかっているのだがね」
「……ふん。ご苦労なことだ」
これ以上の会話は煩わしいだけだ。
そう感じたオレは、意識を人間へと戻した。
しかし、その意思を読み取れなかったのか、はたまたオレの意思など気にしていないのか、ラインハルトは能天気に話を続けた。
「にしても……キミは本当に面白い悪魔だねぇ。人間が食事をしなければ生きられないように、ボクたち夢魔は愛を喰らわなければ生きられない存在だというのに……キミは現在進行形で人間の女と愛を育んでいる」
「……ずっと監視しているのならば、なぜわざわざ顔を出し、こうしてオレと会話をする? オレに近況を聞くのならまだしも、状況を把握してなお話しかける理由はなんだ? 嫌がらせか?」
「おぉ怖い。そんなに怒らないでくれよ。キミは知らないだろうが、キミが今もそうやって平穏に生き続けられているのはボクが上の者たちをうまく抑えているからなんだよ?」
「誰だろうと、殺しに来るのなら喰らうまでだ」
「おぉ……さすがは『親殺し』」
「……」
一瞬喰い殺そうか悩んだが、実際この能天気のおかげで、こうして何事もなく人間に紛れながらの学生生活を送れているのだろう。
恩など感じる気もないが、その分の慈悲はやらなくもない。
それに、ラインハルトの言う通りでもある。
オレと彼女が愛を育んだところで、そこに何かしらの終着点が見えることは決してない。
唯一見える終着点があるとすれば、それは彼女が最終的に、寿命だか病気だか、あるいは不幸な事故だかで死ぬという未来だけ。
その隣に、オレやオレの子どもなんてものがいる未来はありえない。
なぜか。
————オレが、いわゆる夢魔と呼ばれる悪魔だからだ。
俗に言えばサキュバス、インキュバスと呼ばれるオレたちは、大昔は繁殖のために対象者の理想の人間の形をし、利用するとされていたが、実際は少し違う。
オレたちは愛という感情を食べなければ生きられない生物なのだ。だから一つの方法として対象者の理想という幻覚を見せ、愛情を芽生えさせ、それを喰らう。そうすれば食欲を満たすことができ、おまけに繁殖もできる。一石二鳥の方法というわけだ。
愛情がイコール食物となるから、それはもちろん人間でなくともいいのだが、感情の動物というだけのことはあって、人間の愛情が一番腹が満たされる。もっと言えば、自分へ向けられる愛情が一番おいしい。だから、いつしかオレたちは人間の感情しか求めず、人間の愛情を自分へ向かせるための手段として幻覚を見せる魔術を覚えた。
「話しかける……話を聞く理由というならば簡単さ。ボクたちは愛を喰らうが故に、愛を知れない生き物。もちろん家族愛や親愛ならば、ある程度は理解できる。多少の馴れ合いは人間と同じくあるわけだからね……ただ」
と、言葉を止めたラインハルトは、目に入った恋人繋ぎをするカップルの前へ一瞬にして降り立って、
「————」
その男女の唇を瞬く間に奪い、即座にオレの背後へと戻ってきた。
「……あれ?」
「私、何して……」
男女はさっきまでの様子が嘘であったかのように、手を離し、どちらも戸惑った様子で何か言い合いを始めた。
それはそうだろう。愛情を奪われるとはつまり、その感情が生まれた全ての事象を喰らうということ。要するに、愛した者と関わった記憶全てが綺麗さっぱり消えるのだ。
「ああも脆く、喰われた程度で忘れてしまう主食に、キミは意味を見出そうと……いや、キミは既にあの感情が何かを理解している。定義としてではなく、概念としてではなく、感覚として、自分の胸の中にちゃんと持っている。それが知りたい、というのが話しかける理由なのだが……」
ラインハルトはオレの眼前へと浮遊し、笑みを消してさも真面目風に目を合わせてきた。
「悲しきかな、それは、その感情は、どうやらキミを餓死させることと同義らしい」
「そんなことはないだろう。適当にさっきのように愛を喰らえば、数は必要だが飢え死にはありえない」
「ほう? なら聞くが、最初はボクより身長の高かったキミが、どうして今はボクと同じくらいなのかな?」
