表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
29/43

28

 


 フルネームを呼ばれた事に、羊花は驚く。

 砂川はクラスの中心人物の一人であるのに対し、羊花は隅っこにいる大人しいタイプだ。さして仲良くもなかった事もあり、忘れられているかもと思っていた。もし顔を思い出しても、名前まで憶えてはいないだろうと。


 しかし予想に反し、砂川は羊花をきっちり覚えていた。


(やっぱり、この人と私の間に何かがあったの……?)


 理由もなく怖いと感じる事にも、もしかしたら原因があるのかもしれないと羊花は思った。

 対峙している今も、具体的にはまだ何もされていないのに、羊花の体は勝手に震え始めている。傍にいるだけで、酷く息苦しかった。


 それでも負けたくなくて、羊花は視線を逸らさずにいる。

 すると、驚愕だけが浮かんでいた砂川の目は一転して、苛烈な色を帯びた。表情も劇的に変化し、可愛らしい少女は夜叉の如き恐ろしい顔付きになる。


「真白 羊花……‼」


 苛立ちなんて可愛いものじゃない。

 羊花の名前そのものが呪詛であるかのように、激しい怒りを込めて、砂川は叫んだ。


 その激しさに、羊花は身を竦める。


「またアンタなの!? また私の邪魔をするの……!!」


 砂川は羊花の肩を、痛いくらいの力で掴む。

 がくがくと揺する様子は、常軌を逸していた。


「……おいっ! 止めろ、砂川!」


 ひつじの正体が羊花だと知り、呆けていた鱒渕は慌てて止める。

 二人の間に入ろうとするが、手を縛られているせいで上手く動けずにいた。一方、砂川は鱒渕の存在など目に入っていないのか、ただ羊花へと怒りをぶつける。


「なんでまた、アンタみたいな地味で根暗なブスに……。まさか復讐のつもり?」


 何かに思い当たったのか、砂川は息を呑む。


「被害者面してまた私を責めるの?」


 羊花を睨み付ける目は、正気を失っているかのような危うさがあった。


「アンタが直接手を下さなくても、私はもう十分辛い目に遭っているわ。親に見捨てられて、親戚の間をたらい回しにされて、まともな高校にも通わせて貰えなかった! これ以上、私に何を求めているのよ!?」


 何を責められているのか、羊花にはさっぱり分からなかった。

 見てもいなかった演劇に唐突に参加させられたかのように、戸惑い、困惑する事しか出来ない。


「砂川!! 羊花ちゃんはお前に復讐なんてしない! 出来ないんだよ!!」


 鱒渕は砂川にぶつかるようにして、体を割り込ませる。

 羊花を背に庇いながら、砂川と対峙した。


「……出来ない?」


 今までの勢いが削がれ、砂川はぽつりと呟く。

 言葉の意味を考えているのか、考え込む彼女の端整な顔からは、悪鬼のような表情は消えていた。


 十数秒の間を空けて、顔を上げる。


「……まさか、記憶喪失って噂、本当なんだ?」


「…………」


 鱒渕は厳しい顔付きで、口を引き結ぶ。


 この場合の無言は肯定と同義。

 砂川は鱒渕から羊花へと視線を移し、戸惑うばかりの彼女を見て確信した様子だった。


 呆気に取られていた砂川の唇が、片方だけ吊り上がる。


「は、……本当に、忘れたんだ」


 はは、と空気が洩れたみたいな声で笑う。


「彼の事も忘れたくせに、また出会って、傍にいるって事……」


 ふらりと砂川は一歩、後退る。

 独白めいた言葉を聞きながら、羊花は混乱していた。


 記憶喪失、と砂川は言った。

 羊花も予想していた事とはいえ、現実となると衝撃の大きさが違う。簡単に受け止められるような話ではない。


「羊花ちゃん……」


 蒼褪めて俯く羊花を、鱒渕が心配そうに覗き込む。

 しかし自分の事で精いっぱいな彼女は、応える余裕はない。


(私が記憶喪失……。でも、小さい頃の記憶もあるのに)


