3
学校の裏門の影に隠れながら、羊花は辺りを注意深く見渡す。
(いない……よね?)
帰宅する生徒で混雑している正門とは違い、周辺は閑散としていた。住宅街に抜ける細い路地に面しているだけの裏門は、普段から人通り自体がまばらだ。今も見える位置にいる人間は、行儀の良いレトリバーの散歩をしているおじいちゃんだけ。
羊花はほっと安堵の息を零してから、足早に駅を目指す。
背負ったリュックの中にあるスマホは、さっきから短いスパンで震えているが無視だ。
あの日断り切れずに交換してしまったメッセージアプリは、一日中嫌がらせのように通知を知らせてくる。一々確認するのが面倒で午前中いっぱい放置していた日は、アイコンの隅に三桁の数字が付いているのを二度見した。
そして可愛らしい羊のスタンプを連投しているのが、チャラッとした浅黄ではなく仏頂面の黒崎だと気付いた時は三度見した。
こんもりとした毛玉がさめざめと泣いているイラストは可愛いけれど、それを送っているのが黒崎だと思うと恐怖でしかない。羊花は見なかった事にして、そっと画面を閉じた。
閑話休題。
おそらく今も羊花のスマホを震わせているのは、十中八九、浅黄か黒崎のどちらか。いつもより更にしつこいのは、今日が金曜日だからだと思われる。
塾もない日なので、『Zoo』の溜まり場であるバーまで来いとか、迎えに行くとか書いてあるのだろうと羊花は予測した。そのうえで、冗談じゃないと憤慨した。
羊花の週末の自由時間は、羊花の為にある。
さっさと課題だけ終わらせた後は、奮発して買ったお高いココアを飲みながら、だらだらと動画を見るという自堕落で素敵な予定を立てていた。
誰がなんと言おうとも、羊花にとっては有意義で充実した時間の使い方だ。さして親しくないイケメン相手に気疲れするよりも、余程。
「あ、そういえば」
羊花はふと足を止める。
今日は確か、羊花の好きな作家の新刊発売日だ。確認する為にスマホを取り出した彼女は、メッセージアプリの通知数のエグさに顔を顰めた。
「うわぁ……」
ドン引きで呻いた声に、別人の声が重なる。
顔を上げると、道の先に男が立っていた。
羊花は思わず警戒するが、相手は自分の方を全く見ていない。スマホで誰かと話をしているようだった。
(こっち見てないし、あの人達の仲間じゃなさそう)
早々に警戒心を解いた理由は、羊花を全く気にしていないという点以外にもう一つ。男が、不良グループに所属していそうもない容姿をしていたせいもある。
一度も染めた事のなさそうな黒髪に、真面目な印象を受ける黒縁眼鏡。その奥の目は一重で細い。笑顔になると無くなってしまいそうな糸目だ。
長身痩躯で姿勢が良く、物腰は柔らかい。老舗のお坊ちゃん、という勝手なイメージを持ったが、良く見るとカバンや靴は明らかに上質の物で、意外と外れていないのかも、と羊花は思った。
(まぁ、いっか。どうせ私には関係ないや)
我に返った羊花は足早に歩き始めた。真っ直ぐ帰宅という当初の予定に少し変更を加え、駅前の本屋目指して。
楽しそうに会話する男の横を通り過ぎようとした羊花は、ぐっと腕にかかった負荷に、目を丸くした。
「ええ。今、捕まえましたよ」
はんなり、という表現が似合う声で男は言う。
和やかな雰囲気と口調に呑まれ、羊花の危機感は仕事を放棄していた。
頭が理解出来ていないまま、羊花は掴まれた手をぼんやり眺める。
己の手首を掴んだ大きな手を視線で辿り、男を見上げた。
眼鏡の奥の細い目が羊花を捉え、数度瞬く。
それから彼はにっこりと、口角を吊り上げた。
「『ひつじちゃん』さん、でいいんですよね?」
「っ!?」
ぶわっと全身の毛穴が開いたような感覚に襲われた。
目を見開いて固まる羊花を、男は楽しそうな顔で眺めている。
全身に冷や汗をかきながら、羊花は必死で考えた。
どうにか誤魔化して、逃げなきゃと。
「ひ……」
「ひ?」
「ひとちがい、です」
「人違い」
男は羊花の言葉を丁寧に拾い、繰り返す。
「『ひつじちゃん』さんではないと?」
男の問いに、羊花はコクコクと何度も頷いた。
実際、羊花はそんなへんてこな名前ではないし、と心の中で言い訳をする。
暫し考えるように斜め上辺りに視線を向けた男から逃げたいけれど、しっかりと手を掴まれたままなので敵わない。
せめてもの抵抗に腕を引っ張るけれどビクともせず。途方に暮れる羊花の前で、男は器用に片手でスマホを操作した。
「人違いとの事ですが」
そう言って男はスマホを羊花の方に向ける。
へ、と間抜けな声が洩れた。
眼前に突き付けられたスマホの画面には、端整な顔立ちの男が笑顔で映っている。
『やっほー、ひつじちゃん』
画面越しにひらひらと呑気に手を振っているのは、先日知り合ってしまったイケメン、浅黄壮馬。その左上に、間抜けな顔を晒す羊花が小さく映っている。
ビデオ通話に切り替えたんだと気付いた時には、もう遅い。
「ご本人で間違いないようなので、これからお連れしますね」
『よろしく。扱いには気を付けてね』
呆けている間に通話は終了し、スマホを仕舞った男は、「では、参りましょうか」と笑顔で羊花の腕を引く。
こうして羊花の自堕落で素敵な週末計画は、終わりを告げた。