「……」
監視は伊達ではないらしい。知らないところで喰っていると言うのは簡単だが、外見の変化は誤魔化せない。
「話しかけに来た、というよりボクは今日、忠告をしに来たんだ。『一刻も早く早乙女 深雪の愛を喰らえ。さもなければ近いうちにキミは死んでしまうだろう』と」
「貴様はそんなお節介焼きではないだろ」
「言っただろう? キミは愛情というものを感覚として理解している。言うなれば、重要なサンプルなんだ、キミは。夢魔ながらに恋慕、愛情を手にした、重要な……ね。だから、そんなキミを死なせるわけにはいかない。もしも喰らわないというなら、その時は刺し違えてても彼女を殺す」
「……は。まさか、監視役がここまで面倒な私情を絡めてくるとは思わなんだぞ」
「順序が違う。ボクはキミの言う面倒な私情を絡めたために、監視役になったのさ」
見つめてくる視線は本気で、迷いがなく、おそらくこれ以上躊躇えば、宣言通りコイツはオレに殺されると分かっていても、彼女を殺しにかかるだろう。既に信頼できる誰かにこの事を伝えて、研究を引き継いでもらう手筈も整えた上で。
「……」
「……」
悪魔特有の紅い瞳が交差する。
もし、今ラインハルトを殺そうとしたとして、これが正真正銘先手であれば彼女を守ることができ、かつオレの行動にとやかく言うヤツも一人消えることになる。
ただ……。
「……ッチ。いいだろう、交渉だ。最低限、オレはオレの命を守るための行動を行う。それは約束してやろう」
愚問だろう。こうして対談しに来た時点で既に後手。何も関与しに来ないだろうと読み誤ったオレの失態だ。
「————ふぅ。それは何より……。全く、キミの殺気は少々ボクの心臓に悪い……できればもう一生浴びたくないものだ」
「それは今後の貴様の出方次第だな。もしも約束を違えて彼女を殺そうものなら、オレは貴様らを殺す。一人残らず、だ。夢魔という存在をオレで最後にしてやる」
冗談ではないし、ラインハルトもそれは分かっているのだろうが、そこは違えるつもりがないからか、ようやくいつものうざったい笑みを貼り付けて。
「そこはご安心を。ボクはキミに生きてもらえればそれでいい。これはそのための交渉なのだから」
精一杯、その顔に見合わぬ本心を告げてきた。
「……全く、貴様のような変態との関係さえなければ、オレはもっと自由に生きれただろうに」
「おやおや、ボクは感謝しているよ? 我々のような感情とは少し遠い存在でも、ちゃんとした愛を持つことができるということに……人間で言うところの心なんてものがあるということに気づかせてくれた、キミという存在と関わりを持てて」
貴様のその執着も、十分心の存在を証明しているだろう。
そんな言葉を投げかけて、オレはラインハルトと交渉を始めるのだった。
○
彼女と付き合い始めて、早2年。
それは卒業も間近となった、雪が降り積もる冬の日。
「深雪」
雪と見間違えるかのような美しい銀髪をなびかせる彼女を呼ぶと、幸せそうな顔でこちらを振り返った。
「何かしら、龍二」
龍二……それは、オレが人間と関わるときにのみ使う偽名。
ルーク……ルーク……ルー……ルー……龍、といった具合に適当に語呂が似てそうなものを探して、それっぽい名前にしただけの、ただの文字の羅列。
だというのに、彼女に笑顔で呼びかけられると、オレは胸を締め付けられるような苦しさを覚えてしまう。
「……深雪にとって、愛ってどんなもの?」
「愛?」
唐突な問いかけに、深雪は訝しむ様子を見せる。
ジーッと、ゆっくり顔を近づけて疑う彼女。その仕草すら可愛らしくて、愛おしくて。
この胸の高鳴りは確かな意味を感じさせてくれる。
しばらくジロジロとオレの顔を眺めた後、深雪はふと笑みをこぼした。
「おかしなことを言うのね。あんなに何度も何度も口説いてきたあなたが、愛を尋ねるなんて。逆にあなたは愛を知らないの? だとしたら私、怒るわよ?」
「怒る?」
「当たり前じゃない。だって、それは私の愛があなたに伝わってないってことなんだから」
