30
倒れた羊花は意識が戻るまでの間に、長い夢を見ていた。
当人の視点ではなく第三者視点で、ふわふわ幽霊みたいに俯瞰する羊花の視線の先には、小さな羊花がいた。
小学校の高学年……おそらく、十歳前後。
なにやら不機嫌そうな羊花が、家を出るところから夢は始まる。
膨れっ面をした羊花は、何かを言っている兄に背を向け「いってきます!」と少々乱暴に扉を閉めた。
たぶん、喧嘩でもしたのだろう。
駆け足で家から離れた羊花の目的地は不明だ。
(そういえば小さい頃は、しょっちゅう喧嘩してたな)
兄は昔から面倒臭い人間だった。
妹である羊花を構いたいのに、構い方が分からずに怒らせてばかり。
羊花も羊花で兄のあしらい方を知らなかったので、小さな事で一々腹を立てていた。
今も、喧嘩の理由自体は些細な事だと思われる。
でも積もり積もった不満が爆発して、子供の羊花には治め方が分からない、たぶんそんなところ。
怒りを発散するように駆けていた羊花は、ふと気付くと、いつもの行動範囲から外れた場所まで来ていた。
学区が違うので、友達の家もない場所だ。
馴染みのない場所で、羊花は急に不安になる。
来た道を戻ろうにも、やみくもに走ってきたのでよく覚えていない。
心細さを感じながらも、羊花は歩き出した。
そして辿り着いたのは綺麗な公園。
出来たばかりなのか、ベンチや遊具は新品同然にピカピカ。植え込みの花や木も整然とし、枯れたり折れたりしているものは一本もない。暇があれば悪ガキが集う、学校近くの公園とは大違いだ。
しかも人気も殆どなく静か。毛並みの良い犬を連れた上品なお姉さんが一人、羊花の前を通り過ぎて出ていった後は誰もいなくなった。
暫く立ち尽くしていた羊花だったが、恐る恐る中へと入る。
綺麗なものばかりで、何となく身の置き所がない。うろうろと彷徨ってから、滑り台と融合したトンネルの縁へと腰を下ろした。
狭くて暗い場所が落ち着くのか、ほっと息を零す。
(……あれ? そういえば昔は、暗い場所が苦手じゃなかったんだっけ)
今の羊花は暗い場所が苦手だが、小さな羊花はトンネルの暗さに怯える様子はない。マイペースにごそごそと、手に持っていた包みを開いている。
成長するにつれて苦手意識が消える事はあるが、逆もあるんだろうか。
「せっかく焼いたのに」
考え込んでいた羊花の意識を、小さな羊花の声が引き戻す。
開いた包みの中身は、手作りらしき不格好なクッキー。
『こんがりきつね色』のもう一段階、濃い色をしている。焦げたという程悲惨な色をしていないが、ちょっと焼き過ぎた感は否めない。
(あ、なるほど。お兄ちゃんの為に焼いたクッキーにケチをつけられて、拗ねてるところか)
今でも兄は、羊花の手作り菓子に文句を言う。焦げてるとか、パサパサだとか。
たぶん小さな羊花も、それに近しい事を言われたんだろう。
「お兄ちゃんなんか、もう知らない。クッキーもあげないんだから」
ぷんすかと怒りながら、羊花は摘んだクッキーを口の中に放り込む。
もしゃもしゃ咀嚼している小さな羊花に、今の羊花は言ってあげたい。
これからも貴方はクッキーを焼かされるし、うざいくらい絡まれるから、諦めた方がいいと。無視すると面倒臭さが増すだけだから、操縦方法を覚える方が楽だよ、とも。
口の中いっぱいになったクッキーを咀嚼し、飲み込む。
すると、背後から「ぐぅ」と小さな音が鳴った。
「……?」
暗いトンネルを振り返ると、視界に入るのは反対側の入り口だけ。
しかしじっと目を凝らしてみると、その途中、小さな影が蹲っているのが見えた。
「!?」
まさか先客がいたとは知らず、羊花は目を丸くする。
目が暗さにだんだん慣れてきて、その影が自分と同じ年頃の子供だと分かった。
そして、小さな音の正体は自分にも覚えのある『お腹が減った時に鳴る音』なんじゃないかなとも想像がつく。
手元の焼き過ぎたクッキーと、子供と。
羊花の視線がその二つの間を何度も行き来した。
クッキーは人に勧められる良い出来ではない。しかも兄にからかわれたばかり。
でもお腹が空いている事の辛さを考えると、羊花は見て見ぬふりが出来ない。
「……ねぇ」
思い切って羊花は子供に声を掛けた。
膝を抱えた子供の肩が、小さく揺れる。
数秒の間を空けて、子供が顔を上げた。
(……!?)
子供の顔を見た、大きな羊花は愕然とする。
長い睫毛に飾られた黒のアーモンドアイ、すっと通った鼻筋に、形の良い唇。小さな顔にパーツの全てが黄金比で配置されている。
幼いながらも将来の美貌を予測させる、端整な顔立ちだ。
サラサラの黒髪の間から覗く目は鋭く、警戒心の強さを窺わせるが、全体的に上品で、良家の子供といった印象を持つ。
信じられないくらい、綺麗な子供。
でも羊花が驚いているのは、そこではない。
(ちっちゃい黒崎さんだ……!!)
