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フルネームを呼ばれた事に、羊花は驚く。
砂川はクラスの中心人物の一人であるのに対し、羊花は隅っこにいる大人しいタイプだ。さして仲良くもなかった事もあり、忘れられているかもと思っていた。もし顔を思い出しても、名前まで憶えてはいないだろうと。
しかし予想に反し、砂川は羊花をきっちり覚えていた。
(やっぱり、この人と私の間に何かがあったの……?)
理由もなく怖いと感じる事にも、もしかしたら原因があるのかもしれないと羊花は思った。
対峙している今も、具体的にはまだ何もされていないのに、羊花の体は勝手に震え始めている。傍にいるだけで、酷く息苦しかった。
それでも負けたくなくて、羊花は視線を逸らさずにいる。
すると、驚愕だけが浮かんでいた砂川の目は一転して、苛烈な色を帯びた。表情も劇的に変化し、可愛らしい少女は夜叉の如き恐ろしい顔付きになる。
「真白 羊花……‼」
苛立ちなんて可愛いものじゃない。
羊花の名前そのものが呪詛であるかのように、激しい怒りを込めて、砂川は叫んだ。
その激しさに、羊花は身を竦める。
「またアンタなの!? また私の邪魔をするの……!!」
砂川は羊花の肩を、痛いくらいの力で掴む。
がくがくと揺する様子は、常軌を逸していた。
「……おいっ! 止めろ、砂川!」
ひつじの正体が羊花だと知り、呆けていた鱒渕は慌てて止める。
二人の間に入ろうとするが、手を縛られているせいで上手く動けずにいた。一方、砂川は鱒渕の存在など目に入っていないのか、ただ羊花へと怒りをぶつける。
「なんでまた、アンタみたいな地味で根暗なブスに……。まさか復讐のつもり?」
何かに思い当たったのか、砂川は息を呑む。
「被害者面してまた私を責めるの?」
羊花を睨み付ける目は、正気を失っているかのような危うさがあった。
「アンタが直接手を下さなくても、私はもう十分辛い目に遭っているわ。親に見捨てられて、親戚の間をたらい回しにされて、まともな高校にも通わせて貰えなかった! これ以上、私に何を求めているのよ!?」
何を責められているのか、羊花にはさっぱり分からなかった。
見てもいなかった演劇に唐突に参加させられたかのように、戸惑い、困惑する事しか出来ない。
「砂川!! 羊花ちゃんはお前に復讐なんてしない! 出来ないんだよ!!」
鱒渕は砂川にぶつかるようにして、体を割り込ませる。
羊花を背に庇いながら、砂川と対峙した。
「……出来ない?」
今までの勢いが削がれ、砂川はぽつりと呟く。
言葉の意味を考えているのか、考え込む彼女の端整な顔からは、悪鬼のような表情は消えていた。
十数秒の間を空けて、顔を上げる。
「……まさか、記憶喪失って噂、本当なんだ?」
「…………」
鱒渕は厳しい顔付きで、口を引き結ぶ。
この場合の無言は肯定と同義。
砂川は鱒渕から羊花へと視線を移し、戸惑うばかりの彼女を見て確信した様子だった。
呆気に取られていた砂川の唇が、片方だけ吊り上がる。
「は、……本当に、忘れたんだ」
はは、と空気が洩れたみたいな声で笑う。
「彼の事も忘れたくせに、また出会って、傍にいるって事……」
ふらりと砂川は一歩、後退る。
独白めいた言葉を聞きながら、羊花は混乱していた。
記憶喪失、と砂川は言った。
羊花も予想していた事とはいえ、現実となると衝撃の大きさが違う。簡単に受け止められるような話ではない。
「羊花ちゃん……」
蒼褪めて俯く羊花を、鱒渕が心配そうに覗き込む。
しかし自分の事で精いっぱいな彼女は、応える余裕はない。
(私が記憶喪失……。でも、小さい頃の記憶もあるのに)
幼少期に家族や兄と遊んでいた記憶もあるし、小学校や中学校に通っていた頃の事も覚えている。幼馴染である萌絵も、同級生であった鱒渕や砂川の記憶もあるのに。
砂川に何をされたのか。彼女が何故、転校していったのか。
そして砂川の言う『彼』の存在。
その記憶に明らかな虫食いがある事にも、羊花は気付いてしまった。
そして、時期もおおよその予測が出来る。
(アルバムで抜けてた一年)
その頃におそらく、何かがあった。そして当時の記憶を失った。
羊花にそれを気付かせないよう、家族や友人達が気を回してくれたんだろう。きっとアルバムはその一つ。
「本当に忘れたのか怪しいものね。彼の同情を引く為に、演技してるんじゃない?」
考え込んでいた羊花の思考を引き戻したのは、砂川の尖った声だ。
「お前……誰のせいで、」
「ああ、そうね。全部、私が悪いわ」
非難めいた鱒渕の言葉を、砂川は強引に遮る。
欠片も悪いと思っていない顔で言いながら、彼女は据え置かれた簡易キッチンへと近付く。流しに放置され、たっぷり水が入った桶を両手で掴んだ。
「だから責任持って、思い出させてあげる!!」
バシャンという派手な水音と共に、羊花は頭から水を被った。
咄嗟に顔を背けたが、まるで意味がない。
「羊花ちゃん!」
瞑っていた目を開けると、鱒渕も左半身が濡れている。どうやら庇ってくれたようだが、間に合わなかったらしい。
羊花は頭から爪先まで、全身ずぶ濡れだ。
前髪と顎、スカートの裾から、ぼたぼたと大粒の水滴が滴る。
「……少しは思い出した?」
薄く微笑みながら砂川は小首を傾げる。
羊花はゾッとした。
身体的にはさしてダメージはないが、心情的には別だ。平和な日常を過ごしていた羊花にとって、砂川の悪意は劇毒に値する。
底の見えない暗い、昏い瞳。
その目を、羊花は知っている気がした。
「……っ」
羊花の全身が大きく震えだし、呼吸が荒くなる。
短い悲鳴みたいな浅い呼吸を繰り返しても、尚、息苦しい。
暗くなった窓の外。
水で服が肌に張り付く感覚。
悪意ある眼差しと笑い声。
何かが恐怖と共にせり上がってくる。
酷く頭が痛んだ。
「きちんと思い出して、身の程は弁えてね」
砂川は空になった桶を床に落とす。
濡れた指先のしずくを厭い、手を振りながら羊花を見る。
「二度と司狼くんに近付かないって誓えるなら、今度はちゃんと無事にお家に帰してあげる」
にっこり笑いながら、物騒な言葉を吐いた。
無邪気な笑顔は、何も知らない人なら見惚れる愛らしさだ。けれど、こんな場面で屈託なく笑える事こそが異常。
空恐ろしささえ感じる。
とても怖い。
それでも羊花は、気持ちだけでも負けたくないと虚勢を張った。
震えながらも、首を横にゆっくりと振る。
すると砂川は目を眇めた。
「……へぇ。意外と図太いんだね」
低い声で言ってから、溜息を吐く。
「もう少しだけ時間をあげる。いくらでも悩んでいいけど、あんまり酷い事、させないでね?」
従わないなら酷い目に遭わせると言外に告げられ、羊花は唇を噛む。
悔しそうな顔の羊花に少しだけ溜飲が下がったのか、楽しげな様子で砂川は部屋を出ていった。また来るから、と手を振って。




