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駆け込んできた救急隊員の衣服からは、雨の止んだ街に特有の、大人しい煙のような匂いがした。俺は窓の外を見た。追加されなくなった雨粒が、クラシックのコンサートの余韻のように静かに流れ落ちていた。手持ち無沙汰になった俺とマスターを余所に、隊員たちはてきぱきと作業をこなし、男を担架に乗せて運び出し、一人が戻ってきた。
「お知り合いですか?」
俺もマスターも首を横に振った。今日初めて来た客だ、とマスターは言った。たまたま隣に座っていたんだ、と俺は言った。なるほど、と形式的に隊員は言って、一礼して去っていった。ドアが閉まる音がひとつして、サイレンを高らかに響かせながら救急車は去っていった。その残響がすっかり遠くなると、急に静かになった。俺とマスターは、静寂を始めて目にしたもののように戸惑った。が、やがてマスターが口を開いた。
「雨は止んでいた。帰るなら今だよ。もちろん、飲みなおしてくれても構わない。どちらにしても、今日の御代は要らないよ。」
それは困る、と俺は反論した。
「それはそれ、これはこれだ。確かに騒がしい夜だったが、雨宿りも出来た。酒も美味かった。金は払うよ。」
いや、とマスターは首を横に振った。固い固い意思がそこには見て取れた。
「あんたがしてくれたことは、本当は私がやらなきゃいけないことだったんだ。たまたまだってあんたは言うかもしれない。だけど、私はこの店の経営者だ。この店で起こったことは私が片付けるべきなんだ。私は今日店主としてよく出来ていたとは言えない。そんな店主があんたのような人から酒の代金を貰うことは出来ないよ。」
判った、と俺は折れた。
「今日はご馳走になるよ。だけど、マスター少し頭が固いんじゃないのかな。」
マスターは唇を歪めて笑った。
「私はここで毎日ずっとビル・エヴァンスを聴いて暮らしているんだよ。」
それからあんた、と店を出る間際にマスターが俺を呼び止めた。
「左脚にあの男の血がついてる。もものとこだ。」
いいよ、と俺は言った。
「ジーンズってそういうもんだろ。」
店の看板には「The Last Waltz」と記されていた。
しばらくの間時計を見ていなかったが、もう午前様だろうことは判った。ほとんどの店が看板の灯りを落とし、遠くから聞こえる調弦の音のような常夜灯だけが狐火のようにともっていた。外灯が路面を照らしているあたりでは、波の亡霊のようなもやが立ち上って、周辺のビルの三階あたりで見えなくなった。「いつ」よりも「どこ」なのかを問いかけてしまう時間帯だ。ほとんどの人間が目を閉じている時間帯というのは、脳味噌はそんな問いかけを宿命的に発してしまうものらしい。そして、いいか、ここ大事なとこだぜ―そんな問いかけには、どんな気分でいるときだって答えようなんて考えちゃいけない。砂地に自分ですり鉢上の穴を掘って、蟻地獄を呼び込むようなものだ。ただのお茶目な比喩じゃない、人知れず死ぬことになる何かがそこにはある―絶対にある。
あの男はどうなっただろうか、そんなことを考えているとついさっきのことを思い出した。俺には彼が助かったとは思えなかった。生きているときから死んでいるみたいな男だった。痩せぎすで、洗髪を忘れたみたいな固い髪をして、ふらふらと揺れて。恨み言や泣言を並べ。しかもそれが、女に振られたせいだっていうじゃないか?やれやれだ、いい年をして。何か一言でも言葉を交わしでもしていれば、印象は違ったかもしれない。だが、それには少し間に合わなかった。あの男の死は俺が店に入った時点で仕上がっていた。悪酔いの―そこまで考えたとき、ある考えが頭をよぎった。俺は脚を止めた。
本当にやつはそれで死んだのだろうか?
例えば、毒を盛られていたとか、見えないところを派手に殴られていたとか、そういう可能性はないだろうか?
ははは、と俺は声に出して笑った。三文小説の台詞みたいだ、と思った。大して飲んじゃいないのにな、と頭を振って、その考えを閉め出した。もしもそんなものが病院で確認されたら、厄介事だって起こりかねない。どう考えたってあいつは運のないただの酔っ払いだった。そんな連中がすっころんであっさり逝っちまうことなんて、この街じゃ日常茶飯事ってもんだ。
あとは何も考えずに、マンションまでの道を歩いた。ささやかな酔いもすっかり覚めていた。エレベーターに乗り込んだ瞬間に眠気が来た。シャワーを浴びることは出来るかな。俺は自問した。浴びる、と身体は答えた。
「血だってついてるんだぜ。」
身体はそう主張した。そうだよな、と俺は思った。シャワーを浴びて、歯を磨いて、柔軟体操でもして、マザー・テレサの言葉でも読んで、十字を切ってから眠ることにするさ。