以前、羊花の頭にぽんと浮かんだ黒崎似の男の子。
記憶の何処を探しても見つからなかった存在が、今、ここにいる。
「……なに」
不愛想な声で、男の子……黒崎は応えた。
今の羊花なら尻込みしてしまいそうな態度だが、小さな羊花は気にしていない。両手でクッキーを黒崎に差し出す。
「食べる?」
羊花が聞くと、黒崎はふいと顔を背けた。
「いらない」
「なんで? お腹、減ってるんだよね?」
ストレートな問いかけに、黒崎はぐっと言葉に詰まる。
鋭い目が、羊花を軽く睨んだ。
「……他人の手作りなんて、何が入ってるか分からない」
羊花は目を瞬かせる。
予想外な理由でも、言われてみれば確かにとも思う。
他人の手作りが食べられないという人は、一定数いる。
羊花はお菓子作りの時に、髪が入らないよう三角巾をするし、捏ねる時はビニールの使い捨て手袋をする。
材料の賞味期限は確認するし、おかしなものは入れない。
それでも、嫌な人は嫌だろう。
分かったと頷いた羊花は、再び、もしゃもしゃと自分でクッキーを食べだした。
流石に口の中がパサつき始めて、飲み物が欲しくなる。
突発的に飛び出してきたので、お財布は家。ポケットに小銭入ってなかったかなと考えながら、羊花は粉のついた手を叩いた。
すると今度は、「くるるぅ」と子犬の泣き声みたいな、少し長めの音がした。
羊花はぴたりと動きを止める。
ゆっくり振り返ると、小さな黒崎は膝に頭を押し付けて小さくなっていた。
恥ずかしいのか、悔しいのか。
(どっちにしても可愛いな)
大きな羊花は微笑ましくて、にまにまと顔を緩める。
小さな羊花は困った顔で思案して、ぽりと頬を掻いた。
「えっと……お菓子作る時は手袋してるし、プレーンだから薄力粉とバターと砂糖と牛乳しか入ってないよ」
もう一度小さな声で、「食べる?」と問いかける。
すると羊花の何十分の一くらい小さな声で「食べる」と返ってきた。
おずおずと伸びてきた手が、一枚摘む。
型抜きクッキーの猫は欠けて、耳が片方しかなかった。
少し躊躇ってから、黒崎はそれを口の中へと入れた。
サクリと軽い音が鳴る。サクサクとリズミカルな咀嚼音が続き、一拍遅れで黒崎の目が丸くなる。
やっぱり焦げているのかと焦る羊花を放置して、黒崎はまたクッキーへと手を伸ばした。
サクサク、もぐもぐと無言で食べ続ける黒崎を、羊花は呆気に取られながら見守る。
見つめられている事に気付いた黒崎は我に返り、手を止めた。
「……ごめん」
「? なにが?」
「食べ過ぎた」
黒崎は頬を赤らめ、恥ずかしそうに呟く。
羊花はきょとんとしてから、小さく笑った。
「気にしなくていいのに」
「でも」
「遠慮しないで、もっと食べていいよ」
そう羊花が言っても、黒崎は手を伸ばさない。
じっとクッキーを見ているから、満腹な訳ではないだろうに。
少し考えてから、羊花はクッキーを一枚掴む。
「ほら、あーん」
「!?」
口元にクッキーを差し出され、黒崎は固まった。
顔がじわじわ赤くなっている。
(うわぁ……何しているの、わたし)
大きな羊花は頭を抱える。
たぶん羊花のアレは、場の空気を和ませる為のちょっとした悪ふざけ。断られる事前提の、軽い冗談だ。
兄がたまに仕掛けてきて、羊花が怒るまでがワンセット。それを真似しただけ。
でも、考えてほしい。
相手は同じ年頃で、且つ、悪ふざけに馴染みがなさそうな上品な男の子だ。
どう考えても困るだろう。
案の定、黒崎は赤い顔で悩みながらも、羊花を無下にする事が出来ずにいる。
微妙な空気にようやく気付いた羊花も焦り出した。
「な、なん……」
「あ」
なんちゃって、と笑い飛ばそうとした矢先。
覚悟を決めた黒崎が口を開く。
「……」
赤い顔で目を伏せ、口を開けて待つ黒崎を見て、羊花は無言のまま悟る。
ここで『なんちゃって』と笑い飛ばせば、目の前の男の子の心を折るだろう事を。
恥ずかしいのを我慢しながら、羊花は黒崎の口にクッキーを差し込む。
彼がサクサクと食べている間、とんでもなく気まずい沈黙が二人の間に流れた。
二人揃って、赤い顔して黙り込む。
困り果てた羊花は、黒崎の顔をちらっと覗き込んだ。すると同じタイミングで様子を窺っていたらしい黒崎と視線がかち合った。
「っ……、えと、その……美味しい?」
どうにか絞り出した問いかけに、黒崎は目を丸くしてから、少しだけ口角を上げる。
「……ん。美味い」
緩い笑みは、成長した黒崎の笑顔と重なって見えた。




