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次の日、俺はコピーサービスの店に出向き、200枚ほどフライヤーを作った。なくなったらまた作ればいい。200枚の間になんらかのケリがつけば言うことなし。コピー用紙とはいえ、200枚集まると少し重かった。店のカウンターに置いて、一息ついた。今日やることはもう何も無かった。このまま家に帰ってもいいが、その前にここで昼飯を食うのもいいかな、なんて思った。味のチェックがてらナポリタンを作って、食った。悪くない、と俺は思った。少なくともサラリーマンの昼飯には充分だろう。一息ついて、店で出している粉で一人分だけコーヒーを作って飲んでいると、鍵をかけてあった入口のドアががたんと音を立てた。ドアの外にはまりが居て、どうしようかな、という感じで立っていた。俺はドアに行き、鍵を開けてやった。まりは狭い店の中をきょろきょろしながら入ってきて、ごめんなさい、休店日なのね、と詫びた。いいよ、と俺は言った。まりはカウンター席に腰をかけ、まだ片付けていない俺の昼食の皿を見て、なにを食べたの?と聞いた。ナポリタンだ、と俺は答えた。
「明日から店で出すんだ。」
うん、とまりは頷いた。俺は説明してやった。まりはひどく驚いたり、感激したりした。そして、手伝わせて欲しい、と申し出てきた。
「ランチタイムとフライヤー配り、手伝うわ。あと買物とか…。」
「だが、手伝いが必要なほど忙しくなるかどうか判らないぜ?」
いいの、お願い、とまりは言い張った。
「本当は私がしなくちゃいけないことだもの。あなたがそんなに考えてくれたんなら、私絶対にお手伝いしたいわ。」
俺はなんだか後ろめたくなった。正直言って途中から、笠置のことよりも明日からの営業のことが気になって仕方がなかったのだ。お金なんか要らないから、お願い、とまりは言った。彼女の懸命な様子を見てると俺はなんだか不安になった。彼女自身、どうしていいのかよく判っていないのだろう。そのときそのときでこうしたいと思うことをしているだけなのだ。家で一人で居ると、様々な考えがぐるぐると頭の中を回るのだろう―笠置のことを思って家でソファーに座っているよりは、探偵の真似事をしている男の店でウェイトレスの真似事でもしてみた方が気分がまぎれていいのかもしれない。いいよ、と俺は言った。ありがとう、とまりは俺に抱きついて喜んだ。夜と昼じゃ性格が違う女なのかな、と俺は考え込んだ。
「ねえ、私もパスタ食べたいわ。」
いいとも、と俺は言った。
「バジリコ?ナポリタン?カルボナーラ?」
たぶんカルボナーラだろうな、と思いながら俺は聞いた。案の定カルボナーラだった。まりはカウンターに手を突いて背伸びをして、俺の手元を見ていた。
「ねえ、ずっとお料理の仕事してるの?」
「ああ。こういう仕事しかしたことない。高校を辞めて、最初についた仕事がデパートの中にある小さなレストランだった。それからずっと、そうだよ。」
「どうしてピザのお店を?」
「もともとは友達の店で、俺は手伝ってた。そのころ景気が悪くなって、飲食業界は総倒れみたいになった。大手のファミレス・チェーンを別にすればね。友達は頭が良かった。オフィス街の近くに、ジャンク・フードよりも少しマシな食い物を出す店を開けばきっと困らないくらいには稼げる、って確信してた。彼は俺の味のセンスを気に入ってくれてて、それで誘ってくれた。二人で早くて美味しいピザを出すにどうすればいいか、あれこれと考えたよ。もう一五年は前になるのかな。」
俺は出来たカルボナーラをまりの前に置いた。わあ、と彼女は声を上げた。
「柔らかそう。」
すごく美味しい、と言いながら彼女は一気に平らげた。腹が減ってたのかな、と俺は思った。コーヒーも飲みたいというので出してやった。コーヒーも好評だった。
「あたしね、しばらくまともにご飯なんか食べてなかったのよ。無意識にそこらのものをつまんでいた感じ。ここに来て、美味しそうなパスタの香りを嗅いで、初めて気がついたの、すごくお腹が空いているって。」
それは良かった、と俺は笑った。
それから俺も自分の分のコーヒーをまた作り、彼女と明日からの打ち合わせをした。結局、俺と同じ時間に来て、俺と同じ時間に出るということで落ち着いた。合鍵や空き時間など、もろもろの理由からそうするのが一番収まりが良かった。じゃあ明日からよろしく、ということになって、片づけをして店を出た。必然的に俺の家まで、一緒に歩くことになった。
「ピザのお店を始めたあなたのお友達は、いまどうしてるの?」
「肺を悪くして、働けなくなった。この店を貰ってくれ、と俺に懇願して、五年前に死んだ。」
「…そう。」
「だから、閉められなくてね。困ってるんだ。」
「閉めたいのかしら?」
「時々ね…二日酔いの朝なんかに。」
ふふふ、とまりは笑った。