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「透くんに関係ある?」
「何?」
「透くんに何かした訳じゃないでしょ。ただの傍観者である貴方に私を責める権利があるの?」
砂川は苛立たしげな声で言う。
眼差しは冷たく、笑顔さえも擦れた歪さがある。無邪気で可愛らしい雰囲気は、幻かのように消え失せていた。
「お前……」
(え、なに? 何があったの?)
悩んでいる間に鱒渕と砂川が険悪になっていた事に気付き、羊花は驚いた。
さっきまでも決して良好な関係とは言い難かったが、今は、正に一触即発。どちらかが踏み出せば、喧嘩になりかねない空気が漂っている。
「用事がそれだけならもう行くわ。迎えが来る予定なの」
「話は終わってない」
「しつこいなぁ」
うんざりと言いたげな口調で呟きながら、砂川はスマホを取り出す。
片手で操作して耳に当てる。通話相手が出てからは、一転して可愛らしい声に戻った。羊花はよく聞き取れなかったが、○○くん、と呼びかけていたようなので、どうやら男友達か彼氏なのだろう。
「そう、そのお店の横を入った細い道。なんかちょっと絡まれてて……怖いから早く来て」
甘えと怯えを上手く配合した声だ。どう接すれば男性の庇護欲を掻き立てられるのか、良く分かっている。
鱒渕は呆気に取られているようだったが、羊花は嫌な予感がした。
(これ、早く逃げないと鱒渕君が危ないんじゃないの?)
砂川が助けを求めた男性が到着した時に鱒渕がいたら、まず間違いなく争いに発展する。砂川もそれを見越して誘導した部分があるし、喧嘩になっても止める気はなさそうだ。
逃げろと羊花は念を送るが、鈍い鱒渕は当然気付かない。
正義漢でトラブルメーカーたる所以、彼は喧嘩が弱いくせに、逃げるという手を良しとしない。
「じゃあね」
「待てよ!」
大通りに戻ろうとする砂川の進路を、鱒渕は壁に手をついて塞ぐ。
避けようとしても、大きな体で妨害する鱒渕に、砂川は渋面を作った。
「……いい加減にしてくれる?」
「付き纏われるのが嫌なら、さっさとこの街を出ていってくれ。お前がいると、傷付く子がいるんだよ」
「どこにいようと、私の勝手でしょ」
砂川は前に立ち塞がる鱒渕を冷めた目で睨み、踵を返す。
そして隠れていた羊花の方へと近付いてきた。
(こっちに来る!)
羊花は焦りながら、奥へと逃げる。
しかし建物の角を曲がった羊花はそこで絶望した。細い路地の先は行き止まり。逃げ道は何処にもない。
(ど、ど、どうしよう!?)
逃げられないなら戻って、二人の横をすり抜けるしかない。
けれど、あの不穏な会話を立ち聞きしていて、しかもそれが共通の知人だと知られたら、更に面倒な事になる気がした。
羊花は咄嗟にバッグを探る。
目的の物を見つけ出した彼女は、よく考える前にそれを着た。パーカーのフード部分をしっかり被る。
(鱒渕君に呼び止められるかもしれないけど、全力で逃げよう)
両方の顔見知りである『羊花』よりは、片方だけの『ひつじ』の方がマシだろう。
それに鱒渕は恩人だと思っている『ひつじ』相手なら、おそらく強く出れない。
(顔を伏せて駆け抜ける。うん、行こう!)
カバンを懐に抱えて羊花は振り返る。
丁度、こちらへと曲がってきた砂川が見えたが、気にせずに突き進んだ。
「待てよ、砂川! ……!? あれ、キミ」
砂川を追って角を曲がった鱒渕は、アニマルパーカーを着た羊花を見て目を丸くする。
立ち止まるつもりのない羊花は、砂川の横を通り抜けようとした。
「!?」
けれど、ぐっと腕に負荷がかかる。
視線を落とすと、羊花は腕を掴まれていた。しかも細く、白い手によって。
(なんで?)
