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「うらぁああああ!」
「死ねやごらぁああああ!!」
「ひぃいいい……っ」
派手な破壊音と怒声が響き渡る中、真白 羊花は頭を抱えて縮こまった体勢のまま、小さな悲鳴を洩らした。
現在時刻、十九時半。
現在地、公園の茂みの中。
隠れているうちにヤンキー同士の喧嘩が勃発してしまい、出るに出られないまま、半泣きになっている。今ココ。
羊花は都立高校に通う、十六歳の少女だ。
容姿は並で学力も並。特別に上げ連ねるような特技はなく、運動神経は若干鈍いくらい。友達は多くも少なくもなく、性格も良くも悪くもない。目立つ特徴といえば、過剰な程にビビりである事くらいか。
そんな何処にでもいる女子高生である羊花には、一つだけ、人とは違うところがある。
それは『前世の記憶がある』というもの。親や友人であっても、打ち明けるタイミングと話し方次第では、ヤバい人というレッテルを貼られ兼ねない取扱注意の爆弾を抱えている。
しかし、前世の記憶があるといっても大して役立った事はない。
羊花の前世と現世の世界は、文化レベル的にも時代的にも大差はなかったので、知識チートで無双なんて夢のまた夢でしかなく。
勉強については小学校……頑張れば中学校くらいまでは神童のフリが出来たけれど、羊花はそれもしなかった。途中からぼろが出るのは分かりきっていたし、何より、教育というのは年単位で変化する生ものだ。
学校で教わる内容と羊花の持つ知識とは殆ど同じだったが、若干のずれがあった。
変な癖をつけるよりはと、羊花は同年代の子供と同じくまっさらな気持ちで授業を受けた。前世で多少アホだったのも幸いしてか、特に不審がられることもなく、普通の子供として、すくすくと成長した。
つまり羊花にとって前世の記憶というものは、無用の長物に過ぎなかった。
たまに前世を思い出す事はあれど、あの学校の制服、前世のアニメで見たデザインに似ている、とか。隣のクラスのイケメンが、大好きだった漫画の登場人物に激似とか。
人生を彩る、ちょっとしたスパイス程度以上の意味はなかった。
前世の知識を持っていても、羊花の人生に変化はない。ドラマティックとは程遠い、ごくありふれた平和な日常を、今日も謳歌していた……はずだった。
(なんでこんな事になっちゃったのぉ……?)
羊花が平和な日常から逸脱した最初の分岐点は、塾からの帰り道だった。
塾から自宅へと通じる道にある一軒家で、最近、犬を飼いだした。
人懐っこいシベリアンハスキーで外飼い。まだ幼いせいもあってか、よく吠える。羊花が前を通り過ぎる間も吠えまくる。
羊花はビビりだから、大きい音が苦手だ。
シベリアンハスキーは遊んでほしいだけなのだが、そんなのは羊花の知ったこっちゃない。吠えられる度に半泣きになって家まで全力疾走している。
今日も吠えられるのかと思うと憂鬱で、つい羊花は、遠回りの帰り道を選んでしまった。
次の分岐点は、公園前に差し掛かったところ。
今日は蒸し暑く、羊花は喉の渇きを覚えた。そして道路から見える位置、公園の奥の方に自販機を見つけた。
ビビりな羊花は滅多に寄り道などしないが、今時期は日没が遅く、まだ完全には暗くなっていなかったので気が緩んだ。
少しくらい大丈夫だろうと自販機へと向かい、電子カードを手に、暫し悩んだ。
CMで気になっていた新作のフルーツティーと、いつも買うブレンド茶。どっちにしようか悩んでから前者にした。
そして最後の分岐点は、その後すぐ。
元の道へと戻ろうとした羊花だったが、そこに怖そうなお兄さん達が集まっているのを見て、足を止めた。
逆方向にも、公園の出入り口はある。でも羊花の帰り道とは直接的には繋がっていないので、遠回りになる。
少し待っていればいなくなるかなと考えて、羊花は待つ事にした。自販機の影に隠れるようにして、フルーツティーを堪能していた。
しかし怖いお兄さんは、一向にいなくなる気配がない。
それどころか人数がどんどん増えている。
逆方向の出入り口も既に別の怖いお兄さん達が固めているし、逃げ場をなくした羊花は、近くの茂みに身を隠した。
そうこうしているうちに、本格的に喧嘩が始まり、今に至る。
耳を押さえて目を閉じていても、怖い音が絶えず聞こえる。
ごきっとか、ばきっとか、ごしゃっとか。羊花はその出所を一生特定したくないと思った。
「おらぁあああ!」
「ぐえっ!?」
「ひぇっ」
羊花の隠れる茂みの傍に、ずしゃああああっと勢いよく誰かが倒れ込む。
小さく飛び上がった羊花は、悲鳴を零した口を両手で押さえた。
(近い……! 倒れた人がそのままこっちを向いたら、見つかっちゃう……!?)
