核戦争
連合軍占領下のベルリンに住む私の所にスイスの外務省職員だと名乗る男性が訪ねて来た。
彼は大戦中日本の大使館に勤務していて東京で知り合った、連合軍がノルマンディーに上陸する1年程前から音信不通になり現在も行方不明の兄の手紙を預かって来たとの事。
封筒の束を私に手渡しながら、日本が無条件降伏してからの混乱の為に帰国が遅れそれに伴い手紙を届けるのも遅れた事を侘びてから帰っていった。
私は年月が1番古い1945年5月と記載されている封筒を最初に開封する。
『弟よ喜べ、満州の実験場で世界初の核実験に成功した。
ジークハイル!
総統にこの事を報告出来ないのは無念だが、これでイワンやヤンキーに報復出来るぞ!
実験に成功する前から見切り発車で核爆弾の製造は始まっていて、日本軍は既に6個の核爆弾を手にしている。
ただ日本の陸海軍は核爆弾を搭載する爆撃機の開発に失敗している為、最大の威力を発揮出来る4トン以上の重さの核爆弾は製造できず、搭載量の大きな2式飛行艇に何とか搭載出来る物しか製造出来なかったが』
1945年6月の終わり頃に書かれた封筒を開封。
『沖縄陥落。
日本の陸海軍は起死回生の1手としてアメリカ本土爆撃計画を実行に移した。
固定武装等降ろせる機材を全て降ろし、乗員も操縦員や航法員等の操縦に必要な乗員のみが搭乗した2式飛行艇3機に核爆弾を搭載。
それの護衛及び熱料補給の為に核爆弾搭載2式飛行艇1機に3機から4機の重武装した2式飛行艇がつけられて、千島列島最北端の島からアメリカ西海岸に向けて飛び立つ。
そちらの方が新聞やラジオのニュースで詳しいだろうが、アメリカ西海岸の目標地に到達出来たのは1機だけ、世界で初めて核爆弾による都市攻撃が行われた。
残りの2機のうち1機はアリューシャン列島の沖合でアメリカ軍の戦闘機に捕捉され撃墜されたが、そこで核爆発したのが僚機により確認されている。
もう1機の行方は護衛機全てと共に不明だ』
1945年7月の封筒を開封。
『ソビエトが日本に攻めてくるとの情報を入手した陸海軍は、5月以降3個製造して計6個保有していた原子爆弾を分け合い、3個がソビエト軍が攻め寄せて来ると推定された進撃路の満ソ国境に埋められる。
1個はソビエトに原子爆弾の資料を渡さない為に、原子爆弾製造工場や関連施設が集まっている場所の中心に埋められた。
残りの2個は海軍に渡される』
1945年8月7日に書かれたらしい封筒を開封。
『昨日、アメリカが核による攻撃を西日本の各地に行った。
先に日本から核攻撃を受けたアメリカの怨みは凄まじく、サイパン島やテニアン島のマリアナ諸島だけで無く沖縄からも昼夜区別無くB29が飛来し無差別爆撃が行われている。
その最中、遂に、長崎、広島等多数の西日本の県庁所在地に核爆弾が投下された』
1945年8月10日の封筒。
『昨日、2度目の核攻撃が東京周辺の都市や陸海軍の基地や施設に行われた。
文字通り日本は焦土だ。
昨日はソビエト軍が参戦し満ソ国境を超えた。
此方は7月に埋めて置いた核爆弾を地上爆発させて出鼻を挫く。
満ソ国境に集結し国境を超えた数十個の師団や旅団全てが壊滅しているのを、強行偵察を行った偵察機が確認した。
工場や関連施設の中心に埋められていた核爆弾も起爆され、周辺住民や工員諸共吹き飛ばされ起爆地点に大きなクレーターがあるのを確認のため飛ばした偵察機の乗員が視認している。
海軍は核爆弾を日本海沿岸に退避させていた駆逐艦に搭載。
核爆弾搭載駆逐艦2隻をウラジオストクに突入させて核爆発させた。
半島から飛び立った偵察機が撮った写真には2個の核爆弾でウラジオストクの港湾施設が壊滅的打撃を受け、巻き添えになった出港の順番待ちの軍艦や輸送艦が10数隻沈没しているのが映っている。
昨日の夜雨に打たれたせいか体調が優れない』
2通目の1945年8月10日に書かれたらしい封筒。
『エンペラーが軍の上層部に対し、アメリカに無条件降伏するように促したらしい。
研究所施設長の中将が研究所内にある研究資料の焼却を指示した。
資料だけで無くウラン等の放射性物質を破棄する為、日本人の研究者や技術将校たちが研究所内を走り回っている』
1945年8月15日の封筒。
『日本がアメリカに無条件降伏した。
激怒したアメリカが日本に投下した核爆弾は約20個、それだけの核爆弾の放射能で汚染された日本の復興は大変だろう。
9日の夜降った雨が放射能で汚染されていたのか、それとも東京周辺に投下された核爆弾のせいなのか被曝した。
髪が抜け身体中に鬱血が出来鼻血が止まらない』
最後の封筒。
『私は祖国に帰る事は出来ない。
明日か明後日、遅くても数日後には死ぬ、死因は放射能被曝だ。
弟よ、核爆弾の開発実験に携わった者に相応しい末路だと笑ってくれ。
この手紙は他の手紙と一緒に、東京で知り合ったスイス大使館のドイツ系スイス人の大使館員にお前の下へ届けて貰えるよう頼むつもりだ。
さようなら』