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気が付いたら病院のベッドの上だった。
夢の中と同じ状況だったせいか、羊花は一瞬、今が夢なのか現実なのか迷った。
けれどすぐに、現実であると理解する。
すぐ傍の椅子に座り、沈痛な面持ちで俯いている兄は成長した姿だったから。
「お兄ちゃん」
「! 羊花……!!」
呼びかけると弾かれたように顔をあげ、くしゃりと顔を歪める。
兄の叫びにも似た声が聞こえたのか、両親も病室へと雪崩れ込んで来た。少し時間を空けて、主治医らしき医者も入ってくる。
けれど、羊花をここへ運んでくれたはずの人の姿はない。
「羊花、目が覚めたのね。良かった……」
「気分はどうだ? 痛いところはないか」
代わる代わる話しかけられ、羊花は「大丈夫」と笑顔を返す。
体は少し怠いけれど、頭はとてもスッキリしている。
家族との遣り取りがいち段落すると、医者と簡単な問診が始まった。
あとは検査をして問題がなければ、退院できるらしい。
医者が退室すると、家族は揃って羊花の世話を焼いた。喉が渇いてないか、何か食べたいものはないかと、普段は天邪鬼な兄さえもそんな調子だ。
今のところ欲しいものはないと羊花は答え、それから、ずっと気になっていた事を聞いた。
「シロくんは?」
羊花がそう言った瞬間、家族全員、驚愕の表情で固まった。
そんな顔をされるとは思わず、羊花も驚く。シロくんでは通じないのかもと考え、「私を病院に運んでくれた人がいると思うんだけど」と付け加える。
すると兄は顔を顰め、両親は顔を見合わせてから頷いた。
「羊花。もしかして貴方、思い出したの?」
そう切り出したのは母だった。
羊花が頷くと、「そう」と微笑む。心配しているようにも、安堵しているようにも見える笑顔だった。
「羊花は、彼に会いたい?」
「うん」
間髪入れずに返事をすると、兄の顔が益々しかめっ面になる。
「会う必要なんてない。またお前に怪我させて……」
「あ、喉渇いたなぁ。辰樹は父さんと一緒に、一階のカフェまで珈琲買いに行こうか」
「は?」
「いってらっしゃい。母さんと羊花の分のココアもお願いね」
父と母のコンビネーションに押し切られる形で、兄は退室させられた。
ぽかんと見送る羊花に母は、「いつまでもシスコンで困っちゃうわね」と苦笑する。
「彼が悪い訳じゃないって、辰樹も頭では分かっているはずよ。今は感情的になっているけれど、少しすれば頭が冷えると思うわ」
母の言葉に、羊花はこくりと頷く。
「でも黒崎君はたぶん、納得しないわね」
「え?」
「昔も今も、貴方が傷付いたのは自分のせいだって思ってる」
「違っ……、シロくんのせいじゃないよ!」
「そうね。彼はある女の子に好かれて、応えられなかっただけ。その子の敵意が貴方に向いてしまったのは、黒崎君のせいじゃないわ。……でも自分のせいだって彼が思いこむのは、私達のせいでもある」
母は悔いるような表情で、噛み締めるように言う。
「貴方が記憶を失くした時、私達は黒崎君に『羊花に近付かないで』ってお願いしちゃったの。私たちは羊花自身の気持ちも、黒崎君の気持ちも無視してしまったのよ」
「……」
羊花は何か言おうとして、結局は何も言えなかった。
羊花を守ろうとしての行動だというのは、分かっていたから。
「黒崎君はいつでも、全力で羊花を守ってくれたのに」
昨日、病院に駆け付けた両親に、黒崎は深々と頭を下げたらしい。
会わないという約束を破った事、また守れなかった事を淡々と説明し、言い訳一つしなかったと。
「彼はたぶん、もう貴方に会わないつもりよ」
「…………そんなの、ヤダ」
(まだ、『ごめんなさい』も『ありがとう』も言えてない。それに、一番大事な事も)
「嫌なら、今度は羊花から追いかけていかなきゃね」
「うん」
俯いていた羊花は、きゅっと口を引き結ぶ。
決然とした表情で顔を上げた。
それから羊花は色んな検査を受け、特に問題ないと診断された。