しかし、彼女の表情はちっとも怒っていなくて。
おもむろに彼女は手袋を外し、白くて、細くて、長い指をオレの手に這わせた。
「————冷たいわね。手袋くらいしたらいいのに」
「……深雪の手は、温かいね」
「手袋をしてたからよ」
しばらく深雪はそのまま手を重ねて、オレの手を温めてくれた。
その温もりが心地良くて。
手だけじゃなく、胸の中もぽかぽかとしてきて。
やがて、彼女は。
「————愛はね、二つで一つのものなの」
オレの手をぎゅっと、強く握った。
「たまに見るじゃない? 誰かが告白して、振られたらハートがパキパキって割れて、振られた図〜、みたいなの。私、あれは違うと思うの」
数秒、オレの指をいじったかと思うと今度は手を広げて、ボクの掌と彼女の掌を合わせる。
「愛は、こうやって二つを合わせて、ハートの形にしていくものなのよ。片方だけだと……いや、合わさっていないと、それは『恋』よ」
次に彼女は、自身の指とオレの指とを交差し始める。
「それでいて、愛は二人で育むもの。互いの良いところに触れて、互いの嫌なところにも触れて、それでも一緒にいたいって感じて、こうやって私とあなたを繋いでいく」
そうして恋人繋ぎへと落ち着いた時、彼女はその指に力を込めて、満面の笑みでオレの目の前にその手の形を見せつけた。
「どう? これが愛よ。それはもう、私はあなたの指をガッチガチに固定しているわ。それくらい、一緒にいたいの」
「……」
彼女の笑顔は、本当に眩しかった。太陽のように眩しくて、眩し過ぎて、夏も顔負けの熱さを身体で感じる。
優しくて、苦しくて、内側からもどかしい何かが溢れ出てきて。
この指を、離したくなくて。
「……私にとっての愛は、こういうものよ。こんなにぎゅってしてるんだから、さすがに伝わったでしょ?」
「……あぁ。これが」
この離れ難さこそが、愛なんだ。
好きも嫌いも知ってなお、こうして離したくない温かさを感じる……これこそが。
「深雪」
「ん? ————」
短く、彼女の名前を呼ぶと、純粋な瞳がオレの眼を射抜く。
誰よりも純粋で、人間的で、大切なことを教えてくれた彼女。
そんな彼女の唇を、
「……」
「んんッ……」
オレは、奪った。
強く、強く……彼女に負けず劣らずの力で、強く手を握り締めて。
オレは、彼女の愛を……喰らったのだった。
○
駆ける。ただひたすらに。
駆ける。ただ命欲しさに。
駆ける。ただまっすぐに。
「ッぐ!?」
しかし小さくなったこの身体は思うように動かず、何もないところで躓き転んでしまう。
早く逃げなければ。
ただの実験のつもりだった。
ただの好奇心だった。
ただ自分の心に従い、ただ親の持つ愛情を喰らっただけなのに。
『やめなさいッ! ルー————』
途端、目の前にいた母親は灰となって消えた。
それは、本当にやってはいけない禁忌だった。
どれだけ愛に飢えていたとしても、どれだけ腹が減って死にそうになったとしても。
同族殺しとなるその行為だけは、夢魔という悪魔全員においての、暗黙にして絶対遵守の禁忌だった。
それを知っていたからこそ、オレは一目散に家を出ようとしたのだが。
『どうした、兄貴?』
弟に、見つかってしまった。
それからは一瞬だった。瞬く間にオレの行動は夢魔全体に知れ渡り、最優先事項としてオレの抹殺が挙げられた。
必死に逃げ回ったものの、オレの住んでいた街は想像以上に広く、そこを出る頃にはオレは何十もの夢魔に愛を喰われてしまった。
「————ぐ、くそ……」
どれだけ走ったかは分からない。けれど街の門を正面突破したため、当然バレていて追手は来ている。
足を止めてはならないのに、急に小さくなってしまった身体に頭が追いつかず、また転ぶ。
あぁ……このまま死ぬのだろうか。
そもそもオレは、生きたいのだろうか。
ただ人間の愛を喰らい、生き永らえるのみの日常。
人間の寿命に当てはまらないオレたちは、ちゃんと食べてさえいれば何百、何千と生きられる。
しかし、そこに何か意味はあるのか。
オレたちは愛を喰って何がしたいのだ?
