コミカライズ記念 SS
背後から影が差す。
気付いた羊花が見上げるのと、低い声が降って来るのはほぼ同時だった。
「髪、切ったんだな」
背の高い黒崎は羊花を覗き込み、まじまじと眺めた後にふっと表情を緩める。
甘く微笑みながら、ポンと頭の上に手を置いた。
「似合ってる」
トドメとばかりに耳元で、「かわいい」と囁かれた時の羊花の心情を10字以内で述べよ。
「『カッコつけんなウゼェ』とか?」
「悪意しかない」
項垂れていた羊花は、隣に座る浅黄を軽く睨む。
しかし浅黄は怯む様子もない。
「だって惚気話とか欠片も興味ないし」
「惚気じゃないんですよ!」
「えー? そうなのー?」
欠片も信じてないテンションの相槌に、羊花は苦虫を噛み潰したような顔になる。
ぶすっとむくれた羊花の頬を、浅黄は指先で突いた。
「拗ねないでよ」
「私は本気で悩んでいるんですよ」
ふす、と頬の空気を抜いた羊花は溜息を吐き出す。
「惚気にしか聞こえないけどなぁ」というのんびりした声が聞こえたが、鋭い目で一瞥すると、浅黄は両手を上げて降参と示した。
「真剣なのに」
「はい、はい。で? ひつじちゃんは、何を悩んでるの?」
「黒崎さん、あまりにも彼氏力が高過ぎません?」
「……は?」
浅黄の口から、唖然とした声が洩れる。
人を食ったような薄笑いがデフォルトな浅黄らしからぬポカンとした顔は、いつもより幼く見えた。
「……え、ひつじちゃんジョーク?」
「冗談じゃないですってば」
「えぇー……」
惚気じゃないという大前提で始まった話だが、蓋を開けてみれば、どう考えても惚気としか思えない内容だった。
浅黄が、うんざりと言わんばかりの呻き声をあげるのも無理からぬ事。
しかし、羊花は何処までも本気だった。
ちなみに冒頭の設問の正答は、『カレシがカレシ過ぎる』だ。
「だって、狡くないですか? あんなクールで硬派な顔しておいて、彼女が髪切った事に秒で気付くとか。ていうか髪切ったって言っても、毛先揃えただけですよ? 女友達だって気付かないものに何で気付くの!?」
羊花はワッと両手で顔を覆う。
「ちなみにオレも気付いたけどね」
「意外性ゼロなので割とどうでもいいです」
「酷くない?」
さっきまでの勢いを急に無くし、スンとした顔で返されて、今度は浅黄が拗ねた。
「浅黄さんは女の子の扱いに慣れているし、『髪切った?』なんて挨拶レベルでしょ? すれ違った女の子全員に言ってそうだし」
「オレへの偏見が凄い」
「でも黒崎さんがそんな事言うなんて、誰も思わないじゃないですか。だから重みが違うんですよ、重みが」
「あー、重みね。確かに総長はかなり重い男だよ」
「?」
浅黄が繰り返した言葉は、羊花のものと同じでありながらニュアンスに違いがあった。
でも羊花は深くは掘り下げず、そのまま流す。
気を取り直した羊花は、「とにかく」と話を続けた。
「些細な変化に気付いてくれた上で、誉めてくれて、しかも軽いボディタッチありとか……狡くないですか?」
「狡い?」
「彼氏として満点。恰好良すぎ」
「やっぱり惚気じゃん」
堂々巡りする会話に呆れて、浅黄は体勢を崩す。背凭れに体を預ける形で仰け反った彼とは反対に、羊花は背中を丸めた。
膝を抱えるように俯いた彼女は、小さな声で「そうじゃなくて」と呟く。
「追いつけない」
「……ひつじちゃん?」
空気が変わった事を敏感に察知して、浅黄は体を起こす。
覗き込もうとしても、羊花は顔を上げない。
「元のスペックが違うから完璧に釣り合うようになるのは無理でも、少しでも近付けるようにと思って、私も頑張ってるんですよ」
「うん?」
「髪型とか化粧とか服とか、あと料理と勉強もちょっとずつですけど」
「うん」
今時の女子高生としては珍しく、素に近い羊花の変化は分かり易い。
だからこそ彼女が悪戦苦闘しているのは、仲間内の誰もが気付いていた。
「でも全然、上手くいかない」
しょんぼりとした声と同様に、背筋が更に丸まる。
「服装だけでも大人っぽくしたかったのに、全然似合わないし。友達のシンプルな着こなしを真似してみても、私だとただただ地味なだけになっちゃうし」
くぐもった声で、ぽろぽろと弱音を零す。
「化粧も料理の腕も上達しないし、寝ぐせ直すのも下手くそだし、数学は平均点ギリギリだった」