様子見でもう一日、入院している間に親友の萌絵がお見舞いに来た。
ドアを背に立つ萌絵は、泣き腫らした顔をしている。
腫れた目元は化粧で誤魔化していたが、充血した目でバレバレだった。
ぐっと口をへの字にした萌絵は、ツカツカと靴音も荒くベッドへ近付く。
すぐ横まで来ると、仁王立ちする。そして徐に、羊花へと手を伸ばした。
黙っていた挙句、結局は心配をかけてしまった自覚はあるので、一発くらい殴られても文句は言えない。そう覚悟を決めて、羊花はギュッと目を瞑った。
しかし、衝撃はいつまで経ってもやってこない。
その代わりにふわりと良い匂いが鼻孔を掠め、ぎゅっと柔らかな感触に包まれた。
「萌絵ちゃん?」
「……った」
抱き締められながら、羊花は戸惑ったように呼ぶ。小さな声で何かを呟いたが、羊花の耳まで届かない。
もう一度、羊花は呼ぶ。すると、くっ付いていた萌絵から、ひゅうと息を大きく吸い込む音が聞こえた。萌絵の腕に、一際強い力が込められる。
「また、間に合わなかったぁ……っ!」
「……!」
萌絵は声をあげて泣いた。
いつからか弱音を零さなくなり、相手が誰であっても毅然とした態度で立ち向かうようになった萌絵が、まるで幼子のように。
「絶対にもう傷付けないって……、守るって決めたのに……!」
内向的だった萌絵が変わったのは、きっと羊花の為だった。
それなのに気付かず、最悪な形で傷付けた。
(萌絵ちゃんは、あんなに何度も『何かあった?』って気に掛けてくれたのに)
「ごめん、ごめんね……私、全然役に立てなくて」
涙を零す萌絵と同じく、羊花の頬を涙が伝う。細い背中を抱き締め返しながら、必死に首を横に振った。
「私の方こそ、ごめん……っ! ちゃんと相談しなくて、ごめんなさい」
二人でわぁわぁと声を出して泣いて、日本語になっていない滅茶苦茶な言葉で謝りあった。落ち着いた頃には、様子を見に来た母が呆れるほど酷い顔になっていた。
母からペットボトルのミネラルウォーターを受け取って、二人して無言で飲み干す。じっとお互いの顔を見つめ、「凄い顔」と吹き出すタイミングも一緒だった。
「それにしても、羊花が面食いだとは知らなかったわ」
一息ついて、羊花の傍の椅子に腰かけた萌絵は、そう切り出す。
羊花はきょとんと目を丸くして、「へ?」と間の抜けた声を出した。
「黒崎さん、だっけ。倒れたアンタが処置を受けている時に会ったの」
鱒渕経由で連絡を受けた萌絵は、病院に駆けつけた。
そこで鱒渕と黒崎から、事の経緯の説明を受けたという。
砂川未愛が関わっていると聞き、萌絵が詰め寄ると、今後は絶対に羊花に近付かせないと言い切った。
遠方の母親が迎えに来て、精神科のある病院に入院する手筈となっている。退院したとしても、目を離さない、と。
「『二度も守れなかったオレが言っても信用はないだろうが、今度こそ守る』って」
恰好良いわね、と少し笑って言われても、羊花は笑えなかった。
今後も目を離さないって、いつまでなのか。
何十年もある人生全てを捧げるつもりなら、冗談ではないと羊花は思う。羊花の幸せと平穏を守ろうとしてくれるのは、有難い事だ。でもその対価が今後の黒崎の人生なら、羊花はそんな幸せいらない。
(それに……的外れだって分かってるけど、なんか『砂川さんから目を離さない』ってモヤっとする。私には二度と会ってくれないつもりのくせに)
恋する乙女の身勝手さで、羊花は心の中で愚痴った。
「不満そうね?」
「不満だよ。だってこんなに好きにならせておいて、遠くから見守っているから幸せになってねって……酷いよね。そんなの納得できる訳ない」
羊花が素直に気持ちを吐露すると、萌絵は目を瞠った。
次いで可笑しそうに破顔する。
「じゃあ、抗議しにいくの?」
羊花はこっくりと深く頷く。
「玉砕してくる」
フラれたら慰めてねと真顔で言う羊花に、萌絵は「拒絶されても諦めないって顔でよく言うわ」と呆れ顔になった。




