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「うーん……」
スマホの画面を見つめたまま、羊花は唸る。
開きっぱなしのメッセージアプリの上部には、黒崎の名前。
あれからメッセージの遣り取りは再開したものの、羊花は戸惑いを隠せない。
何故なら、黒崎があまりにも普段通りだからだ。
今日のメッセージも『次はシュークリーム』という、通常運転。
あの日の夜、額にキスされた記憶は未だ鮮明だ。なにかの拍子に感触を思い出しては赤くなり、更にそんな自分が恥ずかしくて悶絶するというローテーションを羊花は繰り返しているというのに。
(やっぱり、からかわれたのかなぁ)
羊花はごつりとテーブルに額を押し付ける。
彼氏いない歴十六年。現在も更新し続けている羊花には一大事でも、黒崎にとっては挨拶のようなものなのかもしれない。
自分一人だけ騒ぎ立てていて、馬鹿みたいだと羊花は胸中でごちる。
やきもきしているのも、ドキドキしているのも自分だけ。
そう思うと、遣る瀬無い気持ちになった。
(あーもう。止め止め)
頭を振って、迷いも振り払う。
そんな色ボケ気味な悩みよりも、優先するべき事があるのだから。
(偽物の話はどうなったんだろ)
篠木から聞いた『ひつじ』の偽物の話を、羊花は思い切って黒崎に聞いてみた。
どうやら噂自体は把握しているようだが、それ以上の情報を黒崎から引き出す事は出来なかった。
のらりくらりと躱されて、いつの間にか話題を変えられてしまう。
気にする程の事ではないと考えているのか、それとも、羊花に関わってほしくないのか。
おそらく後者だと羊花は考えている。ただ確証はない。
(邪魔はしたくない。でも、放っておくのもムズムズする)
自分に関係する話が自分の知らない場所で進んでいくのは、どうにも据わりが悪い。
おそらく、このまま何事もなく解決したとしても、羊花の心に暫く蟠りを残すだろう。
羊花は臆病で平和主義だが、頑固でもある。こうと決めたら譲れない融通の利かない部分のある彼女は、自分の事を他人に決められるのが嫌いだ。
(自分の目で確かめたいけど、下手に首を突っ込んで足手纏いになるのも困るし……。やっぱり、改めてもう一回、黒崎さんに聞いてみよう。食い下がれば、状況を教えてくれるかもしれない)
よし、と決意して羊花はスマホに向き合う。
思い立ったが吉日とばかりに、黒崎にメッセージを送った。意外と思い切りの良い羊花は、『偽物の噂についての新しい情報ないですか』と、変化球でなくストレートを投げる。
すぐに既読は付いたものの、返事は鈍い。
遠ざけようとする黒崎と、突っ込んでいく羊花の攻防戦は長引き、羊花のスマホの充電が切れるまで続いた。
「あっ」
明くる日の夕方。
バッグの中を探った羊花は、しまったと焦る。
スマホがない。
いつもとは違う場所で充電していたせいで、朝、バッグに入れるのを忘れたようだ。
(不貞腐れて、リビングに置き去りにするんじゃなかった……)
黒崎から、やんわりと遠ざけられ、拗ねた羊花はふて寝した。
スマホの振動に振り回されるのも嫌で、わざわざ自室ではなくリビングで充電をしていたのが裏目に出たらしい。
(情けない。私って本当子供だ)
ムキになって突っかかっても、黒崎は怒らなかった。
苛立つ事なく宥めてくれたのに拗ねた自分を、羊花は情けなく思う。
(萌絵ちゃんの言う通り、私は黒崎さんに甘えてるんだろうな。許してくれるからって、何言ってもいい訳じゃないのに)
小さな躓きが重なって、羊花はどんよりとした気持ちになった。
今日は塾の日なので来たはいいものの、講師が病欠。代わりもスケジュール的に見つけられず、羊花のスマホと自宅に連絡を入れてくれたらしい。
そういえば今日はスマホを見てないなと、確認しようとして忘れた事に気付いたという流れだ。
罰が当たったのかも、と思いかけて、いや神様だってそんな暇じゃないわとセルフでツッコミを入れる。
単に羊花の我儘が招いた結果だ。
額を指の背で軽く叩き、負のループに嵌りそうな思考を散らす。
(今日は大人しく、帰ろ)
