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結局、放課後になっても萌絵の追及はなかった。
たぶん、否、絶対に登校途中で見かけた女の子が原因だと思う。
あの子は羊花と萌絵の小学校時代の同級生。
名前は確か、砂川 未愛。
小柄で細身で、笑うと花が咲くような可愛らしさのある彼女は、クラスの人気者だった。率先して前に出るタイプではないが、皆に愛されて、いつも輪の中心で笑っている女の子。
男子にもかなり人気が高かったが、彼女の凄いところは、女子にも人気があった事。モテすぎると萌絵のように妬まれる場合も多いが、砂川は違った。老若男女、誰からも好かれて、愛されるという稀有な才能の持ち主だ。
(萌絵ちゃんも気付いたと思う……けど、あの後、何も言わなかったな)
愕然としていた萌絵は、確実に砂川の存在に気付いていたように思う。
けれど、その話題には触れなかった。それどころか、羊花の手を引いて、逃げるように立ち去ったのは何故だろうと羊花は首を傾げる。
萌絵が女子らに虐められていた頃の同級生だが、羊花が知る限り、砂川がイジメに加担していた事はなかったはず。
(って言っても、確証はないんだよね。砂川さんと仲良くなかったし)
表面上の砂川未愛しか、羊花は知らない。
良い子のように見えたけれど、それが本質かどうかまでは分からない。
(それに……)
ぶる、と体が震える。
自室のベッドの上に仰向けで転がっていた羊花は、横向きに体勢を変える。胎児みたいにお腹を守るように丸まった。
砂川未愛を見て、羊花は即座に怖いと感じた。
その説明が自分でも出来ない。
羊花にとって彼女は、さして親しくない子供の頃の同級生。
怖がるほどに関わった事なんてないはずなのに。
頭は意味が分からずに混乱しているのに、体が勝手に怯えだす。
自分で自分を抱き締めても、震えは一向に止まらない。どんどん指先まで冷えていく。コントロールの利かない体が、余計に怖さを加速させた。
助けて、と。
誰に向けたのかも分からない呟きが、口から滑り落ちた。
それと呼応するみたいに、枕元においてあったスマホがぽこんと音を立てる。
間の抜けた音に、体の強張りが自然と解けた。
のろのろと顔を上げた羊花は、スマホに手を伸ばす。
覗き込んだ画面に映っているのは、黒崎からのメッセージ受信の通知だった。
「……っ」
『元気か』とか、なんてタイミングだろう。
「全然、元気じゃないです……」
そう口で返しながらも、さっきまで泣きそうだった羊花の顔には僅かに笑みが浮かんでいた。
メッセージアプリを開く。『元気ですよ』と当たり障りのない返事をすると、即座に既読が付いた。
しかしすぐには返ってこない。
暫しの間を置いて、再びスマホが鳴った。
『今、時間空いてる?』
簡潔なメッセージに、『大丈夫です』とこちらも端的に返す。
『電話したい』
「……え」
戸惑うような声が洩れた。
メッセージの遣り取りはあっても、黒崎と電話した事なんてほぼ無い。元々、あまり電話が得意ではない羊花は、答えに迷った。
せっかくまた黒崎から歩み寄ってくれたのに、無下にしたくない。
それに緊張はしていても、嫌ではないのだ。
羊花は深呼吸をしてから、了承のスタンプを押した。
「わっ!?」
すぐにスマホが鳴り始め、思わず取り落としそうになる。
両手でしっかり持った後、通話ボタンをタップした。
「も、もしもし」
『ひつじ?』
低い声が、耳に滑り込んでくる。
久しぶりという程、久しぶりではない。それ以前に、さして長い付き合いでもない。それなのにホッとしている自分に気付いて、羊花は動揺した。
(いつの間に、こんな)
最初は、ただ怖くて、迷惑で。
静かに暮らしたいのに、全然放っておいてくれない彼等に辟易していた。
なにが楽しくて、地味でつまらない自分を構ってくるのか羊花には理解が出来なくて、一日も早く飽きてほしいと、そんな事ばかり思っていたのに。
いつの間に、こんな深くまで入り込まれていたのか。
『ひつじ? 聞こえてるか?』
ぼんやりしている間、放置してしまった黒崎が訝しむように問う。
「ああ、はい。ごめんなさい、聞こえてます」
『……お前、元気なんて嘘だろ』
「え……」
『そんな情けない声で誤魔化せると思うなよ』
呆れと慈しみが混ざったような、優しい言い方だった。
穏やかな声で、でも否定を許さない強さがある。
『オレが傍にいない間に、何があった。何がお前を不安にさせてる?』
「別に、なにも無い、です」
不安なんて山ほどある。
小学校の同級生だった女の子が怖いんだけど、理由が分からないとか。
萌絵に隠し事がたくさんあって、嫌われないか怖いとか。
偽物が出没しているという噂の、対処法も分からない。
