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窓の外は激しい雨  作者: ホロウ・シカエルボク
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6

それからしばらくの間は、俺たちはただ酒を楽しみに来ている知人同士のようにグラスを空けては時々どうでもいいことを少し話したりした。俺たち以外の客が何度か入れ替わり、そして居なくなった。そろそろ閉めるけど、片付けの間くらいは居ていいよ、とマスターが女に言った。ありがとう、と女は笑いかけた。マスターは少しだけ笑って頷いた。ビル・エヴァンスのボリュームが少し落とされた。女のグラスは四杯目だった。

「飲み過ぎちゃったわ。」

「送ってください、って言うのかい。」

俺がそう言うとふん、と女は笑った。

「あなた、出来の悪いボガートみたいだわ。」

俺は黙って三杯目を空けた。送らなくていいの、と女は言った。

「送らなくていいから、お願いをひとつ聞いてくれないかしら。」

「煙草を一本頂戴とか、そういうことなら。」

女は真面目な顔になっていた。なので、俺も茶化すのはやめて女の言葉を待った。女は瞳だけで、これはすごく真面目なお願いで、あなたにこんなお願いを聞く義理なんかないでしょうけどでも出来ればきいてもらいたいの、という前置きを語った。そして、その段階になってもまだ、彼女の顔にはそれを本当に口にするべきかという迷いがあった。無理はない。彼女の苦しみはまだきっと終わっていないのだろう。例えばそれは傷の痛みがすべて消えたとしても終わることはないのだ。

「彼を殺した人を探して欲しいの、あなたに。」


探してどうするつもりだ、と俺は聞いた。女は目を伏せて首を横に振った。

「判らない。苦しみから解放してくれてありがとう、なんていうつもりはない。ただ、そうね…私は、笠置から逃げることしか出来なかった。もっといろいろなことが出来たかもしれないのに、って、今になってよく考えるのよ。どんなに殴られても耐えるべきだったんじゃないかとか、何とかして病院に連れて行くべきだったんじゃないかとか。もっと優しくしてあげるべきだったんじゃないかとか…余りにも怯え過ぎていて、うろたえ過ぎていて、何もしないに等しかったんじゃないかしらって。そんなこと考えても仕方がないことは判ってる。もしも今から彼のためにしてあげられる最善のことが見つかっても、もう何もかも手遅れだってことも判ってるの。でも、私は彼のために何かをしたい、そんなことしか考えられないの。何日も何日も考えたの。本当は私にそれが出来ればいいんだけど…。」

女はとうとう耐えられなくなり、涙を流した。ハンドバッグからハンカチを取り出し、顔を隠しながら少しの間泣いた。それから、ごめんなさい、と詫びた。構わない、と俺は詫びた。

「俺がもしも君だったら同じように泣いたさ。」

「それ、慰めてるの?」

俺は肩をすくめて見せた。

「仕事は休めない。やれるとしたら店を閉めてからの数時間だ。報酬は何か成果があったらでいい。どうせ出来の悪いボガートぐらいのことしか出来ないだろうからな。警察が犯人を見つけたらそこでお終い。それでよければ。」

女はハンカチを持ったままポカンとした。

「やってくれるの?」

「最前列でこんなドラマを見せられちゃ断りにくいよ。」


成果なんか期待しないでくれ、とさらに念を押してから、俺は笠置の刺青の痕について聞いた。警察はそれについてどう思っていたのか興味があった。

「それについては、あたしもよくは知らないの。自分で彫って、誰かに消して貰ったっていうことくらいしか。」

関係あるのかしら?と女は言った。さあ、と俺は答えた。

「ただ、結構目立つものなのに刑事はそこにはまったく触れなかったんだ。もしかしたら重要視していないのかもしれない。だったらそこから調べてみるのもいいかもしれない―もうひとつ、笠置の心の病については警察に話した?」

「もちろん。」

俺は頷いた。話をしているうちに、俺の頭の中にはひとつの筋書きが生まれてきていた。あの二人の刑事も同じように考えただろうか?出来れば警察署に出向いてディスカッションをしてみたかったが、素人が探偵の真似事をして首を突っ込んでくることなど、彼らは快く思わないだろう。彼らの目に付かないように調べてみなければならない。あれこれと考えてみる必要があった。アルコールが抜けてから。今日はこれだけ、と俺はお開きの合図をした。

「せめてメモ帳を買ってからにしないと。」

女は笑った。そしてそのあと、小さな声でありがとう、と言った。


連絡先を教えておいてくれ、と俺が頼むと、女は店のナプキンにさらさらとボールペンで名前と電話番号を書いて渡した。まり、という名前だった。あなたの名前は?と女が言った。俺は名前を教えた。連絡先は店の番号を教え、店に直接来てくれても構わない、と言った。女は頷いた。そして、今日は奢らせて頂戴、と言って返事も待たずにマスターを呼んで金を払った。

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