29
くしゅん、と何回目かのくしゃみが室内に響く。
「羊花ちゃん、寒い?」
「大丈夫」
ずず、と鼻を鳴らしながらも羊花は首を横に振る。
実際には全く大丈夫ではない。いくら本格的に寒くなる時期が先とはいえ、日が沈めば気温は落ちる。しかも濡れた服や髪が、余計に羊花の体温を奪っていた。
せめて濡れた服を脱いでしまえば、少しはマシになるかもしれないが、手を縛られていてはそれも出来ない。同じ理由で、鱒渕も服を貸せずにいた。
このままではかなりの確率で、体調を崩すだろう。
それに、さっきからずっと、頭が痛い。
しかも時間の経過と共に、和らぐどころか酷くなっている。風邪の前兆のようにも思えるが、たぶん違う。
水をかけられた当初から、否、砂川に感情をぶつけられた時から感じているソレは、軽い体調不良の時の痛みとは別種だ。
頭を内側から突き刺されたみたいな痛みは、最悪な事に時間を経るごとに鋭さを増している。
「やっぱり、具合悪そうだよ。オレの肩で良ければ貸すから、少し休んで」
「ううん、平気。それよりも、縄は解けそう?」
厚意で申し出てくれているのに申し訳ないと思いつつも、羊花は鱒渕の提案を固辞した。
砂川の要求を羊花が飲む気がない以上、脱出する事を優先したい。
それにたぶん、体調はどんどん悪くなる。それなら多少無理をしても、動けるうちに動くべきだと考えた。
「今やってるけど、結構がっちり結ばれてて難しい」
「そっか。……何か残されてる物で、どうにか出来るといいんだけど」
辺りを見回しても、刃物の類は見つからない。
簡易キッチンには桶やスポンジは残されていても、流石に包丁は置いてなさそうだった。
「ガラスの欠片とか、落ちてないかな」
薄暗い室内で、目を凝らす。けれど光源は窓の外の街灯しかなくて、よく見えない。
「羊花ちゃん、暗いところで無暗に動くと危ない」
「でも」
鱒渕の言葉は正論だが、羊花は素直に頷けずにいた。
体調だけが理由ではない焦りが、彼女の中にあるせいだ。
「黒崎さん達が気付いて、きっと探してくれる。絶対に来てくれるから、信じて待とう」
「……信じてない訳じゃ、ないんです」
家に置きっぱなしのスマホに、たぶん連絡は入ってる。夜になっても既読が付かなければ、不審に思うだろう。
黒崎達は、きっと羊花を探してくれる。
必ず見つけてくれると信頼もしている。
でも、だからこそ、足手纏いになりたくないとも思った。
それと、もう一つ。
(黒崎さんと砂川さんを会わせたくない)
二人の間に何かがあるのは、砂川の言葉で推測出来た。
それに、『親戚をたらい回しにされていた』という砂川の言葉と、立ち聞きした黒崎の探し人の話にあった『各地を転々としている』という情報の一致も見過ごせない。
おそらく、黒崎が探しているのは砂川で正解だろう。
関係性は分からなくとも、黒崎は砂川を探している。
そして砂川は、黒崎に強く執着している。
なら会ってほしくないと、羊花は身勝手を承知の上で思ってしまった。
それが嫉妬なのか、それとも別の感情なのかは分からないけれど。
「お願いだから、無理しないで。ちょっとでいいから、休もう」
「……ごめんなさい」
真剣な顔で請われ、羊花は俯く。小さな声で謝罪した。
無駄な足掻きで鱒渕にいらぬ心配をかけてしまった。
羊花一人が狼狽えて、右往左往していてもたぶん事態は好転しない。少し落ち着いて考えれば、すぐに分かる事なのにと羊花は消沈する。
「座って。……その、誓って変な事はしないから、近づいてもいい? 少しは温かくなると思うんだ」
「ええっと、……うん、宜しくお願いします」
窺うように言われて、羊花は少し迷ったけれど頷く。
下心ではなく気遣いであり、しかも譲歩してくれる相手をこれ以上無碍には出来なかった。
古びたパイプ椅子はネジが緩んで壊れそうなので、壁際の床に落ちていた段ボールの上に座る。
隣に座る鱒渕の体温が高いせいか、肩から腕の辺りだけほのかに温かい気がする。直接肌が触れていないのにそう感じた事で、羊花は自分の体が想像以上に冷えていると知った。
