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mixiで以前書いたものを多少の手を入れつつupします。
カウンター・バーの片隅で酔い潰れた男のだらしなく伸びた右腕の手首の辺りには、自分なりのやり方でかなり強引に刺青を消した後があった。一昔前に流行った黒い合成革のコートを着たその男は、眠り込むまでは何事かを一人で呟き続けていた。ひどく陰鬱な、耳にしたものに醜悪な花の種を植え付けるような声だった。その頃には俺は、週末にも関わらずどうしてこの店がこんなに空いていたのかということを理解していた。おそらくその男は長いことここでこんな風に酒を飲んでいたのだろう。勢いのあるうちは近くに居たやつに絡んでいたかもしれない。(いつかは眠ってしまうだろう)誰もがそう考えて男が眠り込むのを待っていたが、生憎すぐに眠りにつけるほど彼のわだかまりは浅くなく、そのうち静かに飲みたいやつらのほうが諦めて出て行ったのだ。俺は店の中を見渡した。モノトーンで統一された、ビル・エヴァンスが流れ続けているバー。カウンターの隅に、一輪挿しに入れられてすまし顔の深紅の薔薇だけが、この店の大人しさに異議を唱えるかのようだった。カウンターの中で丁寧にグラスを拭いている、顔の半分以上が白い髭で覆われた老人は、俺と目が合うとすみませんね、とでもいうように小さく頭を下げて見せた。こんなことなんでもない、というように俺は微笑を浮かべて頷いた。ビル。エヴァンスは小難しい顔をして小編成のアンサンブルを神の粋まで高めようと緊張を楽しんでいた。今夜は酒を飲むつもりじゃなかった。ただ家に帰るために表通りを歩いていたら、激しい雨が降ってきた。ボブ・ディランが慌ててギターを手にしたくなるような激しい雨だ。閉じた商店の軒先に駆け込んで雨宿りを決め込んだが、雨は激しさを増し、店先の小さなテントの下では到底しのげないような有様になった。仕方なく一番近い明かりのついている店を探して飛び込んだ。急いでいたので店名すら確認出来ていなかった。だがきっと、ビル・エヴァンスの曲か何かだろう。窓の外の暗闇では、雨がまだタップダンスを踊っていた。俺はジャック・ダニエルをもう一杯頼んだ。あくまで個人的な意見として言わせて貰えば、ビル・エヴァンスは酒を飲みながら聴くのには適当ではない。自分がまだ未成年の頃、皆に内緒で大人ぶった服を着てどこかのバーで飲んだことがあるか?あるというやつは思い出して欲しい。いい感じに酒が回って注意力が散漫になるまでの、あの、誰かが自分のことを咎めるのではないか、というような後ろめたさ、ビル・エヴァンスを聴きながら酒を飲んでいると、俺はどうもそういう気分を思い出してしまう。窓の外を眺めながら俺は小さくため息をついた。やれやれ、この分じゃしばらく帰れそうもないな…。その時だ、隣で酔い潰れていた男が鞭で撃たれたみたいにびくんと跳ね上がり、テーブルのグラスを道連れにしてストゥールから転げ落ちた。厚手のカーペットのおかげでグラスは無事だったが、男は頭から落ちた。ごすん、と鈍い音がして、男が短く痙攣した。俺はストゥールを飛び降りて男の頭を起こした。マスターがカウンターから出てきた。
「大丈夫かな。」
たぶんやばい、と俺は答えた。
「頭から落ちた。救急車を呼んだ方がいいね。」
やれやれ、と首を振りながらマスターはカウンターに戻った。そして、電話を取り、救急車の手配をした。俺は男の呼吸を確かめてみた。酒臭い息がかすかに出たり入ったりしていた。さすがに、激しくぶつけたであろう後頭部に触れてみる気はしなかった。カーペットにはかすかに血が流れていた。なるべく男を動かさないように出所を探してみると、右の耳からだった。そんな男の頭を抱き上げているとうんざりした。そうしているのが適切なのかどうかも判らなかった。考えを変えようと俺は男の顔を観察した。歳のころは四五、六だろうか。病院で数日点滴を受けてよく眠れば、もう少し若く見えるのかもしれない。マスターがもう一度カウンターから出てきた。そして、カーペットに流れた血を見て少し顔をしかめたが、今はそれについて口にするべきではないと判断して、俺の前に片膝をつき、男の状態を確かめた。そして、ふー、と息を吐いて、立ち上がった。
「二時間悪酔いして他の客を追い出した挙句、これだ。女に捨てられたらしいよ。」
俺は首を横に振った。恋を失って、潰れるまで飲むのはいつだって男の方だ。女たちは男に捨てられたってこんなになるまで飲んだりしない。新しい男に誘われたときにぼろが出ないようにしないといけないからだ。
そのうち男が凍えたようにガチガチと震え始めた。止めてくれよ、と俺は思った。女に捨てられて、俺の手の中で死ぬなんて、そんな真似は。俺の願いが通じたのか、程なく救急車のサイレンが聞こえてきた。マスターが店の外に出て、こっちだと合図していた。半分開かれた男の目がぐるりと裏返って白目になるころ、救急隊員が駆け込んできた。