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意識が急速に浮かび上がる。
決して騒がしくはないが、それなりの音量で流れるジャズが眠りを妨げた。
羊花は寝返りを打って、ううん、と小さく呻く。
羊花の部屋の壁は薄いから、隣の兄の部屋の音がよく響く。
ジャズを聴くなんて高尚な趣味はなかったと思うけど、また何かの映画にでも影響されたのだろう。硬派を気取っているが、実は流行りものが好きなのを羊花は知っている。
「お兄ちゃん、うるさい……」
「あ、起きた?」
「っ?」
聞き覚えのない声が返ってきた事に驚き、羊花は飛び起きた。
目に飛び込んできたのは、見慣れない部屋。黒い壁と、ウォールナットの床。天井のダウンライトはオレンジの温かい色合いで、落ち着いた雰囲気を醸し出す。
窓が一つもないから、今が夜なのか昼なのかも分からない。全体的に、バーの個室のようなイメージの部屋だ。
革張りのソファーは黒で統一されており、その一つに羊花は寝かされていた。
向かいのソファーに座っていたのは、気を失う前にフルネームを聞いた男。浅黄壮馬は小首を傾げ、にこりと羊花に笑いかけた。
「!?」
夢だと思ったら、夢じゃなかった。
悪夢は続行中だと知り、羊花は絶望した。
携帯のバイブ機能もびっくりなレベルでガタガタと震えだす。それを見た浅黄はぎょっと目を剥いた。
「待った! 食べないから! 何もしないから泣かないで、ねっ?」
見る見るうちに涙が盛り上がる。
「あああああ、まって、まって」
慌てふためく様は、親の不在時に子供に泣かれた人間の挙動に良く似ていた。
浅黄までもが泣きそうになっていると、扉が前触れなく開く。
「なに情けねぇ声出してんだ」
「そうちょう、たすけて……」
入ってきたのは、黒髪の男こと黒崎司狼。
呆れ顔で浅黄を一瞥するが、対する浅黄は反発する事なく、寧ろ助けがきたと言わんばかりに安堵した。
「気持ち悪いから止めろ」
「だって、何言っても泣かせちゃいそうで怖くて……」
憔悴した顔で呟く浅黄から、ソファーの上で縮こまる羊花へと、黒崎は視線を移す。
濁りのない真っ黒な目に見据えられ、羊花は体を強張らせる。
黒崎は羊花の斜め前にある一人掛けのソファーに、どかりと腰を下ろす。
持っていたトレーを羊花の前に置いた。
「腹減ったろ」
トレーに載っていたのは、クラブハウスサンドが盛られた皿とグラス。
作りたてなのか、良い香りが鼻孔を掠める。
今までは空腹なんて感じる余裕すらなかったのに、指摘された途端、羊花の正直なお腹がくぅと控え目に主張した。
慌ててお腹を押さえると、黒崎は小さく笑う。
その表情がやけに優しく見えて、羊花は状況も忘れてほけっと見惚れた。
「何も入れてねぇから、安心して食え」
羊花は暫し、逡巡した。
目の前の人が噓を吐いているようには見えない。
それに少し冷静になってみると、こんなイケメンが、羊花なんて相手にするはずないとも思えた。
知らない人に物をもらっちゃ駄目だと、両親にも兄にも言い聞かせられていた羊花だったが、かといって、ここで断る勇気もない。
(せっかく優しく笑ってくれているのに、断った途端豹変したらいやだ)
ごくりと喉を鳴らす。手を合わせて、いただきますと小さな声で告げてから、羊花は震える手をサンドイッチに伸ばす。
三角形の中心に突き刺さった赤いハートのピックを抜いて、ぱくりと小さく齧り付いた。
「!」
まず感じたのは、トーストしたパンのサクリとした食感。そしてシャキシャキのレタスの歯応え。カリカリに焼いたベーコンとローストチキンの香ばしさが口いっぱいに広がる。マスタードは風味が良いのに辛さは控え目で、マヨネーズとの相性もいい。そしてトマトの酸味がさっぱりとした後味に仕上げていた。
「美味しいっ!」
思わず零れたのは、飾らない本音だった。
(ふぉおおおっ! なにこれ、なにこれ!? こんなに美味しいクラブハウスサンド、初めて食べた!)