止められるとしても、相手は鱒渕だと思っていた。『ひつじ』とは何の接点もない砂川が何故、と想定外の事態に羊花は固まる。
訳も分からないまま混乱する羊花を、砂川はじっと見つめた。否、睥睨した。
向けられた視線の鋭さに、羊花はひゅっと息を呑む。
「ごめんね、びっくりしちゃって」
砂川は一転して、人懐っこい笑みを浮かべる。
彼女の言葉の意味を、羊花はすぐには理解出来なかった。
「まさか偽物さんに、こんな場所で会えるとは思わなかった」
続けられた言葉で、何にびっくりしたのかは分かった。
けれど、意味はさっき以上に分からない。
(え? ど、どういう事?)
砂川に偽物扱いされても、羊花は怒らなかった。というよりも、事態が理解出来なくて怒る以前の問題だった。
砂川は『ひつじ』の存在も、偽物騒動についても把握しているらしい。
しかも真贋を見分けられるというのだから、本物についても知っているという事。
(砂川さんが本物と面識がある……ん? じゃあ私って何?)
羊花は『ひつじ』として砂川と会うのは今回が初めてだ。
しかも偽物だと判断されている。
(やっぱり生活圏が同じで、アニマルパーカーを常日頃着ている女の子が別にいるってパターン? なら、確かに私はとんだ勘違い野郎の偽物だけど)
考え込む羊花の思考は、どんどん脇に逸れていく。
「この子が偽物だって、なんでお前が分かるんだよ」
迷走する羊花の頭を、主筋に引き戻したのは鱒渕だった。
まずそこに注目すべきだったと、羊花も頭の中でポンと手を打つ。
糾弾と表現しても過言でない、荒々しい語気にも砂川は怯まない。
クスクスと鈴の如く可憐な笑い声が、場違いに響く。
「司狼くんも他のメンバーも恰好良いもんね。憧れる気持ちは分かるよ」
(……司狼くんって)
羊花は愕然とした。
たかが名前呼び。小学生だってそんな低いハードルに拘らないだろう。それでも羊花はショックだった。
名前で呼んでも許されている砂川と黒崎さんと呼んでいる自分には、明確な差があると思い知らされた気がした。
立ち尽くす羊花を楽しげに眺めながら、砂川は自分のバッグの中を探る。
ごそごそと取り出した物を広げ始めた。
「でも、ごめんね。私の名前、未愛の『み』って『ひつじ』って意味なんだ」
そう言って砂川は、白い服を羽織る。
羊花と同じメーカーの、羊を模したアニマルパーカーを。
「司狼くんの『ひつじ』は、私なの」
ひつじ、と呼ぶ黒崎の声が、羊花の頭の中に響く。
その優しさを、温かさを、嘘だとは思わない。思いたくない。
「今まで身代わり、ご苦労様。偽物さん」
「っ……!」
そんな訳ないと、羊花は胸中で強く否定する。
(だって、溜まり場に連れていかれたのは名乗る前だった。名前だけで、興味を持たれた訳じゃない……)
そこまで考えて、ふと気づく。
名前が真『白』 『羊』花ではなかったら、チームに入れとは言われなかっただろう事に。
それに、羊花は常々不思議だった。
黒崎のように容姿も能力も財力も、全てにおいて優れている男が、どうして羊花のように平凡な子供に構うのか。
好かれる理由なんて、何一つ思い浮かばない。
言動全てが可愛くない自信すらあった。
出会った当初の羊花が考えていたように、本当に、ただの気まぐれだとしたら。
別の『ひつじ』に所縁のある女性の代替品。本物を見つけるまでの暇つぶしだと言われたら。
『初恋の女の子が、素朴で笑顔が可愛い子だったのかな』
以前聞いた篠木の言葉が、脳裏を過る。
可愛らしい笑顔の砂川未愛を見て、羊花は足元が崩れ落ちるような恐怖を覚えた。