どちらも黙り込んでしまった為、室内に気まずい空気が流れる。
居心地悪そうにモゾモゾと動いていた鱒渕が、沈黙に耐えかねたように口を開いた。
「暗くなってきたな。腹、減ってない?」
「大丈夫」
羊花はゆるく頭を振る。
寧ろ、さっきから酷くなる頭痛のせいで食欲がまるでない。吐き気がする。
口を開くのも億劫で、ぶっきらぼうな物言いになってしまった。
暗い中では羊花の顔色の悪さに気付けず、鱒渕は彼女の体調不良に気付かない。また怒らせてしまっただろうか、と見当違いな心配をしていた。
「今頃、黒崎さんが探してくれてるよ、きっと。もう近くまで来てたりして。窓の外に実はいるかもよ?」
おどけたように鱒渕は言う。
空回りしている感は否めないが、健気に場の空気を明るくしようと頑張っている事は羊花も理解出来た。
頭痛と吐き気をぐっと堪え、羊花は笑顔を作る。ありがと、と小さく呟くと、鱒渕は目を丸くして赤面した。
少しの沈黙の後、鱒渕は口を開く。けれど結局は何も言わずに閉じた。視線を羊花から外し、俯く。
「……羊花ちゃんが、ひつじさん、だったんだな。全然、気付かなかった」
「……」
「いや、間近で会っていて、全然気付かなかったオレがおかしかったんだけど。黒崎さんは、羊花ちゃんもひつじさんも大切な女の子だって言ってたし。堂々と二股かけるなんて最低だ、羊花ちゃんの目を覚まさせなきゃって一人で空回って……オレって本当、馬鹿だよなぁ」
はは、と乾いた笑いを洩らす。
消沈して、ぼんやりと呟く様は痛々しい。
けれど羊花は、彼にかける言葉が思いつかなかった。
苦手だと逃げ回って、振り回してしまった自分には慰める資格すらない。
「黒崎さんは、ちゃんと羊花ちゃん一人を大切にしてたんだな」
(……うん、ずっと大切にしてくれてた)
黒崎は目付きの鋭さと整い過ぎた顔立ちのせいで、一見、冷たい印象を受ける。
口数も少ない方だし、表情もあまり豊かではない。そのせいで最初は、羊花も怖いと感じていた。
でも、関わっていく中で少しずつ、黒崎は優しいところもある人なのだと知った。
多少、強引ではあるけれど、羊花が許容できないラインは絶対に超えない。自分の意見を言うのが苦手な羊花の言葉を根気強く待って、話を聞いてくれた。
たぶん黒崎が羊花に見せてくれる面は、一部分でしかないと思う。
知らない顔があって、清廉潔白な人でもないと薄々、気付いている。
それでも、黒崎が羊花をとても大事にしてくれているのは間違いない。
だから羊花は、黒崎に惹かれた。
離れたくないと願うようになっていた。
いつの間にか。
(好きに、なってたんだ)
「……あのね、羊花ちゃん」
「?」
鱒渕がふと真剣な声で羊花を呼ぶ。
顔を上げると、声と同様に真剣な眼差しとかち合った。
しかし鱒渕が何かを言う前に、遠くからガシャンと派手な音が鳴った。
それを合図にして、周辺から物騒な物音と怒声、戸惑うような悲鳴が響き渡る。バイクの排気音も加わって、辺りは騒然となった。
「……羊花ちゃん、下がってて」
顔を強張らせた鱒渕は、身を起こす。
羊花を庇うように、彼女の前に立った。
黒崎達が駆け付けてくれたのなら、いい。
でももし、違ったら。不良グループ同士の抗争だとしたら最悪だ。
すぐにでも動けるようにと、羊花も立ち上がろうとする。
「……っ」
けれど足に力を込めた瞬間、ぐらりと視界が揺らぐ。
その場に膝をついて、前のめりになった。
「羊花ちゃん!?」
鱒渕の焦る声が聞こえる。
けれど羊花は、「大丈夫」と強がりを言う事も出来ない。
(あたま、いたい)
駄目だ、と羊花は思う。
意識が遠のいて、姿勢を保つ事も出来ない。
バン、と乱暴に扉が開く。
床に崩れ落ちた羊花は、誰かが踏み込んでくる足音を聞いた。
「羊花……っ!」
必死な声と、泣きそうに歪んだ顔。
その記憶を最後に、ふつりと意識は途切れた。