溜息を一つ零し、羊花は自宅を目指して歩き出す。
しかしふと喉の渇きを覚えて、周囲を見回した。
チェーン店のカフェの看板が目に入ったけれど、財布の中身を思い出して止めた。
美味しいけれど値段的に厳しい。特に、お小遣い日前の今はちょっと躊躇われる。
(ティーソーダ飲みたかったけど、しょうがない。代わりに自販機あるかな。レモン系の炭酸飲みたい)
近くにあった自販機のラインナップに望む品が無く、羊花は別の場所を探す。
大通りから少し外れたところで見つけて、無事にレモン風味の炭酸水をゲットした。
キャップを捻ると、爽やかな音が鳴る。
ガードレールに腰かけるように寄り掛かって煽ると、軽い刺激が喉を伝い落ちた。
視界に入った空は、端からゆっくりとオレンジ色に染まりかけている。
日の入りが早くなった事で、季節の移り変わりを感じた。
炭酸水を半分まで減らしたところで、羊花はガードレールから背を浮かせる。
さて帰るかと大通りへと戻った羊花は、そこで足を止めた。
「うわ」
見知った顔を見つけ、羊花は小さく呻く。
誰かと連れ立って歩いているのは、鱒渕だった。
篠木の説教が効いたのか、表立って話しかけられる事はなくなったけれど、その代わりというように視線を感じる事が多くなった。鱒渕は騒がしい男だと知っていたが、視線までも煩く、ざくざくと刺さる。当然ながら羊花は、益々、鱒渕を避けるようになった。
羊花は慌てて、来た道を戻る。
角からそっと様子を窺った。
(こんなとこで何してるんだろ? 隣は咲良ちゃん……じゃないな)
鱒渕の隣を歩いているのは、小柄な女の子だ。黒い髪は羊花と同じくらいの長さで、肩にかかる程度。篠木咲良とは髪色も長さも違う。
鱒渕の友達だろうかとも思った。けれど、それにしては鱒渕の表情は硬く、和やかに話しながら歩いているという雰囲気ではない。
鱒渕はいつも元気で笑顔の印象があったので、珍しいなと思う。
そして隣の女子をじっくり眺め、羊花は息を呑んだ。
「!」
鱒渕と共にいるのは、つい先日に遭遇した小学校のクラスメイト。
羊花が何故か怖いと感じた、砂川未愛だった。
蒼褪めた羊花は後退る。
視界に入ってしまわないよう、背を向けて奥へと足早に進んだ。
鱒渕は性格的に合わないから苦手というだけだが、砂川はそうではない。会いたくない、会ってはいけないと本能が忌避している。
けれど今日の羊花は、ことごとく裏目に出る。
間が悪い事に、羊花が逃げた方へと鱒渕と砂川も進んでしまった。
背後に声が近付いてきた事に気付いた羊花は、慌てて角を曲がり、細い路地へと入り込む。
息を殺して、鱒渕達の動向を窺った。
「透くん、手痛いよ」
「……悪い」
「こんな所に引っ張ってこなくても逃げないのに。強引だね」
少し高めの可愛らしい声が咎めるように言う。
しかし笑いを含んでいるので、本気で責めている様子ではない。対する鱒渕の声は、苦いものを無理やり飲み込んだかのようだった。
会話の流れから、どうやら鱒渕が砂川の腕を掴んで、大通りから小道へと引っ張ってきたらしい。
「久しぶりだね。小五の頃に転校しちゃったから、四、五年ぶりかな? 元気にしてた?」
「……なんで、ここにいるんだよ」
「酷いなぁ。女の子にそんな言い方無いんじゃない?」
楽しそうに話しかける砂川に構わず、鱒渕は硬い声で問う。しかし、邪険にされた砂川はさして傷付いた風もなく、声の調子も変わらない。
「お前……」
鱒渕の声が剣呑さを帯びる。
苛立ちを隠しもせず、鱒渕は舌打ちした。
「あんな事しておいて、全く反省してないんだな」
吐き捨てるように鱒渕は言う。
(あんな事……?)
いつも元気で明るい鱒渕らしからぬ口調と声に、内容の重さがある程度推測出来る。
けれど羊花の記憶を探っても、砂川がやったらしい『あんな事』が引っ掛からない。転校した時期も、その理由も。
ここ最近、ずっと感じている違和感が再び顔を覗かせる。
羊花の頭の中と周りの言動に齟齬がある事に、薄々気付き始めていた。
(わたし、何かを忘れてるの?)
そう自分の心に問いかけても、応えはなかった。