羊花の心臓は、壊れそうなほど早鐘を打っていた。
(み、見つかったらどうなっちゃうんだろ……)
真っ青な顔の羊花はどんな想像をしたのか、更に顔色が悪くなっていく。
(や、やだよぅ。ぼろ雑巾みたいにして捨てられるのはいやだ)
羊花の脳裏に、前世でハマっていたヤンキー漫画が思い浮かぶ。
喧嘩のシーンは痛々しくはあったけど、少年漫画らしく、主人公や彼を取り巻くキャラクター達は皆、独自の信念があり、女子供に手を上げるなんてとんでもないという人達だった。
でも現実は、きっと違う。
そういう人がいないとは言わない。でも違う人もいっぱいいる。
「ってぇ……」
呻きながら男は地面に手を突く。
身を起こそうとした男を凝視しながら、羊花は固まっていた。身動ぎ一つ、瞬き一つすら出来ない。両手で口を押さえ、天に祈る事しか出来なかった。
顔を上げた男は、ふと目の端に映ったものを追うように、羊花の方を向く。ぼんやりと焦点が定まらなかった眼差しが、羊花を捉え、だんだんと光を取り戻していくのを、彼女は絶望しながら見守った。
「……お、」
「邪魔だ」
男が羊花を指さそうと手を持ち上げた、その直後。長い脚が、男を容赦なく蹴り飛ばす。
カエルみたいな声をあげて、男は吹っ飛んだ。
羊花は目を見開いたまま、動きを止める。
「おお、凄ぇ飛んだね。さっすが総長」
場にそぐわない明るい声がした。
「つーか、なんでこいつ等、こんな場所でおっぱじめてんのかね。誰のシマか理解してないのかな」
「……壮馬。小銭」
楽しげな声に返事する事なく、もう一人はマイペースに言う。
「小銭?」
「財布忘れたから貸せ」
「優しい壮馬さんが奢ってあげよう。出世払いで万倍にして返してね」
「奢りの意味を辞書で引け」
軽快な電子決済の音の後に、ペットボトルが落下した音が続く。
身を屈めて取り出し口に手を突っ込んだ方の男は、何かに気付いたように一度、動きを止める。
ペットボトルをもう一人の男に押し付けてから、迷いなく、羊花の隠れる茂みへと近づいてきた。
木の枝を掴んで掻き分けた男の前に、羊花の姿が現れる。
「…………」
驚きと恐怖に言葉も出ない羊花を、黒髪の男はまじまじと眺めた。
「どったの、総長? なんかあった?」
「なんか小っこいのがいる」
「おっ、猫? 犬? 可愛い?」
黒髪の男の言葉に興味をそそられたのか、茶髪の男が背後からひょっこりと顔を覗かせる。そして羊花を見て、目を丸くした。
「女の子じゃんか。なんでこんなところにいるの?」
至極、当然の質問。怒鳴り声ではなく、普通のトーンで投げかけられた事に安心したのか。それともとうとう、恐怖が限界値に達したのか。
羊花の目から、大粒の涙が零れ落ちた。
「えっ!? ちょ、待った!!」
「うぇええええ……っ!」
羊花は子供みたいな声をあげながら、滂沱の涙を流す。
「女を泣かせんなよ……」
「オレのせいじゃなくない!?」
非難の眼差しを向けられ、茶髪の男は憤慨した。
「やだぁ……ぼろ雑巾にされたくないよぉ……っ」
「しないよ!?」
「とりがらで食べ応えないから、見逃してくださいぃ……」
「もはや鬼か何かだと思われてない!?」
ツッコミを入れる茶髪の男を無視し、黒髪の男は羊花に手を伸ばす。
子供にするみたいに両脇に手を入れて持ち上げると、縦抱きにした。
「ひぇ……っ?」
羊花は何をされているのか、理解が追い付いていない様子で固まっている。
寧ろ慌てたのは茶髪の男の方だ。
「総長、アンタ何してんの!?」
「軽い。確かに食うとこなさそうだな」
「!?」
黒髪の男の発言に、羊花はビクリと大きく跳ねた。やっぱり食べるんだ、と考えているのが、どんどん蒼褪めていく顔色で分かる。
「大丈夫、食べない、食べないから! その人、顔は怖いけど女には暴力振るわないし!」
小刻みに震えだした羊花を安心させようと、茶髪の男が必死にフォローする。
「壮馬、シャツ貸せ」
「なんで」
「いいから」
理由も言わない黒髪の男の手に、茶髪の男は渋々、脱いだカッターシャツを渡した。ちなみにシャツの下にTシャツを着ているので裸にはなっていない。
黒髪の男は受け取ったシャツを、羊花の頭から被せる。
「あー……。総長が女連れだと目立つからか」
納得したように頷く茶髪の男に、黒髪の男は羊花のカバンを押し付けた。
黒髪の男は、抗争の真っ最中である公園の中央を、そのまま突っ切るようにしてスタスタと歩き出す。
正気かと気を失いそうになっている羊花がきつくしがみ付いても、男の足元に人間が倒れ込んでも、その歩みは一切乱れない。
「っんだ、テメェ!?」
黒髪の男の存在に気付いたのか、ヤンキー達が周りを取り囲む。
「なに悠々とお散歩してやが……っぐあ!?」
「退け」
殴りかかってきた男の腹を蹴り倒す。
キレのある蹴りをモロに食らい、男は吹っ飛んだ。
「な、なんだコイツ!?」
「……って、待った!! その人らに手ぇ出すな!!」
怯んだヤンキーの中の一人が、手を挙げて周囲を制す。
真っ青な顔したそのヤンキーは、震える声で続けた。
「Zooの総長、黒崎 司狼と、副総長の浅黄 壮馬だ……!」
「げぇっ!?」
「マジかよ……!? ZooってあのZooか!?」
怯えたようにヤンキー達は後退り、黒髪の男……黒崎の前に道が出来る。彼は何事もなかったかのように再び歩き出した。
「さんをつけろよ、殺すぞ?」
その後を追いながら、茶髪の男……浅黄は笑顔で物騒な事を言う。
「すんませんっしたぁあああ!!」
異口同音。取り囲んでいた人間だけでなく、公園にいたヤンキー全てが叫んで、一斉に頭を下げる。
周囲の建物のガラスを震わすような大合唱に、羊花のギリギリだった精神は白旗を上げた。
ふつりと意識を失う直前、羊花の頭に引っかかる。
(Zooに、司狼に、壮馬……? どこかで聞いた事があるような……)
覚えているのは、そこまでだった。