 幼少期に家族や兄と遊んでいた記憶もあるし、小学校や中学校に通っていた頃の事も覚えている。幼馴染である萌絵も、同級生であった鱒渕や砂川の記憶もあるのに。


 砂川に何をされたのか。彼女が何故、転校していったのか。

 そして砂川の言う『彼』の存在。


 その記憶に明らかな虫食いがある事にも、羊花は気付いてしまった。

 そして、時期もおおよその予測が出来る。


(アルバムで抜けてた一年)


 その頃におそらく、何かがあった。そして当時の記憶を失った。

 羊花にそれを気付かせないよう、家族や友人達が気を回してくれたんだろう。きっとアルバムはその一つ。


「本当に忘れたのか怪しいものね。彼の同情を引く為に、演技してるんじゃない?」


 考え込んでいた羊花の思考を引き戻したのは、砂川の尖った声だ。


「お前……誰のせいで、」


「ああ、そうね。全部、私が悪いわ」


 非難めいた鱒渕の言葉を、砂川は強引に遮る。

 欠片も悪いと思っていない顔で言いながら、彼女は据え置かれた簡易キッチンへと近付く。流しに放置され、たっぷり水が入った桶を両手で掴んだ。


「だから責任持って、思い出させてあげる!!」


 バシャンという派手な水音と共に、羊花は頭から水を被った。

 咄嗟に顔を背けたが、まるで意味がない。


「羊花ちゃん!」


 瞑っていた目を開けると、鱒渕も左半身が濡れている。どうやら庇ってくれたようだが、間に合わなかったらしい。


 羊花は頭から爪先まで、全身ずぶ濡れだ。

 前髪と顎、スカートの裾から、ぼたぼたと大粒の水滴が滴る。


「……少しは思い出した?」


 薄く微笑みながら砂川は小首を傾げる。


 羊花はゾッとした。

 身体的にはさしてダメージはないが、心情的には別だ。平和な日常を過ごしていた羊花にとって、砂川の悪意は劇毒に値する。


 底の見えない暗い、昏い瞳。

 その目を、羊花は知っている気がした。


「……っ」


 羊花の全身が大きく震えだし、呼吸が荒くなる。

 短い悲鳴みたいな浅い呼吸を繰り返しても、尚、息苦しい。


 暗くなった窓の外。

 水で服が肌に張り付く感覚。

 悪意ある眼差しと笑い声。


 何かが恐怖と共にせり上がってくる。

 酷く頭が痛んだ。


「きちんと思い出して、身の程は弁えてね」


 砂川は空になった桶を床に落とす。

 濡れた指先のしずくを厭い、手を振りながら羊花を見る。


「二度と司狼くんに近付かないって誓えるなら、今度はちゃんと無事にお家に帰してあげる」


 にっこり笑いながら、物騒な言葉を吐いた。


 無邪気な笑顔は、何も知らない人なら見惚れる愛らしさだ。けれど、こんな場面で屈託なく笑える事こそが異常。

 空恐ろしささえ感じる。


 とても怖い。

 それでも羊花は、気持ちだけでも負けたくないと虚勢を張った。


 震えながらも、首を横にゆっくりと振る。

 すると砂川は目を眇めた。


「……へぇ。意外と図太いんだね」


 低い声で言ってから、溜息を吐く。


「もう少しだけ時間をあげる。いくらでも悩んでいいけど、あんまり酷い事、させないでね?」


 従わないなら酷い目に遭わせると言外に告げられ、羊花は唇を噛む。

 悔しそうな顔の羊花に少しだけ溜飲が下がったのか、楽しげな様子で砂川は部屋を出ていった。また来るから、と手を振って。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 更新ありがとうございます。 [一言] 罪を犯して、罰を受けて反省できるのが理想だけど 親から見放されて、親戚たらい回しになり、まともな教育を受けられないなら歪むわなぁ ちゃんと監視と指導し…
[良い点] 更新感謝
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