5
女はするすると、首に巻いていた薄手のマフラーをほどいた。そこには青白い痣や、煙草の火を押し付けられたのだろう火傷があった。顔の傷はどうにか治ったんだけど、と女は無理な笑顔が凍りついたような表情のまま、話し始めた。
「いつ始まったのか、誰にも判らない。あの人はある建設会社の営業社員で…もと、ね。社長に賞状を貰うくらい業績は良かったんだけど、時々変なことを言ってたのよ。みんなが陰で俺の悪口を言ってる、とかね。まあ最初は、そういう人だから妬まれることもあるんだろうな、なんて考えていたんだけど、一月、二月経つごとになんていうか、異常なシチュエーションが増えていったのよね。面識のない人間に道端で通りすがりにいきなり言われたとか、公衆トイレに入っていたら個室の方から言われたとか。調子に乗ってんじゃねえ、みたいなことをぼそぼそっと言われるって。私、そのころにはもう問題は彼の方にあるって判っていたから、病院に行ったほうがいいわよって何度も忠告したの。そのたびに彼は笑って、そういうんじゃないから、って言ってたのね。まともだよって。自分じゃ判ってないみたいだった。しつこく言ってたら、お前まで俺を馬鹿にするのか、って怒り出すしね。どうにもならなかった。挙句に、彼は会社で喧嘩騒ぎを起こしてしまった。殴り合いよ。相手は上役だったから、即解雇された。最初からあまりウマが合わない人だったみたいね。でも彼は逆にスッキリしたみたいで、心機一転新しい職場で頑張る、みたいなこと言ってたんだけど…問題はそれから。職業安定所で隣に座った人が自分にケチつけてるとか、本屋のレジの店員が小声で何かを言ったとか、そんなことばかり言うようになっちゃって。そのうち外に出なくなっちゃったわ。そこからが地獄よ。結果的にあの人の矛先は私に向いた。台所を片付けながら鼻歌を歌っていると、後ろから突然殴られた。お前までそんなことを言うのかって、拳骨で何度も殴られたわ。倒れたら、蹴られた。顔は必死でかばったわ。私がもどしたところで、彼は正気に返った。大丈夫か、と彼は言った。私は黙っていた。思えばあの時、大丈夫って言うべきだったのかもしれないわね。だけど、ショックが大き過ぎて…。彼はうろたえて部屋を出て行って、夜中まで帰って来なかった。たぶん、どこかで飲んでたんでしょうね。その日からどんどん酷くなっていったわ。洗剤買っておかなくちゃとか、お塩どこへやったかしらとか、そんな独り言にまで彼は反応するようになった。さすがに殴りかかるようなことは余りなかったけど。私はもう口を開ける事が出来なくなって。息が詰まりそうだったわ。眠れなくなって、仕事も休みがちになった。電話をするときにも、彼に聞こえないところに行かなくちゃいけなくなった。救いだったのは、彼が飲み歩くようになったことね。酔っ払うと気にならないらしいの。だから毎晩出かけて行ったわ。一人になると、私はぽろぽろ泣いた。彼はもう私のことさえ信じてはくれないんだって。こんなに悲しいことはなかったわ。一人で居るより孤独だった。でも何とかなるかもしれないと思って、しばらくは一緒に居たの。朝目が覚めて、欠伸した途端に気を失うまで叩きのめされたあの日まではね。」
女はそこで一度言葉を切って酒を一口飲んだ。話が長くてごめんなさいね、と詫びながら。
「目が覚めたとき、彼は居なかった。外が暗くなっていたから、飲みに出かけたのだと思った。出て行こう。そう思って、痛む身体を引きずって最低限の荷物をまとめて、部屋を出たの。私の部屋なんだけどね。もうここには居られないって思った。信頼出来る友達に事情を話して、かくまってもらったり、ホテルに泊まったりした。一〇日ばかり経ったころだったわ。ホテルに帰ったとき、ロビーで呼び止められた。警察って優秀なのね。どうして判ったのかしら?ともかくそこで彼が死んだって聞かされたのよ。」
ふう、と女は息をついた。結婚はしてたのか?と俺は聞いてみた。恩は首を横に振った。
「自分が一人前になったらしようって、彼が言ってたのよ。今思えばその判断は正しかったわね。」
女は自嘲的に笑った。
「なぜ俺にその話を?」
女は一瞬驚いたように目を見開き、唇を歪めて笑った。
「そうね、どうしてかしらね…あなたが彼に最後に出会った人だからかしら。血を流してる彼の頭を抱きあげて、膝に乗せていてくれた人だからかしら。」
一応納得した、という風に俺は頷いて見せた。
「彼が死んでからようやく私は自分の家に帰ることが出来たの。部屋はめちゃくちゃだったわ。箪笥は倒されて、ソファーは引っくり返されて。ガラステーブルは割れて。私はすぐに掃除を始めたけど、まる一日かかったわ。でも辛くなかった。そういうのは全然…それまでの日々に比べたらね。」
女はそう言って両肘をカウンターに突き、握り拳を作ってその上に顎を乗せた。そして、喋り疲れたわ、と言って笑った。