もぐもぐと高速で咀嚼し、ほっぺをパンパンにする羊花を、二人は生温い目で見守る。
「取らないから、ゆっくりお食べ」
「水分もちゃんと摂れ」
羊花は、黒崎に差し出されたグラスを躊躇なく受け取った。
もはや頭の中は美味しいものの事しかない。
羊花はビビりのくせに、警戒心が持続しない人間だった。
最初はバリバリに警戒するのに、ちょっとでも優しくされると、良い人なのではと気を緩めてしまう。だからこそ、この年になっても幼子みたいな注意を両親と兄にされているのだが。
赤いストローを含み、液体を吸い上げる。
よく冷えたアイスティーは濃いめに淹れてあるが、一切の渋みがない。ダージリンのファーストフラッシュだろうか。上質な紅茶の香りが、鼻から抜けた。
「これも美味しいぃ……なにこれ。濃いのに渋くないし、全然濁ってない。淹れた人、天才では?」
「ありがとよ」
「へ?」
羊花の独り言に応えたのは、目の前で頬杖をつく黒崎だった。
咄嗟に言葉の意味が理解できずに、ぱちぱちと瞬きを繰り返す羊花に、浅黄が横から口を挟む。
「それ淹れたの総長。ちなみにサンドイッチも総長のお手製だよ」
「は?」
ちょっと待って、と羊花は思った。情報量が多すぎて、理解が追い付かない。
元々あんまり出来の良くない羊花の脳みそは、既にパンク寸前だった。
(一個一個、整理しよう。うん、そうしよう)
深呼吸を繰り返してから、羊花はそう決めた。
ちなみに勿体ないから、サンドイッチを食べながら。
(このめちゃくちゃ美味しいサンドイッチとアイスティーが、この怖そうなイケメンのお手製? ってことは、可愛い赤のハートのピックもこの人が刺したの?)
黒崎を改めて見て、似合わないと羊花は思った。
染めていない黒髪は短めのツーブロック。ワックスで毛先をいじったりはしておらず、ナチュラルに仕上げていてもモデルのように見えるのは、顔面の良さのせいなのか。
顔立ちはハッキリしていて、凛々しい眉の下の切れ長な目はくっきり二重。整った鼻梁に少し厚めの唇。目つきが悪いせいで爽やかさが薄れているものの、十人いたら十人が美青年だと断言する端整な顔だ。
体つきは逞しく、長身。たぶん百九十センチ近くある。
制服は着崩しているものの、アクセサリーの類を一切つけていないので、言われなかったら不良だとは分からない。
(そうだ、不良……この人、総長って呼ばれたよね)
黒崎司狼、総長、Zoo。
その単語を頭の中で並べてみたところで、羊花の頭に懐かしい記憶が蘇る。
懐かしいといっても、子供の頃のものではない。もっと前。
(前世でハマっていたヤンキー漫画の登場人物と同姓同名だ)
喉の奥に小骨が刺さったような違和感から解放されて、羊花はすっきりした。
(そんな偶然もあるんだなぁ)
羊花はタイトルこそ忘れたが、前世でハマっていた漫画の内容は覚えていた。
主人公は高校一年生。成績は底辺を彷徨っているが、運動神経は良く、体の頑丈さには自信がある明るい少年だ。
腕っぷしは弱いものの、曲がった事が大嫌いで、虐められている人間を庇おうとしてはボコボコにされていた。
そんな事を繰り返しているうちに不良グループに目をつけられた主人公は、ある日、危機的状況に陥った。
十人近くに取り囲まれ、絶体絶命という時に、ふらりと二人組の男が現れる。
多人数を相手に男達は危なげなく、あっさりと勝利し、特に恩着せがましい事を言うでもなく去っていく。
主人公はそんな彼等に憧れるが、二人が総長と副総長を務める『Zoo』というチームは、少数精鋭。多少腕に覚えがある程度では入れない、実力主義。
いつか彼等に近付きたいと願う主人公が、強くなろうとする過程で、仲間を増やしていく。
以上が、物語の主要な流れだ。
そして主人公の憧れである総長の名が、黒崎司狼。副総長の名前が浅黄壮馬。
(ん……? もしかして、外見も似てる……?)
黒崎司狼の方は、羊花の記憶にある総長そのものだ。
嫌な予感を覚えつつ、羊花は浅黄壮馬へと視線を移す。
ついでにクラブハウスサンドの三つ目に手を伸ばした。
ワイルドな男前である黒崎とは違い、浅黄は甘い顔立ちの美形だ。
明るい栗色の髪は少し長めで、緩く波打っている。ワックスで無造作に散らしているからか、少しルーズな印象を与えた。
明るい茶色の瞳で目尻は垂れ気味。睫毛は長く、瞬きの度に音が聞こえそうだ。緩く弧を描く唇は薄く、肌は女子が羨みそうな程白い。
細身だが筋肉はしっかりついていて、黒崎程ではないが長身。おそらく百八十前後。両耳にはシンプルなピアスが合計三つ。
全体的にチャラいイメージで、喧嘩には縁がなさそう。こちらも一見して不良だとは分からない出で立ちだ。
(……似てる、超似てる……!)
