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月曜日、店の前に新メニューの告知を貼り、カウンターにもフライヤーを置いておいた。客入りはいつもと大して変わらなかったが、大半の客がパスタを注文し、反応も上々だった。「ピザより美味しいわ」とある常連のOLは言った。
「こっちをメインにしちゃえばいいのに。」
考えてみましょう、と俺は笑って返した。同僚にも宣伝しておくわ、と言いながらそのOLはフライヤーを一枚取って帰った。なるほど、と俺は思った。
もしかしたら、探してる人間が向こうから店に来てくれることだってあるかもしれないな。
ランチタイムが一段落ついて、俺は少し不安になった。店としては上々だが、これで果たして笠置を殺した犯人に辿り着くことが出来るのか?考えてみれば、事故当日に怪我をしたとしても、軽い怪我なら治っているだろうし、そもそも、オフィス街で仕事をしている人間だという仮定が、どれだけの確立を含んでいるものなのか判らなかった。犯人は、たまたまあの日に限ってこのあたりを歩いていたという可能性だって限りなくあるのだ。そして、現場そのものがこの近くでない可能性だって。
片づけが終わって一息つきながら、まりにそのことを話してみた。
「もっともだけど、でも、こっちの可能性だって試してみる価値はあると思うわ。」
まりは力のこもった声でそう言って頷いた。そうだな、と俺は思った。もとより、そういうつもりの計画なのだ。俺はどこかで、あの二人の刑事ならきちんと犯人を見つけて捕まえてくれるだろうと思っていた。だから、これは俺なりの、笠置とのささやかな縁においての追悼のようなものだった。フライヤーはまだあまり減っていなかった。その後、数組の客をさばいてから店を閉め、表通りでフライヤーを配った。もちろん犯人は見つからなかったが、俺にはちょっとした収穫があった。ここにピザ屋があることを知らなかった、と言う若いサラリーマンやOLが結構居たのだ。
「もっと看板が上にあれば、みんなの目に付くと思いますよ。」
と、いかにも広告の仕事をしてそうな眼鏡の若者がそう忠告さえしてくれた。
「立て看板じゃ駄目なのか?」
「急いで歩いている人間というのは、自然に目線が正面を向くんです。だから、オフィス街などに店を出すなら、看板は目の高さにあるほうがずっと効果はあると思いますよ。まあ、僕の持論なんですけど。」
試してみるよ、と俺は約束し、握手を求めた。ありがとう、と俺は言った。今度食べに来ます、と彼は少し照れながら言った。
一時間ほど配っただろうか、次第に人通りもまばらになり、あたりも暗くなった。もうフライヤーなんか配る時間じゃなかった。俺たちは店に引っ込んだ。カウンターでコーヒーを飲んで身体を温めた。ふう、とまりがひとつ息をついた。疲れたかと尋ねると、小さく頷いた。
「でも、楽しいわ。うまく言えないけれど…出来る限りのことをしてる感じよ。」
そう話している途中で彼女の腹がぐうと鳴った。
「あら。」
「晩飯食ってくかね。」
「…お願いします。」
俺は一番簡単なピザを、まりに教えながら作った。まりはなかなか手際よく作った。料理をよくするようだな、と俺は言った。まあ、と彼女は答えた。
「男と住んでましたし、多少はね。」
「一人だと作らない?」
「あんまり。」
「こういう店で働いたことは?」
「三日だけ。ウェイトレスをしたことがある。」
「三日?」
高校生のころよ、と言い訳しながらまりは続けた。
「洋服を買うお金が欲しくて親を説得して始めてみたんだけど、嫌になってすぐにやめちゃったの。本当のこと言ったら馬鹿にされるから、一ヶ月くらいは頑張って働いてる振りをしてたわ。」
俺は笑って頷きながら、若い娘を雇う必要が出たときにはよく考えよう、などと考えていた。
店を出て、帰ることにした。昨日と同じように、俺の家までは二人だ。まりはしばらく鼻歌を歌っていたが、突然こちらを向いて、今夜はよく眠れそうだわ、と笑った。
「あれからあんまり眠れなかったから。眠る前に考え事を始めると、終わらなくなっちゃうのよね。」
判るよ、と俺は答えた。
「昔、本で読んだんだが、考え事をするときは明るいときにしなくちゃいけない、っていうのがあった。暗い中で考え事をすると暗い考えになるんだってさ。」
「それってほんとなのかしら?」
「どうだろうな。俺は最近あんまり考え事をしないからなぁ。」
「いっちゃえ!とかって…勢いでいく感じ?」
違うよ、と俺は笑った。
「あるとき判ったんだ、考え事は処理してもしなくても一緒だって。」
まりは難しい顔をしてひと時それについて考えたが、よく判らない、と言った。
「つまり、ある現象や問題に対して頭の中でどんな落としどころを設けたところで、それで納得出来るわけじゃない、とでも言えばいいかな。大事なのは、実際に動いて、どんなことが起こったのかって、それだけなんだ、ってことさ。」
うーん、とまりは頭を抱えた。
「判るような…判らないような、って感じね。」
正しく自分を全うすることだよ、と俺は言った。まりは吹き出して、こう言った。
「あなた、優しいおじいちゃんみたいだわ。」