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「羊花さん、ありましたよ」
本屋の新刊コーナーの前に立ち、男は手招く。
彼の手にはハードカバーの本が一冊。羊花が好きな作家の新刊だ。
「これでしょう?」
「ありがとうございます」
羊花は両手で受け取り、大事に胸に抱く。
新刊なのだから、それなりの量が入荷されているだろうにも拘わらず、最後の一冊だった。
ジャンルも作風も万人受けするものではないけれど、コアなファンは多いのだろう。
(買えて良かった)
会計を済ませてから駅へ向かい、電車に乗る。
改造したバイクで大音量を響かせながら迎えに来る想像をしていたので、徒歩と電車での移動を提示された時、羊花は驚きつつも喜んだ。
それに羊花がチラチラと見ているのに気付いて、本屋にも寄ってくれた。その上、彼も本が好きだと聞いて、羊花の警戒心は下がった。相変わらず、羊花は危機感のない子だった。
「羊花さんはホラーがお好きなんですね」
座席の端っこに座る羊花の前に立ち、男は話しかける。ちなみに『ひつじちゃんさん』という訳分からない呼び方を止めてもらう為に、渋々本名を教えた。口調もタメ口で構わないと言ったが、これが自分なのでと丁寧に却下された。
「浅黄さんから、臆病で繊細な子と伺っていたので意外でした」
(ビビリって言葉を丁寧にオブラートに包むと、そんな感じになるんだな……)
半ば感心しながら、羊花は曖昧に笑った。
「怖いもの見たさってやつだと思います。あ、でもホラー映画とかお化け屋敷は苦手です」
「驚かされるのが苦手という事ですか」
どうやら羊花の簡単な説明で、彼女の特性を正確に把握したらしい。
目を丸くした羊花に、男は微笑む。
「小説なら、自分で加減も出来ますしね」
「!」
まさかそこまで言い当てられるとは思わなかったと、羊花は驚いた。
小説ならば、物語が進む速度も化け物の恐ろしさも、ある程度は羊花が決められる。ビビりでありながら怖い話に興味がある羊花が、丁度、折り合いを付けられるのがホラー小説という事だ。
巧みな描写に泣かされる事もたまにあるが、それはご愛敬で。
「ホラー小説というのも驚きましたが、その作家を選ぶのも意外です」
「読んだ事あるんですか?」
「ええ、何冊か。普段はあまりホラーを読まないんですが、この作家の作品は好きです。人間関係の描写が、生々しくて良い」
「!」
分かっている人だ、と羊花は目を輝かせた。
羊花の好きな作家は、ホラー小説を得意としている。
分かりやすい化け物は出てこず、日常の延長線上にある暗闇から、得体の知れない何かが這い出してくるような怖さがある。
ただ、それだけではない。
日常を侵食され、恐怖に逃げ惑う哀れな登場人物達の方にも、かなり癖がある。
最初はごく普通の善良な人間に見えるのに、話が進むにつれ、だんだんと本性を現す。実に人間らしい身勝手さと自己愛の強さを見せつけ、読者から同情心を奪うのだ。
(あの後味の悪さが癖になるんだよね)
「ミステリーも書いているんですが、ご存じですか?」
「もちろん! 実はあの作品からハマったんですよ」
食い付いた羊花の頭からは既に、男が警戒対象であるという認識が抜け落ちている。
「僕もそうなんです。ハードカバーで既に持っているんですが、持ち運べるように文庫も買ってしまいました」
男はそう言ってからカバンの中を探り、文庫本を羊花に見せた。目を輝かせた羊花は受け取って開く。
「ハードカバー版から変更されたところってありました?」
「ほぼ一緒ですが、表現がいくつか変わっていましたね」
会話を続けながらページを捲っていた羊花は、挟まっていた栞の存在に気付く。新しい本には不似合いな、年季を感じさせる栞だった。
しかも身に着けるもの全てが上質な男のものらしからぬ、何の変哲もない紙製。本屋のレジ横に『ご自由にどうぞ』と置いてありそうだ。
「羊花さん、何か気になることでもありましたか?」
「あ、いいえ。本、ありがとうございます」
何かが引っかかった気がしたけれど、羊花はそれを呑み込んだ。
栞を丁寧に挟み直してから、本を返す。
それから色んな小説の話で盛り上がり、一瞬だけ感じた違和感は気のせいとして処理される。
目的の駅に着く頃には、羊花はすっかり男に気を許していた。
溜まり場にしているバーへと向かう道中で、羊花はふと、男を見上げて思った。
(そういえば、この人、何者なんだろう)
今更だ。今更過ぎる。
しかも羊花は、男の名前すら知らなかった。
浅黄の関係者だという事は理解していても、男の風貌から、チームの構成員ではないだろうと勝手に判断している。
前世で読んだ漫画にも、男に該当する人物がいなかったのも理由の一つだ。
「羊花さん、少し宜しいですか?」
手招きされた羊花は、ほいほいと男の後ろを付いていく。
大通りから外れた細い路地には人影はない。更に少し奥に進むと喧噪が遠のいた。
「カバン下ろしてもらえます?」
「?」
言われるままにリュックを下ろし、向けられた手に預ける。
すると男は軽く目を瞠った。手を差し出しておきながら、本当に渡すとは思ってなかったと言わんばかりの顔をしてから、目を弓型に細めた。愛犬の失敗を目撃した主人のような、慈愛に満ちた苦笑だった。
「失礼します」
「え?」
ずぼっと、頭から何かを被せられた。
白い布に視界を覆われ、羊花は焦る。しかし羊花がパニックを起こす前に、再び視界は開けた。
「腕を通してください。そう、次はこちら」
指示通り袖に腕を通すと男は、羊花の乱れた前髪や襟元を甲斐甲斐しく手で直す。
パーカーのフード部分をすっぽりと被せ、一歩離れた彼は、羊花の頭からつま先までをじっくり眺めて、目を細める。
「はい。いいですね」
そう言って、満足そうに頷いた。
羊花が着ているのは、たぶん浅黄が購入した羊のアニマルパーカー。手渡されたマスクを手に固まっている羊花の前で、彼は眼鏡を外した。
カバンから取り出したワックスを少量手に取り、癖のない黒髪を後ろへと撫でつける。たったそれだけなのに、彼の纏う雰囲気はガラリと変わった。
「……!?」
羊花は衝撃を受けた。
男の変身に驚いたというより、その姿に見覚えがあったからだ。
(へ、ヘビだ……!)