羊花は、だらだらと冷や汗を流した。
二人の容姿は、漫画の登場人物に良く似ている。否、そんな軽い言葉で済ませていいレベルではない。
瓜二つだ。
実写映画化、もしくは舞台化されたとして、このヴィジュアルだったら誰一人文句は言わないだろう。
そのままするっと漫画から飛び出してきたように、違和感がない。
そこから導き出される答えに、羊花は辿り着いてしまった。
(嘘でしょ)
前世持ちで、ゲームやアニメ、漫画の世界に転生するというのは、もはや鉄板と言っていいお約束展開だ。
まさか我が身に降りかかるとは予想もしていなかったけれど、と羊花は気を失いそうになりながら思った。
羊花は自分が凡人であると理解している。
容姿もスペックも、モブ中のモブ。キングオブモブと呼ばれるに相応しい地味さだと、正確に把握していた。
それが何故、漫画の主要人物……しかも、主人公の憧れの人というポジションの男に捕まって、手作りご飯を食べさせてもらっているのか。
分からない。何もかもが分からない、と羊花は現実逃避した。
逃避している間に、皿は空になっていた。解せぬと羊花は呟いた。
「ご馳走様でした」
ぱちんと手を合わせて、美味しかったですと黒崎に頭を下げる。
「もっと入るか?」
「……お、お腹いっぱいです」
「プリン」
「!」
ぴくりと羊花の肩が跳ねる。
それを見た黒崎の大きな口が弧を描く。御伽噺の中の悪い狼みたいに、にんまりと。
「固めのカスタードプリンでカラメルソースはちょい苦め。今なら生クリームがつく」
「………………たべ、たい、です」
長い葛藤の末、羊花は欲望に負けた。
よし、と満足そうに笑った黒崎は、「そういや、名前」と思い出したように呟いた。
「オレは黒崎 司狼で、こいつは浅黄 壮馬。お前は?」
ふぐ、とおかしな音をたてて、羊花は口を引き結んだ。
助けてもらった上にご飯まで食べさせてくれた恩人に、名乗るのは当たり前。分かっているけれど声が出ないのは、面倒ごとに巻き込まれるのではと危惧したからだ。
でも名乗らないという選択をするには、羊花の勇敢度は少しばかり足りなかった。
どうせ彼等は、羊花の名前なんてすぐ忘れる。
勿体ぶればそれだけ、印象が強くなってしまうから、サラッと告げて終わりにすればいい。
(どうせ呼び合う機会なんてもうないし)
「真白です」
「へぇ、可愛い名前だね」
浅黄の言葉を聞いて、羊花は首を横に振った。
「いえ、真白は名前でなく苗字です。下の名前は羊花と言います」
「ようかちゃん、珍しい音だね。どんな字書くの?」
「羊の花で『ようか』です」
「マジか!」
テンションが上がったのか、大きめの声を出した浅黄に、羊花はビクリと肩を揺らす。
「総長。この子、うちのチームにピッタリな名前じゃない?」
「はぇ?」
羊花の口から間の抜けた声が出た。
黒崎は眉を顰めて、溜息を吐き出す。
「どう考えても向いてねぇだろ。あと別に、そんな馬鹿みてぇな募集事項つけた覚えはねぇよ」
頭上にはてなマークを乱立させる羊花を見て、黒崎は苦々しい口調ながら教えてくれた。
曰く、チームのメンバーは全員、名前に規則性がある。揃えた訳ではないのに、苗字には色、名前には動物の名が入っているそうだ。
たまたまつるんでいた連中の名前がそれで、たまたま全員が腕っぷしが強かっただけ。チームの名前も誰かが適当につけたのが浸透したにすぎないので、構成員の半分以上は『だせぇ』と内心思っている。でも代替案が『カラフル アニマルズ』だったので黙殺したという、どうでもいい事実がある。
最強と謳われ、伝説と化しているチームの実態はそんなもんだった。
ちなみに生半可な事では入れないと言われているのは、ただ単に新規加入者を募集していないだけらしい。
「ひつじちゃんを戦わせる訳ないでしょ。マスコット的な立ち位置に決まってるじゃん」
「……ひつじ、マスコットやりたいか?」
渋面を作った黒崎に問われ、羊花は高速で首を横に振った。
今、写真を撮ったら手振れ機能も敗北すること請け合いの速さだ。
「無理無理無理」
壊れた機械の如く、無理を繰り返す羊花に黒崎は苦笑する。
「ほらみろ」
「えーやだやだ。むさ苦しいチームに癒しと潤いがほしい」
羊花はただただ、混乱していた。
何故、『ひつじ』と勝手に愛称らしきもので呼ばれているのか。