黒崎の探している女の子は、彼にとってどんな存在なのか。それから自分は、黒崎をどう思っているのか。
多すぎて、キリがない。
『嘘吐き』
咎めるような、鋭さはない。
吐息のように甘く柔らかな声に、ぐっと涙が滲みそうになった。
「嘘じゃないですよ」
『なら、顔見せて』
意地を張って突っ撥ねた羊花は、返ってきた言葉にきょとんとする。
ビデオ通話に切り替えろって事だろうかと、スマホから少し顔を離す。
『窓、開けて。南側の方』
「!?」
予想外過ぎる指示に、羊花は更に目を見開く。
南ってどっちだっけと一瞬迷った後、ベランダに出る掃き出し窓を開けた。手摺りに手をかけて、身を乗り出す。
ところどころ街灯に照らされた夜の道路の隅っこ。羊花の家のお向かいの壁に寄り掛かっている長身の影が、唖然とした羊花に向かって、ひらりと手を振った。
『すげー顔』
笑い混じりの声が、スマホから聞こえる。
「だっ……」
誰のせいだと言い返そうとした羊花は、自分の口を手で押さえた。
夜の住宅街で騒いだら近所迷惑だし、入浴中の兄に聞こえたら面倒な事になる。
羊花は身を翻すと、室内へと戻った。
クローゼットから薄手のカーディガンを引っ張り出して、足音をなるべく立てないように階段を下りる。
玄関に出しっぱなしになっている兄のサンダルをつっかけて、外に出た。大きすぎて、すっぽ抜けそうになるのを誤魔化しながら、門扉を開ける。
壁から背を浮かせた黒崎は、スマホの通話をきってから羊花に近付いてきた。
「夜にほいほい外に出るなよ。危ねぇだろ」
「誰のせいですか」
今度こそ飲み込む事はせず、そのままストレートにぶつける。
軽く睨む羊花に、黒崎は無言のまま手を伸ばす。何事かと羊花は身構えたが、黒崎は気に留めずに、彼女の前髪をそっと手で梳いた。慌てて出てきたせいで、乱れていたらしい。
ぽかんと見上げた先の視線はとろりと甘く、羊花は絶句する。
黒崎はそんな羊花を見て、目を細めた。肩からずり落ちかけていたカーディガンを、かけ直してやる仕草さえも甘ったるい。
「ごめんな」と呟く声の優しさに、酷く落ち着かない心地になった。
「お前の顔が見たかったんだ」
「……!」
(そんなのズルい……!)
そんな顔で、そんな言葉をかけられたら、羊花でなくとも勘違いしてしまうだろう。
自惚れないよう戒めていたはずなのに、簡単によろめく自分に、羊花は歯噛みした。
「あと、渡すものがあった」
顔を赤らめて固まる羊花を他所に、黒崎はマイペースだ。
黒革のボディバッグの中を探り、小さな袋を取り出す。差し出されたのを、羊花は反射的に受け取ってしまった。
「これは?」
「ブラウニー」
「!」
ここ最近、食べる事が出来なかった黒崎の手作りスイーツだと知り、羊花の目が輝く。
そんな羊花の様子を見て、黒崎も嬉しげに笑う。
「他にもリクエストがあれば、連絡寄越せ。持ってくる」
「えっ、それは申し訳ないです。いつも貰ってばっかりで何も返せてないのに」
慌てて首を横に振る羊花に、黒崎は軽く首を傾げた。
「こないだ貰っただろ」
心当たりのない羊花が不思議そうな顔をしていると、黒崎は端的に『クッキー』と付け加える。
(あれ? クッキーは焼いたけど、結局タイミング悪くて渡せないままだったような……。って、もしかしてあの、色気も素っ気もないジッ〇ロック入りのやつ!?)
「あれじゃ全然、お返しになってないです」
「いいんだよ。そもそも、何か返してほしくてやってる訳じゃない」
引く様子のない黒崎に、羊花は納得がいかないながらも頷く。
「純粋に料理が好きって事ですか」
あれだけ上手なら、いつか仕事にするつもりなのかもしれない。
試食させてくれているのかな、と呑気な羊花の思考を読み取ったかのように、黒崎は苦笑した。
「好きなのはそっちじゃない」
「え?」
「求愛給餌って、聞いた事ないか?」
きゅうあいきゅうじ、と羊花は鸚鵡返しする。
しかし異国の言葉みたいに、意味を理解出来ずにいた。
本好きの羊花は、もちろんその言葉は知っている。どんな風に使われるかも。けれど、それを上手く黒崎と自分に当て嵌められない。
頭が熱暴走を起こしたみたいに、思考が上手く纏まらない。
たぶん漫画だったらグルグル目になってそうな程、羊花は混乱していた。
真っ赤な顔でパンク寸前の頭を抱えた羊花に、黒崎はおかしそうに喉を鳴らす。
羊花の前髪を掬い上げて、形の良い額に、ちゅっと唇を落とした。
「!?」
「おやすみ」
機嫌の良い黒崎は、来た時と同じようにひらひらと手を振って去っていく。
後に残された羊花は、手で額を押さえたまま固まるしかない。
「体冷やす前に、中に入れよ」
一回だけ振り返った黒崎は、保護者のような口ぶりで羊花に告げる。
我に返った羊花は脱兎の如く逃げ出し、玄関先でへたり込んだ。