ヤケクソのように全部吐き出す羊花に、浅黄は苦笑した。
好きな人の隣に立つ為に頑張っても、中々、結果に結びつかない。
そうしている間にも、相手はどんどん魅力的になっていってしまう。
気持ちが急いても、具体的にどうしたらいいか分からない。
そんな恋する乙女の焦燥感を、浅黄はきっちり把握した。
「つまりひつじちゃんは、総長に置いていかれたくない訳だ」
「……そうです」
「そんなに焦らなくてもいいと思うけどなぁ」
しょんぼりした羊花の後頭部を、浅黄は慰めるように撫でる。
「時間はたっぷりあるんだし、自分のペースでいいんじゃない?」
「そうですかね?」
「そうだよ。てか置いていかれるかもなんて、思わない方がいい」
「! ……そうですね。黒崎さんは、そんな人じゃないです」
ハッと何かに気付いたような顔をした後、羊花は悔いるような表情になる。
良い話になりかけている事を察知して「そういうじゃないんだけどなぁ」と呟いた浅黄の声は、羊花の耳には届かなかった。
浅黄の言葉をより正確に表すならば、『置いていかれるかもなんて甘い考えは捨てた方がいい』だ。
仮に彼女の心が折れて座り込んだとしても、黒崎は抱え上げるだろう。もしくは寄り添い、その場に止まる。離れるという選択肢は、おそらく無い。
良い話かと聞かれたら、浅黄は否と答えるだろう。寧ろ怖い話だ。
毛先を揃えたのに気付いた事だって、好きな男の言葉だから嬉しいのであって、特に何とも思わない相手からだったら感じ方も違っただろう。
些細な変化も見逃さない程に見つめられているというのは、喜びか、恐怖か。
「私のペースで、頑張りますね」
浅黄の薄暗い思考に気付かず、羊花はへらりと笑う。
小動物めいた愛らしさに浅黄が伸ばした手は、触れる寸前で叩き落とされた。
ギロリと鋭い目で睨まれる。
「触るな」
いつの間にか傍らに立っていたのは、もちろん黒崎で。
低い声で威嚇された浅黄は、またもや降参の意を、両手を上げる事で示した。
唸る狼みたいな顔つきだった黒崎だが、羊花に向き直ると一転、柔らかな表情へと変わる。左手に持っていた皿を、羊花の前へと置いた。
「ほら、ひつじ」
「あ!」
喜びが詰まったような表情で、羊花は小さな歓声を上げる。
白い陶器の皿の中央に鎮座しているのは、小さな王冠型の焼き菓子。フランス南西部発祥で、正式名称はカヌレ・ド・ボルドー。
素朴な味わいに反して、中々に手間のかかる洋菓子である。
「食べたかったんです。嬉しい」
「ん」
短い返事ながらも素っ気なく聞こえないのは、でろりと甘い眼差しのせいだろうか。
菓子を食べてもいない浅黄だが、胸焼けしそうだった。
ちなみに羊花が食べたかったカヌレが丁度出てきたのは、偶然でも以心伝心でもない。
以前、動画を見ていた羊花がポツリと零した『美味しそう』という一言を、黒崎がきっちり拾った為だ。
蜜蝋やバニラビーンズ、ラム酒など、材料は最高品質の物をわざわざ取り寄せ、何度も試行錯誤を繰り返し、納得がいく仕上がりになったのが昨日。
そして前日から生地を寝かせ、ようやく今日、焼き上がった。
可愛らしい見た目からは想像つかないほど、あのカヌレは重い愛が込められている。
「んー! 美味しい!」
「大丈夫、ひつじちゃん。胃が重くない?」
「え、胃凭れなんてしてませんよ?」
菓子が出来るまでの経緯を知っている浅黄が心配しても、羊花はまるで分かっていない。きょとんと目を丸くして、首を傾げる。
「ひつじ、ついてる」
「あ、ありがとうござ……、ちょ、黒崎さんっ!」
頬についた欠片を指先で取ったかと思うと、黒崎はそのままぱくっと食べてしまった。沸騰したように真っ赤な顔で怒る羊花に向け、にやりと笑う。
「『黒崎さん』じゃないだろ?」
「う……」
ほら、と促されて、羊花は狼狽した。
一旦は『シロくん』と呼べていた彼女だったが、だんだんと戻ってしまった。正式に彼女になったら、逆に恥ずかしくなってしまったらしい。
敬語と呼び方の変更を何度か指摘されているが、中々直らない。
「……えっと、……もうちょっと待って」
「しょうがねぇなぁ」
赤面し、俯く羊花を黒崎は蕩けるような顔で眺める。
それを見ていた浅黄は、思わず遠い目をした。
オレが胃もたれしそう、という彼の呟きは誰にも拾われる事なく消えた。