「どうしました、羊花さん?」
軽く首を傾げる彼を、漫画の中で見た事がある。もっとも、その彼はこんな親しみやすい表情をしていなかったけれど。
「あ、貴方……」
「僕が何か? ……ああ、そういえば、名乗ってもいませんでしたね」
そう前置きをした男は、羊花へと向き直る。
「紫倉 睦巳と言います」
苗字の紫と、名前の巳……つまり蛇が表す通り、彼は『Zoo』のメンバーである。
漫画は主人公と仲間達の話が主軸である為、さほど出番はない彼だったが、その分、インパクトはあった。
滅多に怒らないせいか、一旦キレると誰にも止められない。派手に暴れまわるのではなく、陰湿に、執拗に、相手を追い詰める。表情の一切を削ぎ落したような彼のブチギレ顔は、漫画の中のキャラクターだけでなく読者をも震え上がらせた。
「本当に、どうしたんです。もしかして、具合が悪いんですか?」
伸びてくる手に、体が大きく震えた。
過剰なまでの反応に、紫倉は動きを止める。驚き顔の彼は、ゆっくりと瞬きを繰り返した。何かを確認するように、じっくりと羊花の挙動を見守り、すぅと目を眇める。
もう一度手を伸ばされて羊花は怯える。
けれど今度は、紫倉は動きを止めなかった。
羊花の肩を大きな手が掴む、その寸前。
後方から、誰かに抱き寄せられた。
ぽすんと細い体を、逞しい胸が受け止める。
きょとんとした羊花は、自分の腹に回った逞しい腕を見てから、視線を上げる。斜め下から見上げても、芸術品のような美貌。
鋭い眼差しを前方へと向けていた彼、黒崎司狼は、羊花の視線に気付いて表情を和らげた。
「遅い。どこで道草食ってた」
(羊が道草を食うとか、まんまだ……)
頭の片隅で考えるのはおそらく現実逃避だ。
「ほ、本屋さんに」
「そうか。欲しい物は買えたか?」
小さく頷くと、体を持ち上げられた。
子供のように片腕に乗せる形で抱き上げられながら、羊花は世間話じみた会話を続けた。さっきまでの空気はなんだったんだろうと考えながらも、口には出さない。羊花はそんな勇気、端から持ち合わせていないのだから。
「紫倉」
端的に呼んで、黒崎は紫倉へと手を突きだす。
紫倉は目を伏せ、溜息を一つ吐き出して、羊花のリュックを差し出した。受け取った黒崎は、大通りを目指して歩き出す。
「チーズケーキは何が好きだ?」
唐突な質問に面喰いながらも、背後が気になって振り返ろうとする。けれどそれを咎めるように、「ひつじ」と呼ばれた。
「振り返ると捕まるぞ」
「!」
喉がごくりと鳴った。
作中で紫倉は、ペンダントを壊されて激怒するシーンがあった。
小さなキューブ状のシルバーのペンダントトップの中身は、愛犬の遺骨。幸いチェーンが切れただけで済んだので、犯人は半殺しで許された。
紫倉が滅多に怒らないのは、物にも人にもさして興味がないからだ。
それ故に、数少ない気に入った対象にとんでもなく執着する。大切に、大切に仕舞い込み、傷付けるもの、奪おうとするものには容赦ない鉄槌を下す。
そんな彼を読者は『粘着ヘビ男』と呼んだ。
「ひつじ」
黒崎は、蒼い顔した羊花をじっと見つめる。
たっぷり間を空けてから、口を開いた。
「何食べたい?」
「…………バスチー」
絶対に振り返るものかと、黒崎の服を握り締めながら答える。
すると彼はふっと笑みを浮かべた。
「良い子だ」
怖いものには近づくなよと、機嫌良く続ける黒崎に、羊花は思った。
(怖いもの筆頭が良く言う……)
だが口に出す勇気のない羊花は、思うだけに止めておいた。