ただ生にしがみつくため? そのためだけに、オレたちはあの幸せそうな人間たちの表情を奪うのか?
毎日、生きる意味など分からずとも必死にもがき生き抜く彼らは、輝かしく、美しく、豊かだ。見ていて飽きないと思っていた。
辛い、嬉しい、苦しい、楽しい、悲しい、可笑しい。
様々な感情を抱き、時に絶望しながらも生きることをやめず、いつか来たるかもしれない幸せを想像して笑い、その幸福を掴んだ時は涙し……。
そんな彼ら彼女らが、オレは————。
『あなた、大丈夫?』
そんな風に、転んだ拍子に迷路へと迷い込んだ時だった。
小さな雪が、オレの斜め上を揺れたのは……。
○
季節は巡る。
何百、何千年も生きる夢魔にとってそれはもはや飽き飽きとする同じ景色の繰り返しでしかないけれど。
それでも季節は巡るのだ。
あれから1年が経ち、5年が経ち、10年が経ち……。
あの季節は、またもやって来る。
「……」
真っ白な部屋の中で一人、部屋と同化するかのような白い女性がいた。
お婆さんと呼ぶにはあまりに若々しく見えて、皺なんてほとんどなくて、白髪と呼ぶには少し違和感を覚える、綺麗な銀髪を携えた実年齢80代のその女性は、ゆらゆらと降りしきる雪を、懐かしげに眺めていた。
コンコンとドアの音が鳴っても、彼女は外から視線を逸らさない。
反応はなかった。それでも一人の男はその扉を開いてみせた。
「……」
「……」
開いて、ようやく彼女はこちらの方を見る。
この視線の絡み合いはいつぶりだろうか。
「……どなた、ですか?」
ゆっくりとした口調で、されどはっきりとした言葉を発する彼女。
「どうも。オレは……昔あなたに世話になった者、とでも思ってもらえれば」
花束を彼女のそばへ置いてから、近くの椅子に座る。
「えっと……具合は、どうですか?」
恐る恐る尋ねてみたものの、本当は分かっている。彼女がもう一ヶ月も保たないであろうことは。
「……」
けれど正直者で真面目な彼女は、口を開かずに空から降る無数の白球に眼をやる。
知らないやつに自分の状態を教えるのは嫌か。
そんな風に捉えようとした時、
「私には……会わないといけない人がいるんです」
「————」
彼女は何の前触れもなく、語り始めた。
「誰かは分かりません……顔も、名前も、何も分かりません」
何も知らない。
「けど、きっとその人は……春の陽気と共に現れて、勉強しか脳がなかった私に、その温かさを教えてくれた」
何も知りえない。
「夏の熱気を共に苦しんで、海に遊園地に花火大会に……夏をロクに謳歌したことがなかった私に、その楽しさを教えてくれた」
けれど、ふと横顔を見ると。
「秋の木枯らしに吹かれて、紅葉が散りゆく景色と共に……なんだか、甘くて温かい何かを食べさせてくれて……景色を楽しんだことがなかった私に、風情を説いてくれた」
その横顔は、何年……何十年と見続けてきた、
「冬の冷たい雪に凍えて、このまま何もかも凍ってしまうんじゃないかって、これから先暗くて冷たい将来しかないんじゃないかって震えていた私の手を……ぎゅっと、強く……強く、強く……握ってくれた」
オレがずっと見惚れ続けていた、笑顔が。