そしてごく普通の地味な女子高生である羊花の何処を見て、癒しとか潤いなんて言っているのかも理解できない。
息しているだけで女の子が群がってくるイケメン共が何を言っているのかと、形の良い頭を叩いてやりたかった。
「うちに女が入れば目立つ。顔が割れたらひつじが危ない目に遭うかもしれねぇだろ」
「それは顔隠すとか、色々やり方あるじゃん」
そこまで言って、浅黄は「あ」と何か思いついたような声を出す。羊花はとても嫌な予感がした。
浅黄はポケットからスマホを取り出し、スイスイと操作し始める。暫くスワイプしていた手を止めて、これ、と黒崎の方へ突き出した。
恐る恐る羊花も見ると、画面に映し出されていたのは服の通販画面。
モデルの女の子が着ているのは、ロング丈の真っ白なパーカー。全体的にオーバーサイズで、フードの部分には羊の巻きツノを模した突起が付属している。
「これ、可愛くない? ひつじちゃんに似合いそう」
無茶言うなと、羊花は目を見開いた。
アニマルパーカーは地味な女子にはハードルが高すぎる。
「あと、これも」
すいすいと軽快に指を動かし、浅黄が表示した画面には、動物の口元を可愛らしくデフォルメしたイラストが描いてあるマスクが映っていた。
羊花はジーザスと天を仰いだ。ちなみに実家は神道である。
「合わせたら可愛いよね」
羊花も可愛いと思う。服は。服はね?
(こういうのは小柄な美少女が着るからこそ可愛いのであって、私じゃ大事故が起こる)
「…………ふむ」
顎に手をあてて黒崎は、熟考している様子だった。
悩む余地なんて欠片もないはずなのに、酷く真剣な顔で画面をスワイプしている。
「黒は?」
「!?」
「おっ、乗り気だね」
とんでもない事を言い出した黒崎を、羊花は信じられないものを見るような目で凝視する。浅黄はからからと笑いながら、「あるよ」と黒崎の方へ手を伸ばした。
「ついでに黄色もある」
「それはいらねぇ」
「もうポチッたもんね。夏用の半袖とは別に、冬用のもこもこのやつも買っとこう」
「!?」
羊花は浅黄と黒崎とを高速で見比べた。
どっちの言葉も聞き捨てならないが、どっちを先に止めるべきなのか。
大事故確定のアニマルパーカーの購入をキャンセルさせる以前に、羊花はチームに入るなんて一言も言ってない。
鈍い痛みを訴える頭を押さえながら、羊花は手を挙げた。
「あ、あの!」
「ん? ひつじちゃんは別の色も欲しい?」
大男のくせに、可愛らしく小首を傾げる仕草が良く似合う。
「ちがっ、そうじゃなくて!」
「あ、猫がいいかな? ウサギもきっと似合うよねぇ」
羊花が必死になって止めようとしているのを理解しているだろうに、浅黄は笑って躱す。
池の鯉みたいにパクパクと口を開閉させる羊花を眺めて、色素の薄い瞳を細めた。嗜虐心が透けて見える、物騒な笑い方だった。
「あのね、ひつじちゃん。総長の好みって、笑顔が可愛い素朴な子なんだ」
「……?」
イメージと違うなと思いつつも、羊花は突っ込まなかった。それどころではないからだ。肉食系の女子がこぞって欲しがる情報であっても、羊花にとっては無価値。だから何だよ、と苛つきながら聞いていた。
「それなのに周りに寄ってくるのは自分に自信があるギラギラした肉食系女子ばっかで、辟易していたんだよね」
「はぁ」
イケメンにはイケメンなりの悩みがあると言いたいのか。それとも婉曲な自慢かと、羊花はやさぐれながら思う。
「今日からそこに、『オレの料理を美味そうに食べる』ってのも追加しとけ」
黒崎が口を挟み、浅黄は楽しそうに「はいはい」と頷く。
「そんで臆病で、甘党なんでしょ?」
羊花は動きを止めた。とても嫌な予感がした。
臆病と甘党は、高い頻度で羊花を表す時に使われる言葉だからだ。
(ううん、気のせい、気のせい。そんな訳ないじゃない、私ったら自信過剰ぉー)
あはは、と笑おうとした羊花の顔が引き攣り、背筋を冷たい汗が流れる。
そんな羊花の様子を、二対の瞳が見つめている。藻掻く小動物を可愛がる大型の肉食獣みたいに、甘ったるくも残酷な眼差しで。
「ちなみにオレの好みは、小動物みたいな子。あざとい養殖じゃなくて、天然ものね」
ひくり、と羊花の笑顔が固まった。
(誰か、嘘だと言って)
再び天を仰いだ羊花の味方は、この場にいなかった。