「愛して、いたのかな? 愛されて……いたのかな?」
目の前に。
「————ッ?」
もう、我慢できなかった。
オレは彼女の身体を優しく、割れ物を触るように大切に包み込む。
「小さい頃、暗い……真っ暗闇の世界にいたオレに、手を差し伸べてくれた人がいました」
これで最後……これで。
「その人はたぶん、ただ傷だらけだったオレを心配して、声をかけてくれただけ……。オレの、オレの心の奥底にある苦しみだとか、憎しみだとか、後悔を理解してくれたわけじゃ、絶対にない」
だから、今までの全てを……オレに愛を教えてくれた彼女に。
「けれど……偶然だろうと……何も考えてなかろうと、その人は苦しい時に優しさをくれた。たとえそれが本人にとって些細なことだとしても、オレにとってはそれだけで、愛するには……いや、恋するには十分の出来事だった」
愛を……伝えよう。
「ある春……恋焦がれていた彼女の、青春の全てをもらいに行きました」
何度も繋いだ手。
「ある夏……何をすればいいか戸惑う彼女を、思うがままに、笑顔にしました」
何度も重ねた唇。
「ある秋……寂しそうに木々を見つめる彼女に、風情ある楽しみ方を教えてあげました」
何度も愛を伝えて。
「ある冬……とても優しくて、芯のある彼女に大切なことを、何度も何度も教えてもらいました」
何度も忘れて。
それでも……彼女にとっての愛は、変わらなく大きく、強くて。
「愛されていました……とても。ずっと一緒に、いたかったけれど。ずっと一緒には、いられなかったけれど」
だから……ようやく。
「ずっと、一緒にいたかった。ずっと、ずっと……」
「……」
不意に、彼女の手がオレの背中に触れた。
抱き合うオレたちは、互いの顔を見ることはできないけれど。
「……そうなのね。だったら……うん。これは、正真正銘……愛、だね……」
やがてオレたちの手の力は緩まって、その手を繋ぎ合わせて。
「————龍二」
「————深雪」
幾度目かの、誓いのキスを。
「「……」」
長く、長く……今までの全てを、彼女に返すように……返すために。
あぁ……誰にも愛されないはずのオレを、愛してくれて……ありがとう。
長い、永遠にも思えた誓いを終えて……彼女が目を開いた時。
「龍、ニ……?」
そこには、誰もいなくて……。
代わりに真っ白な雪にも似た灰が、彼女を包むように積もっていた————。
○
「ほう。自分の抱いた愛を返せば、その愛された当人の記憶は戻る。それはボクたち夢魔の性質上、道理ではあるが……」
窓の外、凍えるほどの寒さをもろともせず、監視者は佇む。
「……愛は喰われても、消えるわけではない、か。今の事象はそう捉えるしかないね……それとも」
しかし、監視対象を失った彼には、もう特にそこに用はなく。
「あの二人の……いいえ。そこに全てを注ぎ込むことができるほど、道理など覆せるほどに、愛という感情は……人間にとって、いいや……生物にとって、特別な感情だ、ということなのかな……ルークくん?」
彼は今はなき、愛を喰らいながらに愛を抱いた悪魔を思い浮かべながら、雪の中へと消えていくのだった。